劉義符2 北魏侵攻
また改元して
臣下の階級をそれぞれ二階級昇格させた。
27日には
が、同日には
更に
虎牢関に詰めていた
北魏軍を何度か撃退するも、
一旦引いてはすぐに軍勢を整え、
再び攻め込んでくる。
拓跋嗣は、ここで更に
29日には
2月12日、
3月に入ると、北魏軍は
そもそも北魏軍は、
劉裕の
攻撃を仕掛けて失敗してきて以来、
和議を申し入れてきていた。
だというのに、劉裕が死んだと見るや、
すかさず攻め入ってきたわけである。
こうして
再び争乱のただ中に陥った。
4月、
ようやく救援の部隊を編成し終えた
北魏軍の攻城器具類を焼いた。
しかし一方で虎牢関が陥落、
毛德祖が捕われてしまった。
明年春正月己亥朔,大赦,改元為景平元年。文武進位二等。辛丑,祀南郊。虜將達奚卬破金墉,進圍虎牢。毛德祖擊虜敗之,虜退而復合。拓跋木末又遣安平公涉歸寇青州。癸卯,河南郡失守。乙卯,有星孛于東壁。三月乙丑,虜騎寇高平。初虜自河北之敗,請修和親;及聞高祖崩,因復侵擾,河、洛之地騷然矣。夏四月,檀道濟北征,次臨朐,焚虜攻具。乙未,魏軍克虎牢,執司州刺史毛德祖以歸。
明くる年の春、正月の己亥の朔、大赦し、改元し景平元年と為す。文武の位を二等進む。辛丑、南郊にて祀る。虜の將の達奚卬は金墉を破り、進みて虎牢を圍む。毛德祖は虜を擊ちて之を敗るも、虜は退きても而して復た合す。拓跋木末は又た安平公の涉歸を遣わせ、青州を寇す。癸卯、河南郡を失守す。乙卯、星孛を東壁に有す。三月の乙丑、虜騎は高平を寇す。初にして、虜は自ら河北の敗にて、和親を修めんと請いたり。高祖の崩ぜるを聞きたるに及び、因りて復た侵擾し、河、洛の地は騷然たるなり。夏の四月、檀道濟は北征し、臨朐に次し、虜が攻具を焚く。乙未、魏軍は虎牢を克り、司州刺史の毛德祖を執えたるを以て歸す。
(宋書4-2_衰亡)
この辺の話は魏書にも詳しく乗っている。と言うか魏書の方が詳細だし、宋書がシカトしてる北部戦線の、実際に身体を張った将軍たちの名前を残してくれている。まぁ、宋書にとっては「遠い田舎の出来事」、魏書にとっては「島夷撃退の大戦果」にもなるから仕方ないですよね。
つーか宋書よりも魏書のほうが敵将の名前を正確に記録してんのが笑えない。宋書の記述、雑すぎだろ……まぁ鮮卑語の名前をそのまま当て字にした(宋側)か、漢人っぽく当て字をアレンジした(魏側)って違いはありそうですが。
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