劉裕31 南燕征伐
しかし掃討戦は順調ではなかった。
桓玄の死後十数日が経っても、
残党を掃討することはかなわずにいた。
桓玄の從子・
数千人の手勢を集めて再起し、
早朝に
住民らは先を争って城内から逃げ出した。
桓振の挙兵に呼応して挙兵した。
桓振は桓玄の死を悼み、喪廷を建てた。
桓謙は配下とともに
桓振と
桓玄の郎党である
伏兵として襲い掛かったため
何無忌らは奔敗、
辛禺は劉該を討つ素振りをして
叛意を明らかとした。
しかし辛禺の
首を
10月、劉裕には
甲仗百人を引き連れての入殿が許された。
劉毅は
12月には
404年1月、劉毅は
桓謙、桓振を破り、江陵を平定、安帝を迎え入れた。
3月、安帝は江陵に到着。以下に詔した。
「劉裕殿を
元のとおりとしたい」
劉裕は昇進を辞退した。
錄尚書事の地位の加増も辞退し、
京口に戻りたい旨をしばしば乞うたが
受理されなかった。
安帝は多くの下僕を遣わせて劉裕を篤く歓待し、
また自ら劉裕の屋敷に赴きさえした。
劉裕は畏れ多いことと
歓待を断ろうと思ったが叶わなかった。
後日
安帝はそちらにも大使を遣わせて
歓待しようとしたが、それは受けなかった。
改めて
それまでの九州を合わせて、
合計十六州ぶん都督するよう任じられた。
もともとの官位は保たれた。
青州刺史の任務は解されたが、
代わって
3月、
盧循を廣州刺史とし、
郎党である
405年3月、劉裕は交州、廣州の都督にもなった。
10月、劉裕は
「桓玄打倒の折、我々は晋国のために
粉骨砕身の働きをしました。
私や劉毅ら272人が、
また建康に至り、実際に干戈を交えた折には
1566人余りとなりました。
また
10名の郎党も加わり、合わせて1848人が、
こたびの義挙に対する恩賞を乞うております。
現在西征の途についている諸軍についての恩賞も、
同じくご検討ください。」
と上奏した。
そこで尚書が謀主である劉裕に
と上奏した。郎党への封賞については、
功績に応じて差がついた。
鎮軍府佐吏には,
官僚たちがそのままもたらされた。
11月、安帝は、改めて劉裕に
侍中、車騎將軍、開府儀同三司の昇進を打診したが、
劉裕は固讓した。
安帝は敦勸を派遣した。
406年2月、劉裕が建康に戻り、
廷尉に詣でようとすると、
安帝は先に獄官を招しており、これを受けず、
宮廷前の門にて接見、上奏を聞いた。
劉裕は京口に戻った。
閏月、府將・
たくらんでいたが即露見し、逃走した。
その後捕まり、斬られた。
駱冰の父は
駱球は元々
反孫恩の軍を立ち上げたことがあった。
その為桓玄に重用されていた。
桓玄が敗北したとき、
桓玄と祖父を同じくしたものは
ことごとく罪に問われていたが、
桓沖の封爵を継いでいた孫の
特例として見逃されていた。
しかし駱冰がそんな桓胤を謀主として推戴。
殷仲文とその弟二名は速やかに誅殺された。
桓玄残党は、この件をもって掃討された。
安帝は劉裕に太常・
12月、
407年1月、劉裕は建康に召し出され、
侍中、車騎將軍、開府儀同三司、
揚州刺史、錄尚書の地位を授与された。
徐兗二州刺史の地位は保たれたままだったが、
表向きは兗州刺史の座を解任となった。
その前に
討伐に出たが為し得ず、撤退していた。
9月、劉敬宣は退官の意を示したが、
許可されなかった。
劉裕は
開府はそのまま認められた。
さて、偽の
慕容德が死ぬと、甥の
この頃晋と燕との国境付近で
しばしば侵略があった。
408年2月、
千余の家に対して掠寇を働いた。
3月、劉裕は燕を討伐することを表明、
中軍の監督、建康の警護を任せた。
4月、水軍は健康を出発し、
5月、
船艦輜重を停泊させ、陸路にて
途中で戦闘はなかった。
燕の
晋軍が迫っていると聞くと、
慕容超に
「ここは
待ち構え、その侵攻を阻むべきです。
粟苗を刈り取らせる事によって、
敵の現地調達を不可能にするのです。
つまり、守りを固めて補給を断ち、
その釁を窺うのです」
と説いたが、慕容超は従わなかった。
「晋軍には遠征の疲労があり、
その勢いもやがて衰えよう、
大峴は通過させて構わぬ、
わが軍の戦車鉄騎で踏み躙れば、
たやすく打ち破れることであろう。
食料を手に入れたとて、かの者らは
遠征の末に弱り果てることであろう」
さて劉裕が出発しようとしたときのこと。
劉裕に食い下がる者がいた。
「奴らは劉裕様が大軍を率いて
攻め寄せてきたと聞けば、
敢えてこちらを進軍させるに任せ、
戦おうとはしないでしょう。
途中の
道中の粟と言う粟を刈り取り、
我々に現地調達を許さず、
軍資の浪費を狙ってくるでしょう。
もしそうなってしまえば、
南燕を攻め滅ぼすことはおろか、
撤退すらままならなくなりますぞ!」
この諫言に対し、劉裕は言う。
「俺もそこは重々に考えたさ。
が、
およそ遠望というものがない。
進軍すれば根こそぎ掠奪するし、
撤退する時には粟を惜しむ。
おそらく、我々が遠征だから
その勢いも長くは続かない、
と見なし、
広固で待ち構える腹なのだろうよ。
一方の、我々だ。
いったん大峴山に上ってしまえば、
もはやそこは敵地。
進むも地獄、退くも地獄よ。
誰もが決死隊となり、
捕われることを
恐れるようになるだろう。
我々が決死隊とさえなってしまえば、
弱腰の南燕軍を破るのに、
なんの憂慮を抱く必要があろう。
その上、進軍ルートには
糧秣が遺されており、
我々には道中の食料も
確保されているだろう」
そして劉裕は大峴を確保。
山頂から南燕の地を眺め、
見立て通り粟が
青々と実ったままでいたのを見、
天を指さし、言った。
「我が事、済めり!」
勝った、と宣言したのだ。
初玄敗於崢嶸洲,義軍以為大事已定,追躡不速。玄死幾一旬,眾軍猶不至。玄從子振逃於華容之涌中,招聚逆黨數千人,晨襲江陵城,居民競出赴之。騰之、康產皆被殺。桓謙先匿於沮川,亦聚眾以應。振為玄舉哀,立喪廷。謙率眾官奉璽綬于安帝。無忌、道規既至江陵,與桓振戰于靈溪。玄黨馮該又設伏于楊林,義軍奔敗,退還尋陽。
兗州刺史辛禺懷貳。會北青州刺史劉該反,禺求征該,次淮陰,又反。禺長史羊穆之斬禺,傳首京師。十月,高祖領青州刺史。甲仗百人入殿。
劉毅諸軍復進至夏口。毅攻魯城,道規攻偃月壘,皆拔之。十二月,諸軍進平巴陵。
義熙元年正月,毅等至江津,破桓謙、桓振,江陵平,天子反正。三月,天子至自江陵。詔曰:「鎮軍可進位侍中、車騎將軍、都督中外諸軍事,使持節、徐青二州刺史如故。」
高祖固讓。加錄尚書事,又不受,屢請歸藩。天子不許,遣百僚敦勸,又親幸公第。高祖惶懼詣闕陳請,天子不能奪。是月,旋鎮丹徒。天子重遣大使敦勸,又不受。乃改授都督荊、司、梁、益、寧、雍、涼七州,并前十六州諸軍事,本官如故。於是受命解青州,加領兗州刺史。
盧循浮海破廣州,獲刺史吳隱之。即以循為廣州刺史,以其同黨徐道覆為始興相。
二年三月,督交、廣二州。十月,高祖上言曰:「昔天禍皇室,巨狡縱篡,臣等義惟舊隸,豫蒙國恩,仰契信順之符,俯厲人臣之憤,雖社稷之靈,抑亦事由眾濟。其翼獎忠懃之佐,文武畢力之士,敷執在己之謙,用虧國體之大。輒申攝眾軍先上,同謀起義,始平京口、廣陵二城,臣及撫軍將軍毅等二百七十二人,并後赴義出都緣道大戰,所餘一千五百六十六人,又輔國將軍長民、故給事中王元德等十人,合一千八百四十八人,乞正封賞。其西征眾軍,須論集續上。」於是尚書奏封唱義謀主鎮軍將軍裕豫章郡公,食邑萬戶,賜絹三萬匹。其餘封賞各有差。鎮軍府佐吏,降故太傅謝安府一等。
十一月,天子重申前令,加高祖侍中,進號車騎將軍、開府儀同三司。固讓。詔遣百僚敦勸。
三年二月,高祖還京師,將詣廷尉,天子先詔獄官不得受,詣闕陳讓,乃見聽。旋于丹徒。
閏月,府將駱冰謀作亂,將被執,單騎走,追斬之。誅冰父永嘉太守球。球本東陽郡史,孫恩之亂,起義於長山,故見擢用。初桓玄之敗,以桓冲忠貞,署其孫胤。至是冰謀以胤為主,與東陽太守殷仲文潛相連結。乃誅仲文及仲文二弟。凡桓玄餘黨,至是皆誅夷。天子遣兼太常葛籍授公策。
十二月,司徒、錄尚書、揚州刺史王謐薨。
四年正月,徵公入輔,授侍中、車騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史、錄尚書,徐兗二州刺史如故。表解兗州。先是遣冠軍劉敬宣伐蜀賊譙縱,無功而返。九月,以敬宣挫退,遜位,不許。乃降為中軍將軍,開府如故。
初偽燕王鮮卑慕容德僭號於青州,德死,兄子超襲位,前後屢為邊患。五年二月,大掠淮北,執陽平太守劉千載、濟南太守趙元,驅略千餘家。三月,公抗表北討,以丹陽尹孟昶監中軍留府事。四月,舟師發京都,泝淮入泗。五月,至下邳,留船艦輜重,步軍進琅邪。所過皆築城留守。鮮卑梁父、莒城二戍並奔走。
慕容超聞王師將至,其大將公孫五樓說超:「宜斷據大峴,刈除粟苗,堅壁清野以待之。彼僑軍無資,求戰不得,旬月之間,折棰以笞之耳。」超不從,曰:「彼遠來疲勞,勢不能久,但當引令過峴,我以鐵騎踐之,不憂不破也。豈有預芟苗稼,先自䠞弱邪。」
公將行,議者以為賊聞大軍遠出,必不敢戰,若不斷大峴,當堅守廣固,刈粟清野,以絕三軍之資,非唯難以有功,將不能自反。公曰:「我揣之熟矣。鮮卑貪,不及遠計,進利剋獲,退惜粟苗。謂我孤軍遠入,不能持久,不過進據臨朐,退守廣固。我一得入峴,則人無退心,驅必死之眾,向懷貳之虜,何憂不剋。彼不能清野固守,為諸君保之。」公既入峴,舉手指天曰:「吾事濟矣!」
公の將に行きなんとせるに、議者は以て為えらく「賊は大軍の遠きより出づるを聞きたらば、必ずや敢えて戰わず、若し大峴を斷たずして、當に廣固を堅守し、粟を刈り野を清めたらば、以て三軍の資は絕え、非唯だ有功の以て難たるのみならず、將に自ら反りたる能わざらん」と。公は曰く:「我れ之を熟ろに揣りたる。鮮卑は貪にして、計は遠きに及ばず、進むに剋獲を利し、退くに粟苗を惜しまん。謂うに我が孤軍の遠きより入りたるに、久しく持ちたること能わざれば、過り進まず臨朐に據し、退きて廣固を守らん。我れ一に峴に入りたるを得たらば、則ち人をして退心無からしめん。必死の眾の驅くるに、貳を懷きたる虜に向かわば、何ぞ剋さざるを憂わんか。彼れ清野固守せる能わじ、諸君は之を保ちたるを為さん」と。公は既にして峴に入りたれば、手を舉げ天を指して曰く:「吾が事濟めり!」と。
(宋書1-30_暁壮)
※はじめに訳したとき宋書の内容結構かっ飛ばしてたのを補填してるんですが、なんかここ、凶悪なまでの漏れがありました。よくこんなにすっ飛ばしたな俺。訓読はキツすぎるので諦めました。
にしてもこの辺りのエピソードは、気持ち悪いくらい劉裕の読みが当たり過ぎていて、ぶっちゃけ劉裕ってヤバい諜報網敷いてたんじゃねーのって印象もある。というかこの人、宋書記述読むだけだと異次元の察知能力もっているようにしか見えないんですよね。圧勝なのは間違いないにしても、もっとこう、入念な下準備はあったんだろうなーと思うのですよ。
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