宋帝本紀

高祖劉裕 宋書上

劉裕1  劉裕の出自   

そう高祖こうそ 武皇帝 劉裕りゅうゆう



劉裕はあざなを徳與とくよ、幼名を寄奴きどと言う。

漢の高帝こうてい劉邦りゅうほうの弟、劉交りゅうこうの子孫である、

と伝わっている。詳細は謎。


先祖代々の住まいは彭城ほうじょう郡彭城県綏輿すいこう

しかし永嘉えいかの乱に際し、曽祖父の劉混りゅうこん

長江を渡り、晉陵しんりょう丹徒たんと京口けいこうに移住。

劉混は、そこで武原ぶげん令の地位に収まった。


祖父の劉靖りゅうせい東安とうあん太守になった。


父の劉翹りゅうぎょうは晉陵郡功曹であったが、夭折。

皇帝の父であるから、皇考、と呼ばれた。


劉裕の誕生はしんの哀帝の時代、

西暦 363 年 4 月 16 日の夜。

(旧暦では 3 月 17 日)


成長すればその身長は

約 171 cmにまでなった。

いかにも大物と言った風格があった。


家は貧しかったが、

胸には大志を抱いていた。


あまり細かい事に

頓着する口ではなかったが、

劉裕を産んですぐに死んだ生母に代わって

育ててくれた継母によく仕え、

孝行息子だ、と評判になっていた。




高祖武皇帝諱裕,字德輿,小名寄奴,彭城縣綏輿里人,漢高帝弟楚元王交之後也。曽祖混,始過江,居晉陵郡丹徒縣之京口里,官至武原令。混生東安太守靖,靖生郡功曹翹,是為皇考。高祖以晉哀帝興寧元年歲次癸亥三月壬寅夜生。及長,身長七尺六寸,風骨奇特。家貧,有大志,不治廉隅。事繼母以孝謹稱。


高祖武皇帝が諱は裕、字は德輿、小名は寄奴、彭城縣綏輿里の人、漢高帝が弟の楚元王の交の後なり。曽祖の混の始めて江を過れるに、晉陵郡丹徒縣の京口里に居し、官は武原令に至る。混は東安太守の靖を生み、靖は郡功曹の翹を生む。是れが皇考と為る。高祖は晉の哀帝の興寧元年、歲次は癸亥、三月の壬寅が夜を以て生まる。長ずるに及び、身長は七尺六寸、風骨は奇特なり。家は貧しく、大志を有し、廉隅を治めざる。繼母に事うるを以て孝謹なるを稱えらる。


(宋書1-1_為人)




親世代の官位について

劉裕の先祖が実際に劉交であるかどうかには大いに疑義が挟まれるところですが、親や祖父の官位は、ほぼ正しいと思われます。と言うのも生母、継母、妻の家族も似たような官位についているから。この時代の婚姻は、いまも割とそうではありますが、「家格的に釣り合っている」ことがかなり重要。なので、姻戚の地位からも家格はわりと占えてしまうのです。


劉翹

劉裕が十歳の頃に死亡。産んだ時にはもう家庭は極貧だったそうだから、お世辞にも能吏ではなかったのだろう。


趙安宗

劉裕の生母。劉裕を生んだ日に死亡。弟の趙倫之ちょうりんしに伝がある。


蕭文壽

劉裕の継母。甥の簫思話に伝あり。劉道憐りゅうどうれん劉道規りゅうどうきを生む。


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