22. 悪魔

「えっ、また移動するの!?」


 意識が「向こう」にひっぱられる中、素っ頓狂とんきょうな声が聞こえる。


「ああ、もう……全然話せてないし」


 俺の腕を掴んで何やらブツブツ言ってるけど、俺にはどうしようもない。

 呼ばれたら行くしかない。いつからか、そういうふうになっている。俺の意思は関係ないし、俺の意思、意思、俺がしたいこと、俺の感情、俺の感覚、痛い、痛い、いたい……


「なんで血吐いたの!? 大丈夫!?」


 さっきからこいつ、うるさいな。……あれ、今、何を考えてたっけ? まあいいや。大したことじゃないだろ。


「ねぇホントに大丈夫!? 放っておいたら×なない!? あっごめん、まず僕が×んでた」


 言葉にノイズが走る。……よく、聞こえない。


「……あ、兄さん、それ……たぶん……引っ張られ……」

「え? あっ、なんかひらめいた。ブライアン、ちょっと留守番よろしく」

「え」


 視界がブラックアウトする。呼ばれるまま、声の方へと向かう。


「……なかなか斬新な感覚だね……」


 目的地に着いた途端、かたわらでハァハァと乱れた息遣いが聞こえた。


「……あらぁ、どちら様かしら?」


 呼んだ張本人は、怪訝けげんそうに俺の隣に目をやった。

 隣では亜麻色の髪の男……さっきの二人のうちどちらかが、息を乱して棒立ちになっている。


「……あれ、なんでかな。さっきまでもっと聞き取りやすかったのに」


 俺の腕を掴んだまま、男は何事かぼやいている。


「まあいいわ。今はそれどころじゃないもの」

「えっ、まあいいわで済まされるの僕」

「ローランド、何があったのか教えてちょうだい」

「無視!?」


 ヘーゼルの瞳が、珍しく不安そうに揺れている。

 この人は、ええと、そう。ローザ。ローザ義姉ねえさん。……兄貴の妻で、それで……アイツの妹……


 アイツ? 誰だ、それ。誰だっけ。名前が、ロジャー? いや、ロジャーは……


「ロジャーはどうしたの。いつも二人でいるのよね!?」


 兄貴だ。ロジャーが兄貴。そう、ロジャー兄さん。

 兄さん? そういえば……にいさんは、どこ?


 ──済まない


 どこかで、そんな言葉を聞いた。


 ──もう、俺は守ってやれそうにない


 ああ、そうだ。そうだった。兄さんは……

 身体の底でドス黒い「何か」がうごめく。俺の感情と結びついた「誰か」の叫びが腹を突き破ろうと藻掻もがく。


 失いたくなかった。

 消えたくなかった。

 奪われたくなかった。

 苦しみたくなかった。

 忘れられたくなかった。


「ローランド、しっかりなさい! 何があったの!? ロジャーはどうしたの!?」


 義姉さん、そんな顔しないで。

 俺は、兄さんも、義姉さんも、ロッドも、ロブも、誰も悲しませたくなかった。誰にも泣かないで欲しかった。


 だから、

 死にたくなかった。


 ──本当に?


 内臓を掻き回すような痛み。


 ──もう、楽になってしまえばいい


 粘つく甘い声。アイツの声。


 ──全て忘れて、楽になりなさい


 ──君にとって死と崩壊は救いだ


 かつて、その優しさに惹かれたことがあった。

 愚かな過ちを犯したのは……初恋と純潔を恥辱ちじょくと、絶望と、悲嘆と、諦観ていかんと、──堕落に、汚されたのは、


 ──楽になりたいなら、無理をしなくていい


 俺の願いを最悪の形で叶えようとするその声が、あまりに甘美な響きをしていたから。

 もし、悪魔とやらが存在するなら……

 きっと、あんたのような顔をしてるよ。ロナルド・アンダーソン。


「……ローランド……」


 呆然とした声が頭上から降ってくる。

 腰から綺麗に分かたれた胴体が、身動きひとつ取れず血の海に沈んでいる。


「話を聞くのは、やっぱり無理だろうね」


 蒼い瞳が、俺の瞳を覗き込む。亜麻色の髪がぼやけた視界に映る。


「……ええと……英語は得意じゃないから……良かったら、フランス語で……」

「わたくしにも何がなんだか……でも、そうねぇ、情報交換ができる相手は、限られているものねぇ」


 俺の前髪をかきあげたのは、おそらく、義姉さんの手だろう。


「フーゴ、毛布を持ってきてちょうだい」


 部下を呼ぶ声は、聞き取れた。


「……あの……誰のために、でしょうか」

「大切なきょうだいのためよぉ。……そう……フーゴにも見えないのねぇ……」


 視界が歪む。辺りの声だけが、耳に届く。


「君は生きてる人?」

「あらぁ、当然よ……いえ、まさか。貴方……」


 言葉の羅列られつだけが、耳に入ってくる。


「……死者が集まった空間から来たんだけど」

「……! いつの間に、そんな場所が……」

「それはわかんないけど……倒れてる彼とは、そこで会ったんだ」

「そう……。そうねぇ……ローランドも……。…………」

「……聞きたいんだけど、彼……感受性強い方だったりする? 共感性でもいいけど」

「どうかしら。人並みだったと思うわ。……ああ、だけど……」


 ローザ義姉さんは、兄弟姉妹のように育った6人の中で、マイペースに自分らしさを貫く人だった。お揃いのような名前もあまり好きではないらしく、自分の好きなことを好きなだけ、自由にやる人だった。


 それでも、俺たちに無関心だったわけじゃない。


「昔から、色々と受け入れてしまう子ではあったわねぇ……。不条理も、苦痛も、飲み干そうとしてしまうのよ」


 視界が闇に沈む。闇の中に意識が熔けていく。

 俺は、今、どうするべきだろう。

 ロジャー兄さんなら、こんな時、どうしただろう。


 兄さんが消えないよう

 兄さんを失わないよう

 兄さんが死なないよう


 俺にできることは、何?


「ロー、何も心配することはない。俺が全て背負って立てばいいことだ」……かつて、ロジャー兄さんは笑ってそう言った。

 馬鹿なことを言うなと、ふざけるなと怒ったことを覚えている。

「珍しいな」と目を丸くする兄貴に、俺は、なんと返しただろう。


「俺」って、どんな人間だったかな。


 義姉さんの声が聞こえ、やがて遠ざかっていく。


「……まあ、それでも……きょうだいが危ない目に遭ったり、無理をしたりすると、絶対に反発する子だったわぁ……」


 そうだな。

「俺」が大事なのは、それだけだった。

 大っ嫌いな世界の中で、たった一つ、その居場所きょうだいだけは好きだった。


 だから……


 ──君は身内だけが大切で……他人が死んでも、傷ついても、どうとも思わないんだろう?


 闇にうごめく影が語る。

 否定できる根拠はない。


 俺は家族が嫌いだ。兄弟とか、ばあやだけは好きなところも多いけど、親族はほとんど好きになれない。

 人間が嫌いだ。どいつもこいつもくだらない面子めんつとプライドの塊で、醜くて仕方がない。

 世の中が嫌いだ。嫌いな人間が作ってるんだから当たり前だ。

 神様なんてものがいるならそいつも嫌いだ。人間を作ったから。……そのくせ、俺の体を中途半端に作ったから。


 ──身を委ねなさい。君に断る理由はないはずだ


 だけど、だけどさ、

 そんなのは、誰かを傷つける理由にならないんだよ。

 誰かを助けない理由にもならないんだよ。

 誰かが泣いていい理由にもならないんだよ。

 なんで、それが分からないんだよ。


 流れる沈黙。途切れた声は、ためらうように再び話し出した。


 ──狂っていなさい


 その言葉は悪意からか、それとも、


 ──君は、その方が幸福だ


 悪党の、なけなしの同情か。

 でも、確かに……

 狂っていた方が痛くないし、苦しくない。

 狂っていた方が、ずっと……楽、だ……




 ***




 ロナルド・アンダーソンとしての肉体はとうに失った。

 ……私としたことが、ついあの女性の美しさに目がくらんでしまったらしい。アンダーソン家は代々恋愛関係でトラブルを起こしがちだというが、私も例外ではなかったということか。


 ……いや、まあ、今更すぎるような気もするけれど。


 肉体を失ったことは仕方がない。……そして、肉体がなくとも欲望が絶えるわけでもなく、肉体がないから情欲が満たせないわけでもない。

 あの空間では、肉体すらも「奪う」ことが可能なのだから。


 しかしながら私は生粋の悪党と見なされているらしく、あの場に巣食う魂はたいてい敵意を向けてくる。いちいち嘘八百の後悔や懺悔ざんげを並べ、誤魔化さなくてはならないのがわずらわしい。

 酷い話だ。私は好き勝手に生きていただけだと言うのに。


 目の前には、軍服姿の青年が青ざめた表情で横たわっている。肉体はロジャーのものだが、今の精神はローランド……アンドレアか。

 ロジャーの精神は葬り去れたのかな。……いや、あの程度で消える男だとは思えない。ロジャーはいつだって僕を凌駕りょうがし続ける男だ。……そうでなくてはならない。

 ハッキリとした形をなくした手が、血の気のない頬に触れる。触れた感触はなく、影のようになった指はあっさりと肌をすり抜けた。

 君たちはいつだって美しく、正しかった。

 醜くて歪んだ僕とは違い、愚かしいほど真っ直ぐに生きられるのが君たち兄妹だった。


 だからこうなったんだ。


 君たちが、私が決して至れない正しさを体現しながら、裁きもせずに隣に居続けたから……僕は、こんな人間になってしまった。

 君たちは、僕にとって悪魔に等しかった。


 だけど、アン、私はそんな君をけがして壊した。

 ……ロデリックは君に恋をしていたらしい。まったく、もっと早く教えてくれたら手を出さなかったかもしれないのに、のろまな奴だ。


 アン、君は狂っていた方が幸福だ。……それは、私の嘘偽りのない本音……の、はずだ。自分自身の言葉が嘘かそうでないかなんて、僕には分からないけれど。

 君の苦痛の原因には僕も多少なりとも……いや、大部分関わっている。だから……そうだね、これは、温情とも呼べるかもしれない。

 僕だって、悪いと思っていないわけじゃない。

 だから、君は、狂ったままでいなさい。

 その願いが善だろうが悪だろうが、私にはどうだっていいことだ。


 血に濡れた屍が闇にさらわれていく。抗うこともなく、ローランドの姿は闇の中に埋もれて行く。……呑まれる間際、彼はまた、誰かの「声」に呼応するようどこかへ消えていった。

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