14. ある「死者」の追憶

 ちぐはぐに噛み合った記憶が、俺の意識を追いやって、深く沈めていく。

 その間際に、ほんの少しだけ浮上した記憶があった。




 脚に絡んだ黒い手が俺を引きずって、頭もがっちりと押さえつけられて、身体が動かない。

 線路の破損で揺れ方がおかしかったと、お前は気づいていたはずだと、だいたいそんなことを言われていた気がした。


 正直に言うと、気付かなかった。


 確かに揺れていた気はするけど……いつもの目眩と区別がつかなくて、どれのことだか分かりはしない。事故が多かったのはニュースで見て覚えているけど……


 それは、俺が殺されるほどの罪だったのだろうか。


 ──でも、僕達は確かに死んだんだ。

 ──お前が何か言ってくれたら、助かったかもしれなかった。

 ──私たちも、死にたくなかった。


 蠢く黒い塊が口々に言った。

 ……それもそうか、と、痛みに焼き切れそうな思考で、そう思った。

 申し訳ないことをしたかもな……と、考えてしまった。


 ごめん


 謝ってしまったのが、間違いだった。


 ──そっか、やっぱり……




 自分が悪かったって認めるんだ。じゃあ苦しんでくれるよね。僕達、私たちのように、俺達と一緒に、苦しんでくれるんだよね?




 口の端から生温いものが溢れ出した気がした。途切れ途切れの聴覚に、病院の喧騒が届く。……かつては処置する側だったんだけどな、と、そんな取り留めのない思考も、生への執着も、急死した兄貴への共感も、弟達に申し訳ないって気持ちも、誰かに会いたいという想いも全てひっくるめて、俺の自我は為す術もなく砕け散った。


 後には、苦痛だけが残された。




 ──罪人は裁かれなくてはならないが、その裁きは罪に見あったものでなくてはならない。

 ──過剰な罰は、公正さを歪めることにも繋がる。

 ──あなたはおそらく、拒否せねばならなかったのだろうな。


 暗澹に響く、聞き覚えのない声音。

 ……誰の声だろう。どこから響いてくるのだろう。


 ──俺はあなたを救いたい。初めて、この場で善き心を持った人に出会えた。


 善き心……って、何のこと?

 別に、特別なことをした覚えなんてないのに。


 ──あなたは、なぜ人を恨まない?


 期待していないからだよ。よそ様に至っては興味すらないし。


 ──そういうことではない。自らを傷つけたものに対しての怒りや、憎しみはないのか?


 ……。あるよ。あるけど……

 もっと、大事なものがある。守りたいものがある。……それが何なのか、もうわからないけど……


 俺にとっては、それが……恨みとか、憎しみとか、そんなものより……ずっと、ずっと大事なものなんだ。それだけだよ。


 ──何を馬鹿な。それがどれほど尊く、美しい感情か……。……そうだな……少なくとも、俺は慈しむべきものに思う。


 どこか躊躇いがちに、声は続ける。

 擦り切れた思考に、凛とした誓いが染み渡る。


 ──約束しよう。……もし、あなたと出会えることがあれば、できる限りのことをする。


 ……。

 なんだそれ。気持ち悪いな。……打算も何もなしっていうのが、むしろ怖い。裏がありそうにしか思えない。


 ──……む。それもそうか……。至極真っ当な指摘だ。今後の参考になる。


 ……でも……そうだな……。

 もし、また出会えたら、……その時に、ちゃんと覚えていたら……


 俺も、助けになるよ。……それなら……それなら……まだ、信じられるから……。


 ──わかった。約束しよう。……俺の名は……


 レヴィ、だ。




 返事はできなかった。

 ……それでも、眠るような心地で意識を手放せる感覚は、久しぶりだ。




 ***




 一つ一つ、他者の意識に目を凝らす。

 感情と記憶がつまびらかになり、「罪」が顕在化する。


 なぜ俺にその力が与えられたのか、理屈は分からない。……まだ、あまりにも理解できないことが多すぎる。

 心当たりがあるとするならば……生を受けた際、「Levi祭司」と名付けられたことだろうか。


「……殺す……」


 口を開けば、似たような呪詛ばかりが漏れる。……痛み続ける胸元から血反吐のように喉をせり上がり、濁流のように溢れだしていく。


「殺してやる……誰一人赦すものか……逃がすものか……」


 ……だが、俺は既に見てしまった。

 その呪詛が招いたものを、自らの過ちを知ってしまった。

 俺もまた、到底許されるべきでない罪を抱えている。


「……チッ……」


 憎しみは腹の底で燃え滾る。

 怨嗟にまみれた記憶が押さえつけた理性を侵し、再び殺意を抱かせる。


 ……暴かれる罪人の記憶は、心を慰めるのに充分ではあった。

 どうしようもない悪人ならば火に油を注いだのだろうが、大抵の人間はそれなりに理由を持っている。……だからこそ苦しみ続け、やがて磨耗し、存在すらも保てなくなってゆくのだろう。

 ……共感とは不思議なものだ。時には自らの憂いを取り払い、荒れた心を鎮め、……束の間の安らぎを与える。


 だが、そんな折に、


「……この男は……」


 その存在を目にしてしまった。


「……くっ、くく……ふ……、ハハハハハッ、このために……このために俺は非業の死を遂げたのかもしれんなぁ……?」


 ああ、貴様らも「そう」であるならば、何度でも破滅を与えてやろう。幾度も苦痛を与え、苛んでやろう。俺に与えられたすべての責め苦をその魂に刻みつけてやろう……ッ!!!


「……ッ、やめろッッッ」


 猛る己自身の感情を押さえつける。

 ……分かっている。復讐するだけの理由はある。だが……だが、俺も人の子だ。手段を違えてはならない。感情に任せれば、必ず道を踏み外す。……関係のないものにまで、火の粉を浴びせることとなる……!


 深く息をつく。……ドクン、ドクンと高鳴る心臓の音が騒がしい。

 吸い込んだ霧は絶えず傷口を塞ぎ、俺を生かしている。


 ──復讐の時だ

 ──裁きの時だ!

 ──そのためにお前は生かされている……!!


 耳元で殺意が反響する。激情が再び牙を剥き、理性を食い破ろうと吼える。


 ……その最中に、かの「囚人」を捉えた。


 告発しなかった。見て見ぬふりをした。無視をした。……確かに、それは憎き罪だ。許し難いことだ。……だが……

 俺が目にしたこれを、罪と呼んで良いのだろうか。


「……いや、気付かんだろう……パリの市バスが激しく揺れたとして、道路に落下物があったと判断はしない……」


 沸騰した血潮が静かに冷え、落ち着いた思考がやがて……手を差し伸べた。


「罪人は裁かれなくてはならないが、その裁きは罪に見あったものでなくてはならない」


 それは俺がもっとも忌み嫌う、同情の類と言えただろうか。

 ……それとも、かつて馬鹿げていると蔑んだ、偽善の類だっただろうか。


 そのあまりに純粋な、消えかけの感情を救いたいと願ったことに、果たして……

 理由を見つけることができるだろうか。


「……。名を聞きそびれたな……」


 やがて声は遠のき、気配も途絶えた。

 腰を上げ、視界に乱れた長髪を捉える。


 頭の後ろで縛り、歩き出した。

 呪詛を飲み込む。……復讐も充分に魅力的だが……


 どうやら、他にやるべきことができたらしい。


 シャツのボタンを上まで閉める。息苦しいが、身形を整えておくに越したことはない。

 ……しかし、やはり邪魔だな。乳房というものは……。

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