15. キース・サリンジャー

 景色はぐにゃぐにゃと歪んで、はっきりとした形にならない。

「キース・サリンジャー」と……その名前だけが僕を僕たらしめているようなもので、足元すらも覚束無い。


 歪な空間を歩いているのか、泳いでいるのか、飛んでいるのかもわからないまま、見覚えのある部屋に立ち尽くしていた。


 薄暗い部屋を、モニターの明かりが照らしている。部屋の照明もついてはいるが、ギリギリまで出力を落としているらしい。

 びくりと肩を跳ねさせて、黒髪の男は振り返った。


「……あ……」


 泣き出ししそうな、それでいて喜んだような、……苦しそうな表情がこちらを向く。


「悪ぃ……呼んじまってたのか」


 目線を合わせないまま、男は近寄ってくる。……ここは、あの空間とは違うのだろうか。「僕」は見ているだけで、何もできない。


「ロッド、どうしたの?何かして欲しいことある?」


 その言葉は、決まり文句のように口をついてでた。

 なんの意思もなく、なんの感情もなく、「条件に合わせて発言された」ような、無機質な言葉だった。

 ……優しくて穏やかなのに、自我のない、空虚な響きだった。


「……えっと……」


 ちら、と、ライトブラウンの瞳がこちらを見る。……が、すぐに逸らされた。どこかで見たことがある。

 ……ああ、僕の瞳の色と似ているのか。


「……じゃあ……下読み、頼めるか?」


 泣き出しそうな、叫び出しそうな、……縋り付きたいような衝動が、僕……じゃない、この肉体の奥底から沸きあがり、すぐに収まった。「誰か」の意思は浮かび上がることなく底に沈んでいく。


「いいよ、どれ読んだらいい?」


 また、感情のない言葉が口をついて出た。

 ……ふと、パソコンのモニターに目をやる。


 電子メールの文面が開かれたままになっている。

 Keith Salinger ……と、送信者欄には表示されていた。




『ごめん、しばらくメールは返せなさそうだ。色々あって忙しくて……

 ……罪って難しいな。どう裁き、裁かれるのが理想なんだろう。あ、いや、詳しいことは言えないんだけど。

 ロデリック、この前も言ったけど、君は充分頑張っている。……自分を責めることだけが償いじゃない。どうか、身体を大事にしてくれ』




 ……と、文面から滲み出る情動が、僕の記憶を呼び覚ます。


 そうだ、僕は撃ち殺されたんだ。

 不正を暴こうとして、正義を貫こうとして、部下に裏切られたんだ。

 だから未練を抱えている。……今度こそ、貫きたい思いが確かにある。


 モニターの隅に2015/8/29……と、日付が表示されている。

 これは、僕が送ったメールだろうか。罪……裁き……償い……


 記憶の蓋は緩やかに開いていく。

 償わせるべき罪を思い出していく。銀髪とアンバーの瞳が脳裏を掠める。

 僕に銃口を向ける男に覚えがある。……部下の警官だ。


 ……そうか、僕は、彼に殺されたのか。


 恨みの感情はそれほどない。……ただ、僕にも譲れない正義がある。道を誤った部下は、正しい方向に導いてやらなくてはいけない。


 アドルフ、僕はあの土地で待っている。

 ……どうか、償いに来て欲しい。僕はお前を信じている。

 きっと、お前なら改心できる。




 ***




 また、夢を見た。

 昔の職場にいる。同僚が噂話をしている。……金髪に茶色い瞳の男が目の前にいる。昔の上司の顔立ちに、どことなく似ている。


 罪悪感が似た夢を見せ続けているのだと思っていた。……いや、事実、最初はそうだったのかもしれない。


 だが、最近、「夢」の質感がやけにはっきりしだした。

 かつての同僚も実体として存在しているように見えるが、なぜか、態度にも言葉にも人間らしい感覚……雰囲気?がない。


 何よりの変化は、俺の片腕がないことだ。

 この仕事をしていた頃には、まだあったはずの右腕がない。


「どうも。アドルフ・グルーベです」


 目の前の男に挨拶をする。……言葉は、決まり文句のように自然と口をついて出た。


「初めまして、辞令は聞いていると思います。僕が、キース・サリンジャーです」


 キース・サリンジャー。悪を裁く警官の「噂」。

 悪事を働けば現れる、正義の代名詞。


 アンタは……


 アンタは、人間だったろ。だから間違えたんだろうが。

 失った片腕がズキズキと痛む。……もしかしたらあの事故も呪いだったのか、なんて、馬鹿馬鹿しい仮説すら頭に浮かぶ。


「……サリンジャーさんですね。……失礼ですが、年齢は?」

「32歳です」

「…………そっすか」


 確かに恐ろしかった。得体の知れない不安もあった。……下手に動けばろくな目に遭わねぇと、本能も警鐘を鳴らしている。

 だけど、アンタにまた会えたことは、懐かしいとすら思った。

 ……最初からやり直したいと、そう、思っちまうくらいには。


 ……なぁ。

 いつまで「正義」なんかに固執してんだよ、キースKees


 悪夢の予感に背筋が寒くなる。……だが、きっと、もう逃げられない。

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