13. 顔のない男

「……ん?」


 ふと、ぽつねんと立ち尽くす女性の姿が目に入る。

 私の存在に気づき、女は顔を上げる。……瞬間、雷に撃たれたかのような衝撃が走った。


 第一に、女は美しかった。

 第二に、女は綺麗な瞳をしていた。

 第三に、女は何か不安げな様子でどこか救いを求めるようにあたりを見渡し、それでいて口を引き結び拳を握り締め足を踏ん張り、おそらく自らの力で現状を打破しようとする強い意志があると見て取れた。


「……!」

「ああ……驚かせてしまったね」


 私が近寄ると、女は身を強ばらせて距離を取った。……最高のリアクションだ。

 血に濡れたような赤い髪に、群青の瞳。……どこかで見覚えがある気もする。


「君も迷い込んでしまったのかな?」

「その、顔……何が……」


 ぽたり、ぽたりと、女の毛先から雫が滴るのが見える。……なるほど、これは赤毛なのではなく……。


「……まあ、君と似たようなものだよ」


 ほんの少し、影を匂わせる。さて、どう出るか。


「……。では、アナタも……」


 女が顔を上げる。年齢の読み取れない顔立ちが、ロジャー達の母……ナタリーを思い起こさせる。娘に「お前が死ねばよかった」「自分の子ではない」などと言い放った、愚かで、哀れな、悲劇の女。……私を罪人として糾弾した、唯一無二の存在でもある。


「アナタも、救いを求めているのですか……?」


 群青の瞳が、きらりと光を反射した。


「そうだね」


 適当に話を合わせておこう。おそらく、そうすれば一番効率がいい。


「私は罪を悔いているんだよ」

「罪を……。……同じですね。ワタシも悔いているのです」


 女は俯いて、言葉を詰まらせた。

 ……行ける。何がとは言わないが、そう思った。


「君も苦しんでいるんだね。……可哀想に。でも……もう、いいじゃないか。楽になったって構わないはずだよ」


 女が顔を上げる。不安定な瞳が私を見る。

 ふっ、と、瞳がヒスイのような色に輝いた気がした。……光の加減だろうか。


「……そう、ですか……。ならば……」


 貴方は、私を救ってくれますか?


 そう、視線だけで女は告げた。……思った通り、愚かな人間だったらしい。こうも簡単だと、拍子抜けするくらいだ。


「ああ、構わないよ。……君も、私を救ってくれるならね」

「ええ、ええ、救いましょう……!救いましょうとも!!」


 ──だから


 悔い改めなさい


 今度こそ罪を赦しはしません。いいえ、悔い改めるなら赦しましょう。懺悔なさい。何を行ったか、その穢らわしい唇で懺悔なさい。アナタは何を悔いているのですか?嘘偽りなく曝け出しなさい。アナタも罪人なのでしょう?ならば私は赦しましょう。そのために悔い改めるのです。さぁ、さぁ、懺悔なさい。そうすれば神はお赦しになります。赦されないのならば何度でも償えば良いのです。さぁ、早く……!!




 一瞬、意識を乗っ取られた。思考を全て支配されたような感覚さえあった。……何だ、これは。

 女は何事も無かったかのように私を見ている。……何が、起こったと言うんだ。


「……私はね、愛してはいけない人を愛してしまったんだ」


 まあいい。適当に話をでっち上げて、懺悔とやらをしておこう。


「そうだったのですか……それは、さぞ苦しい思いをしたことでしょう……」


 群青の瞳が、昏い輝きを帯びる。


「嘘を、つきましたね」


 声が出ない。


「アナタは、誰も愛したわけではなかった」


 身体が動かない。


「アナタは、愛さえ偽って欲の糧としたのでしょう……?」


 渦巻く瞳に、魅入られていく。

 視線が外せない。


「さぁ、懺悔なさい。悔い改めるのです」


 足の先から、崩れていくような感覚がある。……まるで、全てを支配されたような……。


 ……ああ、なんてことだ。予測していなかった。

 君は愚かどころか、こんなにも美しい女性だったのか。こんなにも反吐が出るほど美しく、背筋が凍るほど愛らしい人だったのか。


「その言葉には答えられない。……君に、嫌われたくないからね」


本当は、悔い改めたくないからだ。

……つまらない理屈よりも、欲の方が余程愛しいからだ。


「それならば、赦されなくとも良いと……?」

「いいや……」


 腕が溶けたような気もするが、構うものか。……この衝動の前では、些細なことだ。


「君は私を赦す必要なんてない。……ただ、私に愛されて欲しい」


 女の表情が嫌悪に歪む。……ああ、良い表情だ。素晴らしい。そのまま堕ちればいい。快楽に、堕落に、欲に溺れればいい。


「私に」


 立てなくなった。……脚をしまったのだろうか。


あいされてくれないか」


 女の瞳が揺らぐ、その動揺を、私はよく知っている。

 これは、「恐怖」だ。


「……ワタシは愛さなくとも良いと?」

「何を言っているのやら。……君に私を愛する必要なんてない。それは君の感情だ、好きにするといい」


 もっと戦慄すればいい。もっと嫌悪すればいい。もっと忌避すればいい。

 その誇りも、理想も、信念も、願望も打ち砕いて、踏み躙って、犯し尽くして、私のものにしてしまおう。……そこに、君の感情なんて関係ない。


「……そうですか」


 その声音は、温もりに満ちていた。


「哀れな人ですね」


 女は屈み、私を抱き締める。抱き返すことも、突き飛ばすこともできない。……肩から先は、もう形を失ってしまった。

 どうして、そんなことを言うんだ。

 ……どうして、


「ワタシは赦しましょう。……だから、どうか悔い改めて」


 ああ、君は、思った以上に美しい人だ。

 ……そして、残酷神聖な人だ。


 僕は、赦しなんて求めていないのに。


 肉体の輪郭が形を失う。生涯において制御できなかった感情は、器を失ったところで消えはしない。

 情をかけられたところで、この悪意は何も変わらない。


 ……ああ、でも、君にもっと早く出会えたら……。


 ……くだらない感傷を笑い飛ばす。

 引きつった火傷の感覚さえ、既に消え失せていた。

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