12. 欲望

 Keith Salinger


 誰の部屋かはわからないが、どこかの部屋でその名前を見た。

 ……「これだ」と思った。僕の名前も「キース」で……情けないことに、それくらいしか思い出せなかった。

 メールの文面に正義がどうこう綴られていたけれど、僕も、正義という言葉は好きだ。他者のために悪を裁く生き方は、理想のようにすら思う。


 ……なにか引っかかる気もするけど、まあ、構わない。

 僕は、正義を貫ければそれでいい。




 ***




「は……?」


 目の前の男が、「僕」を見て呆然と呟いた。


「……何をしたんだ」


 暗闇から、顔の焼け爛れた男が姿を現す。

 誰かは分からない。分からないけど、少なくとも奴の好きにさせてはいけない。……それだけは、よく分かる。


「僕は……僕の正義を貫くだけだ」


 悪を裁く。それが、僕のやりたかったことだ。……そのはずだ。いや、きっとそれだけは間違いない。


「……ああ」


 男の声が数段低くなる。

 次のセリフも予測できた。きっとこんな手合いは、「君のような人間は大嫌いだ」とでも言ってくる。


「君のような人間は」


 ほら、やっぱりそうだ。


「愛らしい」


 ……ん?

 え、なんだ。今、なんだって……?


「純真な瞳だ。世の正しさを信じ、無垢に煌めく……まるで……まるで、穢れを知らない少女のようじゃないか」


 何を、言われているのかが分からない。


「だから……その輝きを穢したい」


 どこか粘着質で、背筋にまとわりついてくる声音。

 何か、本能のようなものがざわついた。


「言いたいことはわかるかな?」


 そんなことを聞かれてもさっぱりわからない。

 ……いや、理解したくないのかもしれない。


「……君みたいな子を見ると、犯したくなるんだ」


 赤黒い舌がちらりと見え隠れする。

 爛々と輝く瞳が僕を捉えている。

 ……こいつ、さては変態か……!?


 ぐん、と、引き寄せられた感覚があった。

 ようやく手に入れた「肉体」にしがみつく。……「僕」は、剥がれ落ちないよう、内側に潜り込む。


「……君も、所詮は同類だ」


 離れる瞬間、嘲るような声を聞く。


「彼女の許可なく、欲のため利用しているに過ぎないのだからね」


 ……「彼女」……?誰のことだ?

 意識の奥底から、摩耗していた想念が浮かび上がる。

 彼女……女性……愛する人……?サーラ……サーラ・モンターレのことか……?

 僕はサーラを利用した覚えなんてない。……耳を貸す必要なんかないだろう。

 意識が閉ざされていく。大丈夫だ、僕は正義のために動いている。君が誰かは知らないけれど、きっと、悪いことにはならない。安心してくれ。


 ──……あれ?「僕」は、一体「誰」と話しているんだっけ……?




 ***




 青年が去った「向こう側」に、私が向かうことはできないらしい。

 焼け爛れた肌に触れる。……私は自らの死体を「こちら」に持ってこられたようだが、中には肉体を持たないものも存在するのだろう。先程の、金髪の青年のように。


 彼がローランドを乗っ取るまでその姿を視認すらできなかったが、他者の屍を使い青年は実体を得た。それ以前も、ローランドには視えていた可能性はあるが……。あの、容姿の変わりようを見るに……


 今、私の肉体にかじりつく「これ」が、肉体を奪うだけでなく補うことがある……と、仮説が立てられる。

 いい加減鬱陶しいが、問題はおそらく不快感じゃない。このまま身体を奪われると、おそらく似たような存在として、この空間を構成する「空気」のような何かにでもなるのだろう。まったく、厄介なところに迷い込んだものだ。

 どうにか、侵蝕を防ぐことができればそれが一番なのだけれど……。


 ……ああ、それにしても、滑稽なものを見た。許可なく肉体を使っておいて、私の方を責めるなんて、バカバカしいにも程がある。


「……それにしても……何とか、楽にしてあげる手段はないものか」


 流石に、ローランドに関しては申し訳ない感情も強い。

 一刻も早く、狂わせるかトドメを刺すかしなければ、永遠に苦しむことになるだろう。……可哀想に。


 ……まあ、結局は利用するのが僕だけれど。

 別に、ローランド……アンドレアが憎いわけでも、嫌いなわけでもない。むしろ、妹のような存在としてある程度好感は持っている方だ。……まあ、見ていると罪悪感を煽られるのは苦手ではあるが……


 単に、相手への情より欲の方が優先順位が高すぎるだけだ。それは仕方ない。性格の問題だからね。


 ……なるほど、こうして思案して少しは掴めた。


 どうやら、この「霧」は我欲を開示すればするほど攻撃性を増すらしい。あくまで、微妙な差異を感じとった程度だが……

 ……それなら、話は簡単だ。


 嘘は、私の得意分野なのだから。

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