3. 迷い我
漠然とした意識に、形が宿ったように感じた。
色も、音も、何もない空間。広がる闇の向こうに……確かに、なにかが見える。
犬……?の影がこちらを見つめている。ついてこい、とでも言うように歩き出し……考える暇もなく、吸い寄せられるように後に続く。
ふわふわと宙に浮かんだ感覚の中、ズキズキと痛みが帰ってくる。
……そして、意識は再び霧散した。
***
ひとまず、状況を整理しよう。
まずここはどこか。さっぱり分からない。
俺はいつの間にここに来たのか。もっと分からない。
最後に、俺は誰なのか。なぜか分からない。
結論をいえば、何一つ分からない。
……どうしろと?とネガティブな気持ちが湧いてきたが、ここは逆に考えるべきだろう。
分からないのなら、これからは分かっていく事実しか存在しないということだ。
素晴らしい。つまりこれ以上の最悪なことは起こりえない。今が最悪で最低だからこそのポジティブシンキングだ。くそったれ。
「軍服……」
服装を確認し、独りごちる。イギリス陸軍で、階級は分からないがおそらく士官。勲章も何も無いところを見ると、まだ新兵か……と、知識を手繰り寄せる。……服装が全体的に土まみれなのは、ほふく前進でもしたのだろうか。それとも生き埋めにでもなったのだろうか。
……上手く思い出せず、腕を組む。袖口が変に開いているところを見ると、着せられた可能性……も……
骨だ。
手首も、腕も、何なら手のひらや指先まで骨だ。
死体に軍服を着せて埋葬でもしたのだろうか。それならば服装と土にも合点が行く。なるほど、つまり俺は白骨死体だったのか。そう言われてみればそんな気がするが、早々そんな気がするような出来事でもないあたり正解だろう。
見事な推理だ。自分で言っていて少し悲しくなったが、いわゆるアンデッドやゾンビ……というような存在に近いのかもしれない。
だが、そうと分かれば行動あるのみだ。次はこの場所について知っておきたい。
……とはいえ、そこいらによくありそうな住宅街のように思える。人気が少ないのは気になるが、庭園を抱いた垣根にもそびえ立つ門扉にも、特に違和感は感じられない。
探索しようと足を踏み出し……落ちた。
足を踏み外したのではなく、足を踏み出して、そのまま
派手な音を立てて、肋骨やら何やらが散らばる。痛みはないが、どうやら自分で思っているより私の肉体には肉がないらしい。ダイエットに勤しんでいた妻の姿を思い出す。ふくよかでも存分に愛らしいと思ってはいたが……今は切実に、何キロか分けてもらいたい。
……と、もう一つ思い出したか。俺は、妻を心から愛している。大切な事実だ。胸に刻んでおこう。
……しかし、どうしたものか。
仰向けに曇り空を見上げ、思案する。……未だ、自分の名前すらもぼんやりとして思い出せない。
妻のことを思い出したのだから、呼び名を思い出せば……と、瞼を閉じ……られない。顔面まで骸骨なのだろうか。どういう理屈なんだ。俺は今、いったいどうやって景色を見ているんだ……?
まあいい。とにかく、あの愛くるしい声音を思い出そう。駒鳥のような……というと語弊があるが、どう形容したものか。孔雀のように気高く、エミューのように力強く、白鳥のように凛と美しい……
──貴方、いつまでぼんやりしていらっしゃるの?
……あらぁ、まだ目が冴えないのかしら。困った人ね。
R……Roger……?ロジャーだったか……?しっくり来る。ありがとう、愛しの妻よ。君の名前もすぐに思い出してみせよう。
名前を思い出せたのなら、あとは時間の問題だ。特に根拠はないが、そんな気がする。
問題は、俺がここから動けないことだが……
……ふと、意識の奥から呼び声が響いた。
か細い声は糸を手繰るように、助けを求めるよう俺を呼んでいる。
「……この声は……」
いつかの、雨の日を思い出す。
雷鳴が轟き、慟哭すらもかき消されそうになりながら……
痛みに喘ぐその声は、途切れ途切れに俺を呼んでいた。
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