タルトタタンにさよなら

木下青衣

タルトタタンにさよなら

「もう、明日なのね」

 一人呟いて寝返りを打つと、豪奢な金髪がベッドの上で波打った。

 ナタリア・アルテュセールは、婚礼の儀を明日に控え、屋敷の自室のベッドで眠りにつこうとしていた。

 (この部屋で眠るのも、今日が最後だわ)

 天井を見上げ、ナタリアは物思いに耽る。儀式の準備は滞りなく進んでいる。眠りについて明日目覚めれば、ナタリアは嫁ぎ、そこで新たな生活が始まるのだ。夫となるフランシスも彼の両親も穏やかな人たちで、うまくやっていけるに違いない。何も気に病むことはないはず。それなのに、ナタリアはなんだか胸に小さな穴が開いたような気持ちがして、なかなか寝付けずにいた。

 ふと、ナタリアは先程家族全員で食べた夕食を思い出した。家族で揃って食事をする最後の機会なのだから、何でも食べたいものを好きなだけ言っていい、と。彼にそう言われて、ナタリアが思いつくままに食べたいものを挙げた結果、婚礼の祝賀会なみに豪勢な夕食になってしまった。『本当にこんなに召し上がるのですか?』と呆れていた彼の顔を思い出して、笑みが零れる。舌平目のムニエル、鴨のコンフィ、それに仔牛のポワレ。舌の上でとろける豊かな味わいを思い出すうちに、ナタリアはいつの間にか眠りに落ちていた。


*****


 甘酸っぱいリンゴの香りがした。それに、カラメルのにおい。その芳醇な誘いにつられるて、ナタリアは顔をあげた。

「……何かしら?」

 きっかけは些細なことだった。今日は一日中一緒に遊んでくれると、お父様もお母様も約束してくれたのに、結局パーティーに行ってしまった。ただそれだけ。貴族の家に産まれた以上、どうしようもないことだ。けれど、幼い心に抱えきれなくなっていた寂しさが爆発してしまって、ナタリアは気づけば「父様も母様ももう知らない」なんて、小さい子供みたいに我が儘なことを両親の背中に叫んで、泣きながら屋敷を飛び出してきてしまった。いや、実際ナタリアは小さい子供なのだ。たった六歳。いくら名門貴族であるアルテュセール家の娘とはいえ、いまだ父にも母にも甘えたい盛りの無邪気な子どもだった。

 飛び出してきたといっても、六歳の子どもがどこに行けるわけでもない。屋敷の周囲に広がる広大な庭園の中を歩き回ったナタリアは、やがて歩き疲れて、庭園の一角の茂みに隠れるようにして膝を抱えて座り込んでいた。

 (なんだかいいにおい……)

 漂う甘いにおいに、ナタリアのお腹がぐぅ、とはしたない音をたてる。すると、不意にがさごそと周りの茂みが揺れた。

「……なに?」

「ああ、やっぱりここにいらっしゃいましたか」

「……えっと」

 茂みをかき分けるようにしてナタリアの前に顔を出したのは、一人の青年だった。二十歳くらいだろうか、ゆるやかにうねる赤茶色の髪を頭の後ろで括っている。見慣れない顔に、ナタリアの心に一瞬恐れと戸惑いが沸く。それを察してか、青年は苦笑した。

「昨日ご挨拶したアランです、お嬢様」

「……覚えていますとも」

 覚えていなかった、なんて白状するのは、ナタリアの中に芽生えつつある、貴族の娘としてのささやかな誇りが許さなかった。

 アラン。そうだ、この男はアランといった。つい昨日の夜、このアルテュセール家の新たな料理人としてやってきた男だ。けれど、どうしてこの男が私を見つけられたのだろう、とナタリアは不思議に思う。乳母も執事も、しばらく前に「お嬢様!」と叫びながらこの辺りを走り回っていたけれど、ナタリアのことを見つけることはできなかった。それなのに、どうしてこの男が。

「私も、嫌なことがあったときはよくこういう所に隠れていましたから」

「そうなの?」

 ナタリアの心を読んだかのように、アランはそう説明した。

「ええ、それと」

「なぁに?」

「寂しい思いをさせてすまないと、ご主人様と奥様がおっしゃっていたそうです」

「本当に?」

「ええ、本当ですとも」

 ですから、とアランは続ける。

「ナタリアお嬢様、お部屋に戻って、甘いものでもいかがですか?」

「そうね、そうするわ」

 立ち上がろうとして、ナタリアは右足の違和感に顔をしかめた。

「どうされましたか?」

「……なんでもないわ」

 長い時間同じ姿勢で座り込んでいたため、足が痺れてしまっていたのだ。左足を踏み出し、右足を引きずろうとして、バランスを崩した。慌てて手をつこうとした瞬間、

「お嬢様!」

 気付けばナタリアはアランのがっしりとした腕に抱き止められていた。

「あ、ありがとう。感謝するわ」

「いえ。それより、足が痺れたならそうおっしゃって頂かないと。お怪我をさせるわけには参りませんから」

「だって……」

「お嬢様」

 真剣な声音に、ナタリアはアランの顔を見つめる。

「自分でどうしようもないときには、他の者に頼るというのも貴族としての努めです。できないこと、わからないこと、嫌なことは、素直におっしゃってよいのですよ」

 諭すようなアランの言葉に、ナタリアは自分の中にある貴族としてのちっぽけなプライドを否定されたようで、かっと顔が熱くなった。けれど。

 (でも、この人の言う通りだわ)

 父と母に対して我が儘な言葉を投げ捨てて、自分はこんな所に隠れて皆を心配させて。そのくせ、自分をよくみせようと小さな嘘をついて。自らの情けなさに俯いて唇を噛むと、

「失礼致します」

「えっ」

 ふわっと宙に体が浮き、気づけばナタリアはアランに抱きかかえられていた。

「不躾な真似をお許しください、お嬢様。これも、人に頼れるようになるための練習です。その足ではどのみち歩けないでしょう?」

「……ええ」

 ナタリアがおずおずとアランの首に手を回すと、ふわっと何かが香った。甘酸っぱいリンゴの香り。それに、カラメルのにおい。

(さっきの香りだわ――この人だったのね)

 背中にあたっているアランの腕からぬくもりが伝わってくる。ナタリアの気持ちはいつの間にかすっかり軽くなっていた。


 屋敷の自室に戻ると、アランはまず砂糖とミルクのたっぷりと入った紅茶を出してくれた。しばらくして、

「さぁ、お嬢様。お召し上がりください」

 目の前にそっと差し出された琥珀色に輝く菓子を見て、ナタリアの口から「きれい……!」と声がもれた。そして、アランから漂うのはこの香りだったのだと納得する。

 タルトタタン。キャラメリゼしたリンゴの上からタルト生地を被せて焼いた菓子だ。

 キャラメルをまとってパリパリと香ばしく輝くりんごのスライス。そのリンゴを包み込むしっとりとした生地。ごくり、と喉が鳴るのがわかった。

 ナタリアはフォークを手に取り、目の前のタルトタタンをそっと一口切り出した。フォークの上できらきらと煌めくそれを、口に運ぶ。甘いにおいが口から鼻へと通り抜けていった直後、口の中にリンゴの酸味とキャラメルの苦味が折り重なるように広がる。ぎゅ、と噛み締めれば、丁寧に煮込まれたリンゴの旨味が柔らかな生地と溶け合って、体中へ染みていく。

「……おいしい」

 ようやく口から出たのは、そんなありふれた感想だった。けれど、ナタリアは、これ以上に美味しさを伝えられる言葉を知らない。

「ありがとうございます」

「すごく、すごく美味しいわ」

 そして、もう一口、もう一口と口に運ぶうち、ナタリアはあっという間に目の前のタルトタタンを食べ終わってしまった。甘い余韻に浸りながらふと顔を上げて、ナタリアは自分のことを微笑みながら見ているアランに気づいた。途端、恥ずかしさがこみあげてくる。食べ物は優雅に味わうように、と母様に教えられていたのに、なんてはしたない。けれど、アランに「もう少しお召し上がりになりますか?」と聞かれると、ナタリアは間髪入れずに「頂くわ」と答えてしまっていた。

 タルトタタン自体はとりたてて珍しい菓子ではなく、ナタリアも何回か食べたことはあった。けれど、こんなにも自分の中を満たし、幸せにしてくれるようなものは初めてだったのだ。

「アラン、貴方ってすごいのね」

「ありがとうございます」

「また、タルトタタンを焼いてくれる?」

「お嬢様がお望みであれば、いつでも」

 そう言って、アランは嬉しそうに微笑んだ。


*****


 懐かしい夢を見ていた。

 目を開けたナタリアの目に飛び込んできたのは、ナタリアを見つけて安堵の表情を浮かべるアランではなく、自分しかいない部屋の、見慣れた天井だった。

 (……アラン)

 心の中で思わず呼ぶのは、大切な料理人の名前だ。一度目が覚めてしまうとなかなか寝付けないもので、ナタリアはしばらくベッドの上で寝返りを打った後、諦めて起き上がった。そして静かに部屋を出ると、暗い廊下の中を歩きだした。

 夜の廊下を照らすのは等間隔におかれた燭台のほのかな灯りだけだが、十七年この屋敷で暮らしてきたナタリアにとっては、例え目をつぶっていてもこの廊下を歩くことくらいなんてことはない。

 廊下を突き当たりまで進み、階段を降り、また廊下を進む。そうしてナタリアがたどり着いたのは、屋敷の厨房だった。銀色に鈍く光る重いドアに手をかける。厨房の中に体を滑り込ませると、その中は小さな窓から差し込む月の光にうっすらと照らされていた。丁寧に磨かれたシルバーやグラスが、行儀よく整列して並んでいる。棚の中には、色とりどりの食器。壁には大小さまざまな鍋や調理器具。そして使いこまれた調理台の上には、明日のために下ごしらえをされたのであろう肉や野菜が、静かに出番を待っていた。厨房の中を歩き回っていると、この場所でアランと話したことが、アランが作った料理が、菓子が、次々に想い出された。

 アラン、と心の中でそっと呼びかける。

 あの日のタルトタタン。夜にお腹がすいたと泣きついたら作ってくれたオニオングラタンスープ。無性にイライラしていたときにそっと差し出してくれた、ホットショコラ。つまみ食いをして呆れられたフィナンシェ。アランの作ってくれたものは、いつだってとても美味しくて、優しくナタリアを包み込んでくれた。

 ナタリアの父も母も、社交界での活動に忙しく、屋敷にいることの方が珍しい。まだ幼く、社交界デビューをする前のナタリアは、広い屋敷の中一人で過ごしていた。両親は末娘のナタリアに甘く、ねだればドレスもぬいぐるみもたいてい買い与えてくれたし、乳母も執事も雇ってくれた。けれど、きれいに着飾ってぬいぐるみ相手におままごとをしても、忙しなく家の用事をする乳母や執事に話しかけてみても、ナタリアの気分は晴れなかった。

 それが、あの日から変わったのだ。アランのタルトタタンを食べた、あの日。すっかり機嫌を直して無邪気に笑いながらタルトタタンを頬張るナタリアを、アランは嬉しそうに見つめていた。その瞳は、カラメルをまとったリンゴのような、澄んだ琥珀色だった。

 それ以来、ナタリアは刷りこみを受けた雛のように、アランの後をついて回るようになった。アランの前にアルテュセール家の料理人を務めていたのは気難しげな顔をした老人で、ナタリアは近付こうなんてまったく思わなかったけれど、アランは違った。いつも穏やかな微笑みを浮かべていて、ナタリアが「アラン!」と呼びかければ、琥珀色の瞳をすっとまぶしそうに細めて「なんでしょう、お嬢様」と、視線を合わせて答えてくれた。後を追いかけて厨房にまで入ってくるナタリアにアランは最初こそ困ったようにしていたけれど、そのうち諦めて、「ご主人様と奥様には内緒ですよ」と言いながら、リンゴのクラフティや、シナモンの香るクッキーを焼いて食べさせてくれたのだ。焼き上がりを待っている間、アランはちょっとしたお菓子の知識――タルトタタンがどうして作られたのか、とか、そういうことを話して聞かせてくれた。

 (きっと私は、とてもアランを困らせていたのね)

 調理台を優しく撫で、ナタリアは椅子へと腰かけた。ネグリジェだけで何も羽織らずに来てしまったため、灯りのないこの部屋は少し肌寒い。膝を抱えて、背中を丸めた。

 そうして想い出に心を巡らせるうち、ナタリアは先程までどこかに行ってしまっていた眠気が戻ってくるのを感じた。こんな場所で眠るなんてはしたない、と思うけれど、馴染んだこの場所でしとやかな月の光を浴びていれば、眠くなるのも道理というもので。少しだけ、ほんの少しだけと自分に言い訳をしながら、いつの間にかナタリアは眠りに落ちていた。


*****


 また夢だ、とすぐに気付いた。ゆるゆると顔を起こせばそこは自分が眠りに落ちた厨房に違いなくて、目の前には、生地を練っているアランの背中があった。けれど、

「んー、美味しい! アラン、もっと作ってちょうだい!」

 振り向けばそこには自分ナタリアがいて、幸せそうな顔でマドレーヌを頬張っている。

 ああ、とナタリアは納得する。これは夢。そして記憶だ。自分がまだ八歳頃の。

「お嬢様、あまり食べ過ぎてしまわれますと、お夕食が食べられなくなりますよ」

「大丈夫よ、アランのつくってくれるものならいくらでも食べられるもの」

「いけません。アルテュセール家のお嬢様たるもの、自制することも覚えなければ」

「なによ……」

 ぷぅ、と自分ナタリアが頬をふくらませて、ナタリアは思わず苦笑してしまう。一つ瞬きをすると、自分ナタリアの姿がふっと消えた。

「すごいわアラン、まるで魔法みたいね」

 反対側から再度自分の声が聞こえ、そちらに向き直れば、調理台の横に据え付けられているオーブンを真剣な面持ちで見つめているアランの背中と、その横で嬉しそうにしている自分ナタリアの姿。いくらか背が伸びて、顔からはあどけなさが消えている。

「さっきまではべちょべちょの塊だったのに、こんなに膨らむなんて」

「生地の中の水分が暖められて膨らむことで、中から生地を押し広げているのですよ」

 この時のことをナタリアはよく覚えている。シュー・ア・ラ・クレームをつくるというので、シュー生地を焼く様子を見ていたのだ。ナタリアが周りをうろちょろしていたらアランにとっては作業をしにくかっただろうに、アランはいつだってナタリアが厨房にいることを受け入れてくれていた。

 また自分ナタリアの姿が消え、今度は部屋の隅で膝を抱えた自分ナタリアが現れる。

「ねぇ、アラン?」

「なんでしょう、お嬢様」

「私、魅力がないのかしら?」

「お嬢様、そのようなことをおっしゃってはいけません」

「でも」

「お嬢様はとても美しく、賢く、魅力的な方です。そのように自分を卑下されてはいけませんよ」

 およそ一年前の出来事だ、とナタリアは思い出す。結婚相手のフランシスと初めて会ってからしばらくした頃。手紙のやり取りをしていたナタリアは、彼からの返事がなかなか来ないことに落ち込んでいた。なかなか、といっても精々数日のことだったのだけれど、初めて男性と手紙の――恋文のやり取りをしたナタリアにとっては、一日は一月に、二日は永遠にも感じられたのだ。出会いは父親同士が設定した見合いの席だったけれど、ナタリアはフランシスの人柄にすっかり惹かれていた。一年後自分はその方と結婚するのよ、だから心配しなくていいわ、と自分ナタリアに声をかけたくなる。

「……本当に?」

「もちろんですとも」

「だったら、どうしてフランシス様はお返事をくださらないの?」

「きっと、どのようにお嬢様にお気持ちを伝えるか、悩んでいらっしゃるのでしょう」

 そう言って自分ナタリアを見つめるアランの琥珀色の瞳は、あたたかい慈愛に満ちていた。このときのナタリアは、自分のことに精一杯でアランのことをちっとも見ていなかった。それでもその間アランはずっと、こんなふうに自分のことを見守ってくれていたのだ。これがただ自分に都合のよい夢だとしても、ナタリアはそのことがたまらなく嬉しかった。

「そうかしら……」

「そうですとも。それよりお嬢様?」

「なぁに?」

「そろそろお茶の時間にしましょうか」

 目の前の自分ナタリアは、アランが取り出したタルトタタンのにおいに気づくなりぱっと顔を輝かせて、そうしましょう! と勢いよく立ち上がる。我ながら単純だわ、とナタリアは苦笑した。

 (でも、しょうがないじゃない? アランのタルトタタンはそれほど美味しいのだもの)

 一口食べれば酸味と甘味と苦味が渾然一体となって口の中に広がり、二口食べれば頭のてっぺんから足の先まで幸せに満たされる。だからいつだって、ナタリアはあのタルトタタンさえあれば、嫌なことも不安なこともすっかり忘れて前を向くことができたのだ。

「それでは、お部屋にお持ちしましょう」

「えー? いいわよ、ここで食べましょう」

「いけません、お嬢様。厨房で召し上がるなど」

「いいじゃない、今すぐ食べたいの!」

 今日は特別ですよ、とアランがため息をついて、きらきらと光るタルトタタンにナイフを入れる。と、不意に顔を上げたアランと目が合ったような気がした。

 (――まさか、これは私の夢で、記憶だもの)

 けれど、その琥珀色の瞳はやっぱり優しいあたたかさに満ちていたから。本当に目が合ったのかどうかとか、そんなことはもうどうだっていいような気がした。


*****


「お嬢様。……お嬢様!」

 甘酸っぱいリンゴの香りがした。それに、カラメルのにおい。

 まだ夢の中かしら、次は何歳のときの私かしら、と寝ぼけた頭で考えながらうっすらと目を開ける。すると、少し怒ったような、それでいて嬉しそうな、琥珀色の瞳と目が合った。

「……アラン?」

 十二年前より若々しさはなくなったけれど、そのぶん慎ましい色気を醸し出すようになったアルテュセール家の料理人が、ナタリアを見つめている。

ようやく思考がはっきりとしてきて、ナタリアは自分がずいぶんと長い間この厨房でうたた寝をしてしまっていたことに気づいた。

「お嬢様、いったいこんな所で何をされていたのですか」

 アランは見慣れたコックコート姿で、ナタリアを見下ろしている。

「何って……別に何をするということもないけれど」

 目が覚めてしまって、寝付けなくて、アランのことを考えて。そうして自分が行くべき場所はここしかないと、そう思ったのだ。

「それより、アランこそどうしてここにいるの?」

「準備がございますから」

「準備?」

「ええ。婚礼の祝賀会でお出しする、クロカンブッシュの」

「……そうね」

 クロカンブッシュ。小さなシュー・ア・ラ・クレームを百個も二百個も円錐状に積み上げてつくるそれは、子宝を願って婚礼の際につくられる。そして、シュー生地を焼き、クリームを詰め、綺麗に積み上げるのには数時間はかかるため、深夜から準備する必要があるのだという。いつのことだったか、『そんなに大変なのにどうしてつくるの?』と聞いたナタリアに、アランはまぶしそうに微笑みながら、『心からその方の幸せを願っているかからですよ』と言っていた。きっとアランはこれから朝までかけて、ナタリアのために一つ一つ、小さなシュー・ア・ラ・クレームを積み重ねるのだろう。

真剣な表情で調理台に向かうアランの姿が脳裏によぎり、ナタリアは今になって、もうこれからはその姿を見られないということにどうしようもない寂しさを感じた。

 明日、フランシスのもとに嫁いでしまえば、もうアランのつくったものを食べることも、アランと厨房で他愛のない話をすることもない。

「ねぇ、アラン。私、なんだか小腹がすいたのだけれど?」

 胸を締め付ける切ない感情を振り払うように、ナタリアは言った。

「こんな時間にですか?」

「こんな時間だからよ」

「お嬢様は昔から本当に食欲旺盛でいらっしゃる」

 困ったものです、とわざとらしくため息をついてみせたアランの口元は、言葉とは裏腹に微笑んでいた。

「ですが、今日だけは特別です」

「……どういうこと?」

 すると、アランは戸棚の中から小さな皿を取り出し、調理台の上にそっと置いた。

「少しだけですよ、お嬢様」

「アラン、これ」

「ええ」

 それは、白い皿の上できらきらと琥珀色に光る、タルトタタンだった。

何回も何回も食べた、あの、タルトタタン。

「だって、どうして? いつの間に焼いてくれたの?」

「お嬢様のことですから、このようなこともあろうかと」

「……ありがとう、アラン」

「婚礼の儀を控えたお嬢様にこのようなものをお出しするなど、ご主人様に知られては何を言われるか」

 内緒ですよ、とアランは唇に手を当てる。そして、ナタリアにフォークを恭しく差し出す。

「ええ、二人だけの秘密よ」

 フォークを受け取り、ナタリアはそっと一口、口に運んだ。酸味と甘味と苦味が口の中に広がる。そして、二口目を頬張った瞬間。体中を幸せが満たしていって、押し出されるように本音と涙がぽろりと落ちた。

「……私、寂しいんだわ」

 そう、寂しいのだ。アランと離れることが。この、いつだってナタリアを見守ってくれて、魔法のようにおいしいものを作り出してくれた、心優しい料理人と離れることが。彼の料理を、食べられなくなることが。

 だってナタリアは、もうずっとずっと、彼の作るものを食べてきたのだ。

 アランにとっては、ナタリアと過ごした時間は人生のほんの一部かもしれないけれど。ナタリアにとってアランは、物心ついてからのほとんどすべての時間をともにしてきた人だ。使用人の誰よりも、そして家族の誰よりも長い時間を。

「アランは、寂しくないの? 私、もう明日からはこのお屋敷にはいないのよ?」

 こぼれてしまった本音が少し照れくさくて、困らせるようにアランに問いかける。

「寂しいですとも」

「嘘つき」

「嘘ではございませんよ、お嬢様」

「本当に?」

「ええ、本当です」

 頷きながら、アランは不意にナタリアの手元から皿とフォークを取り上げた。

「アラン?」

「お嬢様、どうか無礼をお許しください」

 そうして、フォークでタルトタタンを一口切り分けると、ナタリアの口元へと運ぶ。

 戸惑いながらも差し出されたタルトタタンを口に含む。人に差し出されたものを食べるなんてはしたない、なんて。そんな考えは、月だけが見ている二人の秘密の厨房の中では無意味だった。

 タルトタタンが、口の中でじんわりとほどける。アランの手が、顔が、触れそうなほど近くにある。

「以前も、厨房でタルトタタンを召し上がったことがございましたね」

 タルトタタンの味わいを噛みしめるナタリアの瞳をじっと見据え、アランが言った。

「お嬢様はいつも、私のつくったものを本当に嬉しそうに召し上がってくださった。私には、それが何よりも嬉しかったのです」

 なぜだか口を開いてはいけない気がして、ナタリアはゆっくりと、ゆっくりとキャラメリゼされたリンゴを口の中で転がす。琥珀色の瞳が、赤茶色の髪が、少し震えているように見えた。

「お嬢様がお嫁にいかれるのが、私には寂しい。もう貴方の『おいしい』の声を聞けなくなることが、とても寂しいのです」

 じゅわじゅわと、しっとりとした生地がとけていく。アランは少し早口になって、言葉を続けた。

「お嬢様、どうか忘れないでください。お嬢様はずっと、私のつくるものを召し上がってくださった。お嬢様のその体は、私の作ったものでできているのです。ですから――」

 我に返ったかのように、不意にアランが口を閉ざした。瞳が、迷子の幼子のように揺れている。けれど、続くはずだった言葉は、もうわかっていた。

 そうだわ、と口の中に広がる甘さを飲み込んで、ナタリアは思う。

 恋よりも愛よりも、血よりも確かな思いとつながりがここにあるのだ。そして、私が生きている限り、このつながりは絶えることなく続いていく。たとえ、どんなに遠く離れたとしても。

「……失礼致しました。私、お嬢様に大変無礼なことを」

 そう言って、ふっとアランが視線を逸らす。

「……いいのよ」

 この寂しさを抱えているのはアランも同じだったことが、ナタリアにはなんだかとても嬉しかった。

「これまで本当にありがとう、アラン。あなたは永遠に、私の大切な人よ」

 するりと、素直な言葉が口からこぼれ出る。

 (そう――私達はつながっている。たとえ離れても、アランはずっと私の料理人であり続けるのだわ)

 ナタリアの言葉に、アランは一瞬驚いたような顔をして、そしてくしゃっと笑った。

「それにしてもお嬢様、そろそろお部屋に戻られてないと。お体に障りますよ」

「そうね、でもアラン?」

「どうされましたか?」

「私、足が痺れて動けないみたいなの。お部屋まで連れて行ってくれないかしら?」

「ええ、喜んで」

 そう言って、アランは優しく微笑んだ。背中と膝の裏にそっと手を添えられ、体を持ち上げられる。初めてタルトタタンを食べたあのときよりも、この体はずっと重くなっているはずだけれど、アランはあのときと同じように、軽々とナタリアの体を抱えあげてくれる。

「お嬢様は本当に、お美しくなられました」

 目を細めて、アランが微笑んだ。

「……ありがとう」

 そっと手を回したアランの首からは、やっぱり甘酸っぱいリンゴとカラメルの香りがした。


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タルトタタンにさよなら 木下青衣 @yuukiaoi

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