第8話6部 懺悔

 メッカに祈る回教徒を『誰かに許しを乞うているようだ』と言った人がいた。


 イスラム教徒の友人は、神道の祝詞を聞いて。

『何でこんなに繰り返し繰り返しお願いしますって言ってるんだ? 神様を信用していないのか』

 と言っていた。


 まあなんか。

 そんなもんなんだろう。


「お待ちしておりました」


 暗い、暗い部屋の中。

 ただ、七辻を示す聖印だけが蝋燭の光を受けて輝いている。

 その足元に、ひれ伏す小さな細い人影。


「お話があります」


 俺は一人、家令さんの自室に踏み込む。

 何も無い部屋だ。

 窓は分厚いカーテンで遮られ。

 祭壇とベッドとタンスが家具のすべてだった。


「存じております」

「ええ。それならば話は早い」


 振り向いて、家令さんは目を細める。

 俺を見ているような。

 何も見ていないような。


 深い、深い色をした瞳が俺の姿を写していた。


「とうとう。過ちが追いついてしまいました」

「正直な所、俺は貴方が何をやってきたのかあまりよく分かっていませんよ」

「ですが。過ちは過ちです」


 闇に包まれた空気が、耳鳴りがする程に静かに張り詰めていた。


「私は。多くの人を殺してまいりました」


 家令さんはゆっくりと俺に向き直る。

 それから部屋に備わったたった一つの椅子を差し出した。


「『七辻の神』の教えは複雑でしてな。異教徒の方には、理解し難い部分がございます。ええ。人を殺す事は罪でございます。罪であるが故に、神はそれを行えと命ずるのです」

「それが邪神と呼ばれる理由ですか?」

「そうですね。実に長い。その全てを理解せねば矛盾する。その教えの果てに、我らの教義はあるのだと言います」


 両手を胸の前で組み。

 目を伏せて首を振る。


「私には、理解し切る時間はありませんでしたが」

「ありますよ。これからゆっくりと考えればいい」

「そう仰ってくださると言うことは。私の人脈をご要望か」


 組んだ手を高く掲げる。

 宙に浮かぶ拳を、彼の目は睨むように見上げていた。


「市長さまは何かの神を信仰されておられるか?」

「ウチは先祖代々曹洞宗でして」

「それはどういう?」

「小難しい事を言うと、和尚にぶん殴られまして」


 『うるせえ死ね』が口癖の、近所でも有名な暴力和尚だった。

 それでも慕う人が多かったのは、人徳というものなのだろうか。


「素晴らしい。『七辻の神』の教えにも通じます」

「まあなんだか。徳は高いと聞いています」


 般若湯で酔っ払っている姿と、人を殴っている姿しか思い出せないけれど。


「世は理不尽です。力強き者が弱き者を思うがままにする。それが世の理です。例えばそう。今、この場でも」


 家令さんは俺を指差す。

 伸びた爪は分厚く。

 指は節くれ立って曲がって。

 幾筋もの傷跡で覆われていた。


「【暴食フードファイト】を使えば。このような問答をする必要はありますまい」

「望まず意志を曲げさせるのは、正しいこっちゃ無いでしょうが」


 俺はそういうのは望まない。


「だが、誰がそれを咎めるのでしょうか」

「俺が咎めるんですよ」


 俺にだって良心というものがある。

 良識と言ってもいい。

 誰が罰を与え無いとしても。

 悪い事をしてしまったら、美味い飯が食えなくなる。


 だから俺は。

 むやみに『暴』を奮いたくはない。


「……で、あるのならば。貴方こそが『七辻の神』の教えに沿う方です」


 手を放り出し。

 家令さんは平伏する。


「人は在るが儘では獣です。法を知り。礼節を知り。愛を知って始めて。人は人となりえます。

 ある者は言います。『力こそすべて』と。

 ある者は言います。『罰の無い罪は罪にあらず』と。

 ある者は言います。『型を揃えているならば。どのような行為も礼に叶う』と。

 すべて。獣の所業でございます。

 そして市長様。貴方こそが人でございます」


 平伏されるほど偉い人間だとは思えないんだがなぁ。


「故に神は。時に無慈悲に。理不尽に。災いを垂れるのです。

 我らが謙虚さを忘れぬように。

 愛あらずして、人に非ずと忘れぬように。

 『七辻の神』は我らを愛しております。

 愛故に。獣から人になれとおっしゃるのです」


 屁理屈抜かすなクソが死ね、と。

 怒鳴りつけて檀家を殴る和尚の姿を思い出す。

 そういう意味では、俺も同じ教えを受けていたのかもしれない。


 いやなんか。

 うちの和尚の方がよほど酷い気もする。


「我ら信徒はその教えを忘れぬために。忘れさせぬために。罪を知って、罪を犯すものでございます。

 いつの日か。

 人が罪を知り。人が人として暮らし得る。

 その日を夢見て。

 私にとって。今日がその日でございます」


「……俺は哲学とか宗教とか。そういうのは分からないんだけど」


 ぽん、と。

 ひれ伏す小さな肩を叩く。


「あんたの罪は多分。それを抱えて悔やんだ日々が償ったんだと思うよ」


 手の中で、小さな背中が震えていた。

 暗闇に嗚咽が響いていた。


「お聞き下さい。私は傲慢な男です。

 罰を与えるほどに。人を傷つけるほどに。

 我が身は罰を与える側であると。神の隣に有るものであると。そう、悦に浸ってまいりました。

 それが私の罪でございます。

 そしてその罪を、今も行う者がおります」


 嗚咽と懺悔が静かに続く。

 俺は、これを受けるに足りる人間なのだろうか。


 ただ、ここに居合わせただけの人間では無いだろうか。


 彼に赦しを与える存在であるのだろうか。


「俺を助けて欲しい」


 よく分からない。

 分からないままに。それも背負って歩いて行く。

 儘ならぬこの身。

 そう考えるしか無いだろう。


「はい。今、幾人かの者が入り込んで組織化を進めております。その中で工作に手を染めている者がございます。今はアルファと名乗っておる者でございます」

「接触があったのか」

「協力を求められましたが、他計画の途中と説明しております」

「どこにいるか分かるか?」

「お互いに連絡は取り合っておりますので」


 期せずして、スパイの役割を果たしてもらえたという事か。

 ありがたい話ではある。


「それじゃあ。捕らえるための手はずを整えたい。協力を頼めるな?」

「なんなりと」


 ただ一つだけ。

 一つだけ気になった事がある。


「家令さんがこっちにやってきたのは……」

「新天地において。遥か遠方の地であれば、神の目も届くまい。そう考える獣どもに、神の教えを知らしめるために。です」

「……バ・ザムさんの下でも?」


 震えが止まった。

 見上げた顔は、笑ったような優しい顔で。

 嗚咽の代わりに、ため息が漏れていた。


「あの方は、お人好しが過ぎまして」


 それで、分かった。


「そのような事をしている暇はございませんでした」


 この人は。

 いるべき場所を見つけていたのだな、と。


 俺はただ。

 彼の心のわだかまりを受け止める。

 それだけの役割だったのだと。


「それじゃ。後は俺にまかせて下さい」


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