第7話5部 馬鹿は死ななきゃ治らない

 積み上げられた黒塗りの寿司桶。

 数えてみれば、紛うこと無く十と五つ。


 漆塗り螺鈿細工の二つのバベルツインタワー

 それが、見下ろすように屹立していた。


「いっくら数えたって十と五つで変わりゃしねえぞ。お岩さんじゃあるめえに」


 皿を数える仕草をしながら、塔の向こうで笑う声。


 椅子の上に正座して。

 扇子と手拭いを取り出して。

 『時そばの升伝』は戦闘準備を完了させていた。


「まあ、数え間違いした日にゃあ。そいつは折檻じゃあ済まねえだろうがね」


 塗り箸を手元に置いて。

 白い小皿に醤油を差して。

 魚の漢字で埋め尽くされた、湯呑にお茶を注ぎ入れる。


「十五じゃ、あたしとおめぇさんには早食いだ。先に食い終わった方が勝ちって具合で構わねえな?」


 両雄の手元に、箸と醤油と茶が並べられ。

 空気がぴんと張り詰める。


「それで構いません」


「そいじゃ始めるとすっかい。そこの美人のおねーちゃん。合図を頼まぁ」


 控えるエリュアレイに扇子を向ける。

 余裕綽々の『時そばの升伝』。

 エリュアレイは視線だけをこちらに向けて。

 それから眦を決して声を上げる。


「【暴食フードファイト】始めま……」

「さて。寿司と言や上がりってくらい。茶ぁの出来不出来ってのは食い物の味を左右するモンではありますが……」


 開始の声を宣言する。その言葉を終えるその前に。

 終わるを待たずに口火を切った『時そばの升伝』。


 これがこの男のスタイルだ。

 繰り広げられる噺で周囲を自分のペースに巻き込み。


 喋る口のどの瞬間に、食い物を咀嚼しているのか判別しない。

 しかし、気付けば食材の山は消えている。


 何の噺をやるつもりだ?

 古典落語に寿司を題材にした噺は殆ど無い。

 噺の枕からすれば、寿司ではなくて茶の噺……?


「――茶の名産と言やぁ、あたしの故郷にゃ駿河ってぇお国がございます。

 旅ゆけば

 駿河の国に茶の香り

 名所古跡の多いとこ――」


 ……ちょ……。


「――秋葉神社の参道に産声上げし任侠やくざ者。

 昭和の御世まで名を残す

 遠州森の石松のお噺でございます――」


 清水次郎長……。

 ……石松三十石船道中っ!?


「浪曲じゃねえか!」


 思わず叫んで立ち上がる。

 それに『時そばの升伝』は、にまぁと笑って応えて言った。


「おうおう何でぇ市長さま。ここんちじゃ、噺家が浪曲唸っちゃいけねえってぇ法律でもあるんかい?

 こちとらやくざ相手の幇間芸者だ。高座で安心して噺こねくり回してるだけじゃ立ち行かねぇ。

 浪曲都々逸なんでもござれ。

 座敷のお呼ばれあるのなら、何だってやらにゃなねえ身の上だ。好きにやらせていただくぜ」


 ズズッと上がりを啜る。

 すでに一樽目の半分近くが消えている。

 いつ食ってんだよ、この人。


「――さて、この森の石松。金毘羅様へのお参りの帰りでございます。

 大阪八軒屋から伏見に向かう船の上。

 一畳ばかりの借り切って、親分には内緒で買った酒と寿司桶を脇に置き、さぁてちょいと一杯てな塩梅でございます――」


 金毘羅様も八軒屋も、それこそ森の石松も。

 ここの誰もが知らない単語で。

 馴染みもくそも無いだろう。


 しかし、唸るように流れる声が。

 その場の空気を支配して。

 ありありと、その情景を思い浮かばせる。


「――皆々様もご存知の通り。船旅ってぇのは暇を持て余すものでして。

 乗り合わせた船客同士。

 ああじゃないこうじゃない。

 お国自慢や豪傑自慢。

 益体もない話しで盛り上がる訳でございます。


 『ピーチクパーチクうるせえが。酒の肴にゃ丁度いいや』


 そんな感じで石松も耳をそばだてる。

 するってぇと、客の一人がこう言った。


 『東海道にもやくざは多いが、街道一の親分さんってたらどこの誰だろねぇ』


 これこれ、こいつだよ。こういうのを待っていたんだ。

 内心石松は声を上げました。


 なにせ、石松の親分と言えば。

 東海道にその名も轟かす。

 清水次郎長その人でございます。

 街道一の親分って言やぁ、次郎長親分の名前が出ねえ筈もありません。


 身内が褒められるってのは気分のいいモンでございましてね。

 はてさて親分さんのどんな話しが聞けるのかと。

 身体を耳にして聞いておりますと。


 ガバッと隣で寝ていた男が起き上がる。


 『おうおうなんでい。こちとら江戸っ子でぇ、神田っ子でぇ。

  こちとらちっとばっかし任侠やくざもんにゃうるせえが。

  街道一の親分さんって言やあそんなもん、清水の次郎長にきまってらぁ』――」


 生前と変わらぬ名調子。

 気付けば寿司桶は二つ消えている。

 休まず噺をしているはずが。

 口が二つあるとでも言うのか、この人は。


「――それを聞いた石松。

 単純バカな男でございます。

 ニヤける顔を抑え切れず。

 手にした盃そっと出し。

 つまみの寿司も差し出して。


 『いやぁさっきから聞いていたんだが、やっぱ分かってるね。こういう話しはやっぱり江戸っ子だ』

 『おう、神田の生まれよ』

 『まあ座りねえ。寿司食いねえ、酒呑みねえ。やっぱ江戸っ子は違うねえ。

  京都大阪のお人らは、言葉が綺麗で前置きが長くていけねえや。

  そこは江戸っ子、話しが早ええ。

  こういうのをざっくばらんって言うんだな』


 ご機嫌で酒なんかついでやっている。

 客の方もただ酒だってんで上機嫌で、注がれた酒を一杯二杯と開けていく。


 『今言ったねえ。街道一の大親分。なんて言ったっけ?』

 『清水の次郎長』

 『そう、その次郎長親分だ。そいつはそんなに偉いんかい?』


 『は? 偉いのかい。ったぁ何だ』

 『何だたぁ何だ?』

 『何だたぁ何だたぁ何だ?』

 『何だたぁ何だたぁ何だ……ああもういいキリがねえ。そいつは一体どういう要件でぇ?』

 『口は災いの種ったぁ言うモンだが。偉いんかい。たぁどういう了見だ。

  日ノ本全国津々浦々。次郎長大親分以上の侠客やくざがいってぇどこにいるってなモンだ』


 石松さらに気をよくいたします。


 『おうおう、呑みねえ呑みねえ酒呑みねえ』

 『食いねえ食いねえ寿司食いねえ』


 酒を注ぎ注ぎ寿司をやり。

 ほくほく顔で尋ねます――」


 始まった。

 「寿司食いねえ」の言葉と共に。

 みるみる寿司が消えていく。


 落ち着け。

 落ち着くんだ。


 『時そばの升伝』は何も仕掛けてはいない。

 ただ、噺でペースを作っているだけだ。


 俺はただ。

 眼の前の寿司を食う。

 それだけで良いんだ……。


「――『そうかそうか。次郎長親分ってのはそんなに偉いんか』

 『偉いも偉く無いも。そりゃあ偉いに決まってる。

  だがな、古今東西津々浦々。偉い人間ってのはそいつ一人じゃ収まらねえ。

  豊臣秀吉に竹中半兵衛あるように。

  次郎長親分も、そりゃあもう、偉れえ子分どもがいるからこその大親分だ』


 これを聞いた石松はもうご満悦でございます。


 『おうおう、呑みねえ呑みねえ酒呑みねえ』

 『食いねえ食いねえ寿司食いねえ』


 酒を注ぎ注ぎ寿司をやる――」


 それなのに、一向に減っている気がしない。


 タコイカコハダマグロウニ。

 イクラに穴子に赤貝に。

 黄色いタマゴが最後に控える。


 普段なら、流れるように胃袋に消える食材が。

 食っても食っても。

 食っても食っても。


 また、虚空から現れてくるようだった。


「――『江戸っ子だってね?』

 『神田の生まれよ』

 『そうだってねぇ』


 『言ったねぇ言ったねえ。次郎長親分にもいい子分がいるんだってねぇ』

 『いるなんてえ騒ぎじゃねえよ。

  千人近い子分の中で、兄ィと呼ばれる傑物が二十八人。人呼んで清水の二十八人衆。

  この二十八人の中に次郎長位偉いのが五人はいるってから大したもんだ』


 『おうおう、呑みねえ呑みねえ酒呑みねえ』

 『食いねえ食いねえ寿司食いねえ』


 酒を注ぎ注ぎ寿司をやる――」


 まるでそうだ。

 『時そばの升伝』の桶から消えた寿司達が。

 俺の桶に現れているような。


 普段の倍ほどにも食べているようで。

 普段の半分も食い進められない。


「――『食いねえ食いねえ寿司食いねえ』」


 その言葉の度に。

 みるみる距離が離れていく。


 粗忽者の森の石松。

 自分の名前が出るものと。

 客に酒と寿司をどんどん勧めて行く。


 そのたびに。

 『時そばの升伝』と俺の距離も離れていく。


「――大政小政、大瀬の半五郎に桶屋の鬼吉……見知った名前はいくらも出るが。

 肝心要の自分の名前が出てこない。


 こうなりゃ意地だと森の石松。


 『おうおう、呑みねえ呑みねえ酒呑みねえ』

 『食いねえ食いねえ寿司食いねえ』


 酒を注ぎ注ぎ寿司をやる――」


 差は五樽ほどにもなっていた。

 『時そばの升伝』は食うも噺も佳境に入っていた。


 呑み込んだ寿司が、喉から逆流しそうになる。

 普段だったら屁でもないこの量で。


 食い物が喉を通っていない。

 蛇に睨まれた蛙のように。

 『時そばの升伝』に睨まれた俺は。

 胃も喉も、石のように動かなくなってまったのかもしれない。


「こいつは。流石に不味い……」


 立ち並ぶ観衆の中。

 エリュアレイが唇を噛んで立っている。

 ぴんと伸びたその背筋。


 劣勢のこの俺に、じっと視線を据えている。

 信じていると、無言で訴えかけている。


「――『あれだねお前さん。詳しい詳しい言う割りにゃ、実はそんなに詳しく無いね?』

 とうとう焦れた石松。

 いよいよ文句を言い始めます。


 『詳しくねえたぁ心外だ。俺ほど詳しい奴ぁそうはいないよ』

 『それならアレだ。忘れてるのが、一人いるんじゃいませんかってんだ』

 「忘れてる。何言ってんでぇ。清水一家と言やぁ、大政小政に大瀬の半五郎、森のい……』


 そぉら来た!

 石松はここぞと沸き立ちます。


 『森の……何だって?』

 『んー。ああそうそう、そうだった。一番忘れちゃいけねえのを忘れてた』


 『そうかい、忘れちゃいけねかい。呑みねえ呑みねえ酒呑みねえ』

 『食いねえ食いねえ寿司食いねえ』


 酒を注ぎ注ぎ寿司をやる――」


 観衆のざわめき始める。

 俺の劣勢は明らかで。

 エリュアレイにテーダにヘリアディス。

 サーティ、バ・ザム、ミノタウロスの親分さん。

 デラやクレボルン、フルルツゥクまで。


 腹心の仲間たちが、心配そうにこちらを見ている。


「おうおうおう。手ぇが止まっちゃいるが。そろそろ腹ぁ一杯か?」


 噺の中身か挑発か。

 『時そばの升伝』の声がする。


 見下ろせば、満載の寿司桶。


 タコイカコハダマグロウニ。

 イクラに穴子に赤貝に。

 黄色いタマゴが最後に控える。


 一つ手に取り口に入れる。


 しゃくり。

 軽やかな歯ごたえと爽やかな青物の香り。


 かっぱ巻きだ。

 きゅうりを酢飯で巻いただけの安っぽい巻物だ。

 寿司ネタの中では、下の部類に入るだろう。


 だが、今の俺には。

 追い詰められた今の俺には。

 その青物の香りは、一筋の清涼感を与えてくれる。


 まあるい寿司桶の中には、綺羅星の如くネタがある。

 そのネタの価値に上下があっても。


 一つとして、要らぬものなどありはしない。


「旦那! 頑張ってくだせえ!」


 ミノタウロスの親方の、悲壮な声が響いて渡る。

 粗忽で陽気で乱暴で。

 おつむは弱いが、忠義の深さは誰にも負けぬと駆け回る。


 あんたはまるで、遠州森の石松で。


 それなら俺は……。


「負ける訳にゃぁ。いかねえさ――」


 合掌。


 深く息を吸い。

 深く息を吐く。


 吐くと同時に全てを忘れる。


 敵も味方も。

 恐怖も噺も。

 『時そばの升伝』の存在すら。

 俺の前には存在しない。


 この天地に、俺と寿司桶。

 その二つしか無い。


 その境地において。

 この俺の胃袋は。

 まるでひとつの宇宙であった。


「いくぞ」


 いくぞ。

 いくぞ。


 宇宙そらに浮かぶ綺羅星の。

 光も通らぬ闇の闇。


 今の俺は、光も星も食い尽くす。

 暗黒刧洞ブラックホールそのものだ。


 消える。

 消える。

 消える。


 寿司が。

 寿司桶が。

 漆塗りのバベルが。


 音すら立てずに消えていく。


 そしていつしか全ては消えて。

 ふくよかな、お茶の香りが立っていた。


「――お茶の香りの東海道。

 清水一家の名物男。

 遠州森の石松は。


 素面の時は良いけれど。

 酒を呑んだら乱暴者で。

 喧嘩早いが玉に瑕――」


 寿司桶を一つ残して。

 呆れたように微笑んで。

 『時そばの升伝』は茶を啜り。


「――『馬鹿は死ななきゃ治らない』。イヤハヤまったくその通りだ。お利口になっちゃあ、必死の勝負にゃ勝てねえか」


 『時そばの升伝』の敗因は。

 馬鹿が治った事だった。


「あたしの負けだよ」

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