第7話2部 本邦大喰い真剣師列伝

「……『時そばの升伝』……馬鹿な。死んだはずだ……」


 信じられない報告だった。

 執務室の革張りの椅子に座ったまま、呆然とする俺。

 その姿を、蕎麦屋の店主はぽかんと見ている。


 意味が分からないだろう。

 俺も意味が分からない。


 あの男の骨を墓地に入れたのはこの俺だ。

 間違えるはずはない。


「……転生。というものがございますの」


 ぼそり。

 優しい囁き声だった。

 いつ、背後についたのか。

 エリュアレイの唇が、俺の耳元に触れていた。


「他の世界の記憶を保って、こちらの世界に生れ変る事を言うのですの。一世代に、一人二人はおりますの」


 振り向くと、真っ赤な唇が微笑んでいた。

 肩を羽根の手が包む。

 その体温が、ゆっくりと臓腑の奥まで伝わってきた。


「転生。か」

「ですのよ?」


 情報を持ってきたのはエリュアレイだった。

 彼女は治安組織の元締めをしている。


 平たく言えば岡っ引きの総元締めだ。

 今も、荒くれ者どもににらみを利かせるためか、レザードレスにトゲトゲの首輪なんかを着けている。

 完全に悪の女幹部の格好だ。


 それがやたらと似合うのだから、それがまた。

 悪そうな顔をしている時が、彼女は一番輝いている。


「つまり。昨今の連続【暴食フードファイト】事件はその転生した……」

「と、するのは早計ですのよ。でも、警戒は必要、とエリは愚考いたしますわ」


 事のおこりは数日前。

 市内の店に次々と、【暴食フードファイト】を挑む客が現れた事。


 成程、街が大きくなれば、そういう客も増えてくる。

 そういう事もあるだろう。

 それで治安を乱すようであるならば、岡っ引き達の出番である。


 ただしその中で、異常に手強い者が混じっている。

 岡っ引き達にも対応できない相手であるならば、俺が直接出向くしかない。


「……もしもそいつが『時そばの升伝』であるなら、俺が出て……」

「ところでそれは何者ですの? ときそば、ですの?」


 ああ。そこからか。

 そうだったな。

 この世界に、あいつらはいないから。


「真剣師。という連中がいる」


 主に将棋指しを示す言葉だが。

 しかしてそればかりの意味ではない。

 広くは囲碁、麻雀、喧嘩に壺振り、料理人。

 そして大喰い者。


「世の中にある勝負事の、裏の世界の玄人。まあ、そんな所だな」

「さしずめ、やくざや政治家の食客をして、幇間芸や揉め事に持ち出される。そんな所でございますの?」


 この娘はよく分かっている。

 さすがは悪の女大幹部。


 そういえば、古代中華の偉い人が、養っていたものまねの名人に救われた。

 そんな話しも聞いたことがある。

 こちらにも、似たような事はあるのだろう。


 そうでなくても。

 金も暴力も話し合いも、どうにもならない問題を手打ちにするために。

 一応の勝敗の形をつくる手段として。

 賭け事や座敷芸の勝負事で勝敗を決する。

 そういう文化は、どこにでもあるのだろう。


「それに、身につけた芸で日銭を稼いて生きたりもしているか。まあ、そんな感じのやくざ者だ」


 表のプロすら蹴散らす実力を持ちながら。

 刹那的な生き方を選んだ無頼の輩。


 百戦錬磨の経験と、刹那に生きる者の集中力と狡猾さ。

 その全てを併せ持つ。

 昭和という時代が産んだ怪物達。


 それが、真剣師だ。


「『時そばの升伝』もその一人だ。元は落語家で真打ちまで行ったらしい。蕎麦を啜らせれば、名人裸足の腕前で」

「蕎麦啜りの名人がいたのですの?」

「落語の芸で蕎麦を啜る振りをするのがあるんだ」


 はぁ、と呆れたようにエリュアレイ。

 この辺の機微は、日本人くらいにしか分からないか。

 最近の若い人も分からないかもしれない。

 昭和は遠くなりにけり、だなぁ。


十八番おはこの『時そば』を一席ぶてば、高座は満員御礼大盛況。そんな落語家だったんだが、酒と女と大食いで身を持ち崩して。あっちフラフラこっちフラフラ。やくざ者に囲われたり、無銭飲食で生きるようになっちまったと言う訳さ」

「エリには、その男がさほど脅威には感じられませんのよ?」


 まあ、ここまでならばそうだろう。

 『時そばの升伝』の恐ろしさはこれからだ。


「その無銭飲食の技術はまるで魔法のようで。店主相手に一席ぶつと、店中が幻惑されて、何が何だか分からなくなる。気付くと二束三文掴まされてドロン。だ」

「先ほどの報告のように。ですの」

「あれは、落語の題目の一つ。奴が十八番おはこにしている『時そば』そのままだ。そう言う事が、出来るんだ」


 催眠術の類なのだろうか。

 升伝の食卓の付近にいると、落語の世界に引き込まれる。

 そして気付くと、奴の思うがままの展開になっていく。


 これ見よがしに十八番おはこの『時そば』を演じて見せたのは。

 おそらく、俺への挑戦状だ。


「それが……何か?」

「昔、な。俺が師匠に連れられて奴の真剣を見た時は。食った数の倍ほども勘定させていた」

「でも、皿の数を数えるとかありますのよ」


 まあそうだろう。

 その時もそうしていた。

 お互いの若い衆が、食った丼を重ねて番をしていた。


 言葉にするだけで、あの時の異常な雰囲気を思い出す。


 料亭一つを貸し切った、どこまでも続く座敷の上座。

 ずらりと並ぶ親分衆。

 山と詰まれた丼を、青い顔をした若い衆が積み上げていた。


 喘ぎながら蕎麦を食う男。

 涼しい顔で扇子振り振り、一席ぶちあげ。

 時折、丼を持ち上げて、一口でそれを啜り込む『時そばの升伝』の姿。


 座敷のすべてが升伝の舌先三寸に丸め込まれていた。

 何が正しくて、何が間違いか。

 それがまったく分からなかった。


「皿の数と勘定の数。違うと誰かが気付いた瞬間だ。

    『このヤロウ! 丼ぃ隠しやがったな!』

 その一言で、相手側の反則負けだ。人死にまで出た揉め事を、奴は舌先三寸で盗みやがったんだ」


 まっとうに落語に精進すれば、名人と呼ばれた男だったのだろう。

 その才覚を持ちながら、まっとうに生きる事が出来なかった男。

 幾多の修羅場を駆け抜けて。

 幾多の地獄をくぐり抜け。


 その経験と。

 ドロドロの悪意と。

 輝くような才覚を。

 煮詰め煮詰めて練り上げた妖怪。


 それが『時そばの升伝』と言う男だった。


「それでも……」

「『トレンチコートの政』という真剣師おとこがいた」


 何かを言おうとしたエリュアレイを遮って。

 俺は一張羅トレンチコートの襟を立てる。


 市長の執務室にいるにもかかわらず。

 この話しをするときには、背筋に必ず怖気が走る。


「甘味、辛味、肉、飯、麺。なんでもござれの大喰い者で。当代一の真剣師でもあった」


 古びたトレンチコートの匂いが鼻をつく。

 長らく着古され、柔らかくなった袖口が。

 今ばかりは新品のように固くなっている。


「その『トレンチコートの政』でも。蕎麦に関しては、『時そばの升伝』には敵わないと言っていた」


 そう。

 言っていたのだ。

 あの、頑固で傲慢な男が。


 自分が劣るものがあると。

 声に出して認めていたのだ。


「……『トレンチコートの政』は。俺の大食いの師匠だ」


 そして俺は。

 一度として師匠に勝つ事は出来なかった。

 

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