第7話1部 『時そばの升伝』

 蕎麦にも色々ありますが、昔っからうちで扱っているのは二八そばでございます。

 そば粉とうどん粉の割合が二対八だから二八だとか。

 おあしが、中銅貨二枚と小銅貨八枚だから二八だとか。

 まあ、色々言われておりますな。


 そんな感じで屋台を引くのを生業にしていた訳ですが。

 日が落きって、そろそろ晩の一番忙しい頃合いの事です。


 何故だか閑古鳥の鳴いていた夜でございました。


 はてさて、今夜は日が悪い。

 看板下げようかと。

 そんな風に考えていた矢先、暖簾をくぐった一人の男。


 はてさて、どういう顔の男だったやら。

 下膨れぎみの丸顔で。

 目元は大きくまん丸で。

 やたらとタレ目だった事はハッキリ覚えておりますが。


 しかし、不思議と他が思い出せない。

 年寄りだったか、若者だったか。

 細身だったか、でぶだったか。

 どんな服装だったか、履物は何だったか。


 キツネにつままれたと言うんですかねぇ。

 そういうのは全然思い出せないんでございます。

 今にして思えばその時から、何かに魅入られていたんでしょうねぇ。


「まったくなんだか陰気な夜だ。これじゃ商売上がったりじゃあねえかい?」


 伝法な口調のお客様だった事だけは、しっかり覚えております。


「まあ、こんな夜もあらあな。商いは、飽きずにやるのが肝要だって。昔っから言うじゃあねえか」


 そんな事をおっしゃいます。

 これはまた、古風な物言いの方だと思ったもんです。


「それじゃ、熱いところを一つ頼まあ。おっと、ネギはいらねえよ。素の蕎麦だけで十分だ」


 そんな事をおっしゃいます。

 こりゃあまた、通なお客もあったものだと。

 そんな事を思いながら、ちゃちゃっと蕎麦を茹でておりました。


「暮六つ時だってのにこの人手じゃ、今夜は早目に看板かい? ああそうそう。六つ時ってぇのはこっちの昔の時間の読み方で。子丑寅卯……と続くのを、面倒だからって一つ二つ三つと数えたって具合でなぁ……」


 なんとまあ。

 よく喋るお客さんでございます。


 茹でてる間に喋るわ喋る。

 今にも、張り扇取り出し一席ぶち上げかねない勢いで。

 そりゃあもう、ベラベラ喋る御仁でございました。


 そいつにハイハイ相槌打ってる間に、蕎麦はささっと茹で上がり。

 丼につゆを注いで出来上がり。

 そんな具合でお客に出すと。


「こりゃあ美味そうだ。蕎麦はやっぱり素の蕎麦だ。出汁の味を楽しめる」


 そんな事を言いながら、丼抱えて、塗り箸持って。


 ずぞり。


 そんな音がいたしました。


「ひゃあ美味い。蕎麦は喉で味わうってのは本当だぁ」


 口につけて、下ろした丼には。

 一本の蕎麦の残っちゃいませんでした。


店主おやじ。替え玉頼まぁ」


 そう言って、出汁だけの丼を差し出しました。


 あっしはもう、驚きまして。

 いやそりゃあ、市長さまが【暴食フードファイト】っぷりを見ていたもんですから。

 こういう方もいる事ぁ知っちゃあいましたが。

 眼の前で、当たり前のようにやられちゃあ。そりゃあびっくりするもので。


 呑まれちまうってのはこういう事を言うんですかねぇ。

 まあ、蕎麦は一口で呑まれちまったんですが。


 二杯目を茹でている間も、お客さんはベラベラ喋り続けておりました。


 そいでもって、替え玉出す。

 一口でごくん。


店主おやじ。替え玉頼まぁ」


 そう言って、出汁だけの丼を差し出します。


 こりゃあとんでもねえお客さんだと思いましたがもう遅い。


 茹でては呑まれる。

 茹でては呑まれる。

 茹でては呑まれる。


 あっしもそりゃあ商売でして。

 替え玉の枚数くらいは数えちゃいたんですがねぇ。


 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……。

 ここのつ、とう、じゅういち、じゅうに……。


 そんな数えていくつめだったか。


「そういや店主おやじ。今、何時でぇ」


 へえ。

 そりゃ暮六つで。


 むっつ、やっつ、ななつ、ここのつ……。


 何杯目かで丼を替えまして。

 それから、また同じ事の繰り返し。


 茹でては呑まれる。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……。


 茹でては呑まれる。

 ここのつ、とう、じゅういち、じゅうに……。


 茹でては呑まれる。

「そういや店主おやじ。今、何時でぇ」

 へえ。

 そりゃ暮六つで。


 茹でては呑まれる。

 むっつ、やっつ、ななつ、ここのつ……。


 二杯目の出汁も呑み尽くして。

 それから今度は三杯目。


 そんなこんなで丼が積み上がり。

 仕込んだ蕎麦も種切れで。


「お客さん。申し訳ねえですが、今夜はもう看板ですわ」


「おう、そうかい。それじゃ勘定頼まぁ」


「へい。丼十で、それぞえ替え玉……」


「六っつだろ?」


「へいへい。十に六つ。そいつに二八で……」


「ああいやいや面倒臭い。一杯中銅三つで良い。こいつで中銅百八十。大銅貨六枚で銀一枚だから、銀三枚だ。ほれこの通り」


「へへえ。毎度」


 ぴかぴかの銀貨三枚を手渡して。

 お客は夜闇に消えてきました。


 お勘定が全然足りない事に気付いたのは。

 看板仕舞ってヤサに戻って。

 一杯呑んだその後でした。


 まあ、そんな具合の話しでござんす。

 ええ、市長さま。

 こいつばかりは間違いねえが。

 それがいってぇ何が不審でございますか?

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