第2話6部 豚が死ぬには良い日
天気明朗五月晴れ。
どこまでも広がる空と、燦々と降り注ぐ陽光。
空青くして波やや高し。
本日は晴天なり。本日は晴天なり。本日は晴天なり。
いい日和だ。
「今日は、死ぬにはいい日和だ」
口の中で一言呟く。
【
テーブルの向こうでは、タキシード姿のオークがにこやかに座っている。
年老いたゴブリンの家令が、主の巨大な姿を日傘で覆っている。
その姿に気負いは感じられない。
【
死地は既に、何度も踏み終えているという事か。
「ご武運を。主殿」
「ま、アタシは心配してないけどね」
俺の横に立つのはいつもの二人。
俺の背中を押すように、肩に二人の手がかかっている。
その暖かさが心強い。
孤高の男を気取っていても、男は一人では戦えないのかもしれない。
「市長。頑張ってください!」
「負けないで市長!」
「市長が負けるはずが無いですよ!」
デ・ヴゥの大きな背中にかかるのは、大勢の市民の手。
まるで彼を支えるように。
まるで彼にすがるように。
その手を、彼は静かに受け入れる。
「それでは、【
あの喫茶店の看板娘のアナウンスが響く。
それに合わせて、次々と皿がテーブルに並べられる。
熱した油と焼けた砂糖の甘い匂い。
上げた小麦の輪っかが皿の上に積み重なっている。
【
「……ドーナッツ、か」
白茶褐色チョコレート。
様々な色合いが多数の種類のドーナツを用意している事を示している。
そのすべてに、ぶあつく砂糖がまぶされて、さらに油で揚げられている。
まさしくカロリーモンスターだ。
熱を加えれば、そのまま燃え上がってしまうかもしれない。
そんな、カロリーの塊が、積み上がる。積み上がる。積み上がる。
いつまでも、積み上がり続ける。
「……こいつは、とんでもない大艦隊だ」
ドーナッツが9分にテーブルが1分。
テーブルクロスの白が見えない。
まるでドーナッツの大海原だ。
「食材はドーナッツ。時間制限無し。どちらかが、限界になるまで勝負は続きます!」
それも、並の
全身全霊全消化器をかけた、総動員戦となる。
看板娘の手が上がる。
俺とデ・ヴゥ。同時に帽子を脱いでセコンドに渡す。
あの手が下がったその瞬間、俺とデ・ヴゥはこの荒海の航海に乗り出す。
勝利を信じる者がいる。
背を押す声援もある。
だが、舵を切るのは一人きり。
孤独の航海に乗り出す事になる。
「――始め!」
第一次ドーナッツ沖海戦。勃発。
その始まりは、和やかなほどに静かだった。
「いやはや。アンヌさんのドーナッツはいつ食べても美味しいですな」
ドーナッツを手にとり。一口大に割り。口に運ぶ。
俺とデ・ヴゥの動作は、まったく同じだった。
「なるほど。これは美味い」
ドーナッツに熱さは無い。
しかし、人肌に温かい。
揚げた後、食べやすいように十分に時間を置いたのだろう。
人肌の暖かさの残るタイミングになるようにだ。
まさに職人の技。
大艦隊を任された職人の、面目躍如と言った所か。
「そうでしょう。これならば、どれほどだって食べていけますよ」
生地はしっとり、表面はパリパリ。
コーティングした砂糖は油で固められ、バリバリとした食感を作り上げる。
少しだけ、懐かしい味。
これは、あれだ。
子供の頃に食べた給食の揚げパン。
お馴染みのドーナッツ店のアレよりは、揚げパンに近い味わいだ。
あれを、甘い生地で作った。
そんな感じのドーナッツだ。
素朴で。
甘くて。
懐かしい。
昼食時間、自分の給食は早々に片付けて、余り分の揚げパンをどれほどおかわりできるのか。
一番食えた奴は、男子の間のヒーローだった。
そして、ヒーローはいつも俺だった。
「負けませんよ」
サクサクと、変わらぬペースでドーナッツが消えていく。
プレーンの砂糖味に加えて、ココアやきなこをまぶしたもの。糖衣に包まれたものやチョコレートがコーティングされたもの。
様々な味のドーナッツが用意されているのが、また嬉しい。
どれもたまらなく甘い。
だが、異なる味のアクセントが、舌の飽きを軽減してくれる。
長丁場の
「市長と互角だぞ。なんて奴だ」
「大丈夫、市長の本気はまだまだこれからだ」
「頑張れ、市長!」
静かな立ち上がりの序盤戦を終え、勝負は第一コーナーに差し掛かる。
「主殿。これへ」
「市長! こちらを!」
セコンドの動くのも同時だった。
甘味、特に粉物の【
砂糖も小麦粉も、容易く口内の水分を吸収し尽くす。
乾いた口では十分な咀嚼も嚥下も出来ない。
よって水分補給が必要となる。
かと言って、水を飲みすぎれば粉物はあっという間に膨張し、胃腸を圧迫する。
どれほどの水量を、何を用いて、どのタイミングで補給するか。
これが問題になる。
ヘリアディスが差し出したアイスティーを口に含む。
浸したレモンの果汁と、紅茶のタンニンが、甘味にまみれた舌をリセットする。
舌と唇を一度湿らせる。
それだけの量を補給して、俺はドーナッツに再び向かう。
「いやぁ。アンヌさんはアイスティーも絶品ですな」
「本日はご依頼の通りレモンも浸してみました」
――っ!?
相手方の声に、思わず目を見開いた。
俺と同じチョイスをしたと言うのか。
アイスティーというだけではない。
粉物を食う時の王道、ミルクか。
爽快感のレモンか。
カフェイン量と苦味のストレートか。
その特徴を天秤にかけ、結果として選びぬいたレモンを、相手も選択したと言うのだ。
「……やはり只者では無い。そういう事ですね」
「いえいえ。ワシなどは、ただの
なるほど。
【不壊】を名乗る理由がこれか。
まさに、金剛不壊の不沈艦。
目には見えないテキサスロングホーンが、奴の頭上で輝いている。
だが、俺も負けてはいられない。
あちらがラリアートを繰り出すならば。
俺はランニングネックブリーカーで切り返せば良い。
一見、同じ技に見えたとしても、技の狙い、使い手の得意とする所はまるで違う。
俺は、俺のやり方で、がっぷり四つに組めば良いんだ。
焦るな。
焦るんじゃあない。
俺はただ、美味いものを、いつまでも食べていたい。
それだけなんだ。
第一次ドーナッツ沖海戦。
ノーガードの殴り合いは第二コーナーを超え、最初にテーブルを覆っていたドーナッツは新たに揚げられた物に変わっていた。
どれほど食べても減る事無く、新陳代謝を続けるドーナッツの海原。
そこを、黙々と進む二人の雄。
だが、いつまでも航海が順調に続く事は無い。
次なる高波が俺たちを襲う。
「…………っく」
「…………ぅぶ」
ドーナッツが、喉を通らない。
糖質は、毒だ。
過剰な糖質は
俺が子供の頃、コーラが骨を溶かすというデマが流れた。
しかし、糖は現実に身体を溶かすのだ。
故に、身体は急激な糖分摂取に拒否反応を示す。
強烈な吐き気が襲い、食物の嚥下を阻止する。
無理に飲み込めば、リバースする事も珍しくはない。
当然、リバースなぞすればその場で敗退が決する。
不浄負けである。
「市長……大丈夫……ですよね?」
「……何を言っているのですかな。アンヌさんのドーナッツは、どれほどだって食べられますからな」
吐き気を押して、デ・ヴゥはドーナッツを口に詰め込む。
そしてそれを、アイスティーで流し込む。
流し込んだ水分は胃の中でドーナッツを膨らまし、地獄の苦痛の源となる。
膨満感が、ボディブローのように効いてくる。
「主殿。私は……」
「心配しなくていいですよ」
俺の次なる手は、懐から出したピンク色の岩塊。
それを舐める。
――塩っぱい!
岩塩は、遥か太古の海が化石となったものだ。
その海の滋養が、滋味が、俺の口と腹を、通常の状態に僅かに戻してくれる。
ドーナッツ沖大海戦を制する、太古の海の精髄だ。
そして、ドーナッツを手に持ち、食らう、食らう、食らう。
ドーナッツの海原に帆を立てる。
逆巻く糖質の波を乗り越えて。
遥々行くぜ、終焉まで。
「凄まじい人だ、貴方は」
アイスティーでドーナッツを流し込み、デ・ヴゥが追撃する。
応援の声が沸き上がる。
限界は近い。
それは、脂汗が浮かんだデ・ヴゥの顔を見れば分かる。
その限界を超えてまで、彼は俺に追い縋ろうと言うのだ。
「お客人。ワシは貴方を待っていたのかもしれませぬ」
デ・ヴゥが呟く。
視線が定まっていない。
半ば、自分が何を言っているのかすら、理解出来ていないのだろう。
「この街が出来た時。ワシはまだ、何者でも無い
ドーナッツを千切り、口に入れる。
無意識に行われるデ・ヴゥの動作は、夢見るようにふわふわとしている。
「襲ってきた賊に【
とろんとした視線は、夢の向こうの遥か過去を観ているのだろう。
それでも、ドーナッツを貪る動きだけは止まらない。
ゆっくりと、這うように。
しかし、止まること無く。
「【
その手が、止まる。
「ワシは名を偽った。名乗る名の威で、街を狙う者を牽制出来ると思ったからだ。そして、それは正しかった」
「……市長? 何を言っているんですか?」
看板娘の目が見開く。
家令が顔を伏せる。
デ・ヴゥを名乗った一人のオークは、夢見るようにドーナッツの欠片を瞳に写す。
「敵は減り。街はますます栄え。そしてワシは恐れるようになった」
「本物が。龍皇国元帥【不壊の】デ・ヴゥ。その人が
「その時が、たまらなく恐ろしかった」
ドーナッツの欠片が、分厚い拳に握り潰される。
「その前に。全てを終わらせてくれる者が来る日を。ワシは待ち焦がれた」
拳が震える。
茫洋とした瞳に力が戻る。
「だが、ワシはこの街を愛しているらしい。現れたばかりの風来坊に、街の命運を預ける事など……」
震える腕が閃いた。
「ワシには! 出来ぬらしい!」
猛然と立ち上がる。
再び、ドーナッツを掴み、口の中に掻き込む。
「ワシは。ワシの本当の名はバ・ザム。ヌレソル市長バ・ザム! お客人! 今一度勝負願おうか!」
食らう。
食らう。
食らう。
最早限界に達しているはずだ。
ただ、意志力が。
市長としてこの街を支え続けてきた責任が。
限界を塗り替えていく。
「すまぬな、皆の衆。今までワシは嘘をついてきたのだ……」
「市長が。【不壊の】デ・ヴゥじゃなかった……?」
市民にざわめきが広がる。
「それがどうしたって言うんですか!」
そのざわめきを、看板娘の叫びがかき消した。
「この街を守ってきたのは! 街を支えてきたのは! 私達と、この街を創ってきたのは! この人よ! 顔も知らない異国の偉い人じゃない! 今、ここにいる、この人! この人が私達の市長! そうでしょう!!」
「そうだ! その通りだ!」
「市長! 俺たちの市長はアンタ一人だ!」
「負けるな! 頑張れ市長!」
「市長! 市長! 市長!」
祈るような声援が、怒涛のように押し寄せる。
それに後押しされて、デ・ヴゥ……いや、バ・ザムがドーナッツを貪り続ける。
肉体の限界を超える精神の力。
しかし、それは危険でもある。
人は、食い過ぎで死ぬ事すらあるのだ。
勝負を、決める事にした。
「主殿……」
「ヘリアディスさん。ちょっと、コートを持っていて下さい」
トレードマークのトレンチコートをヘリアディスに渡す。
そして。
合掌。
「アンタ。何を……」
合わせた掌が、震える。
震える。
震える
掌から腕へ。
腕から胸へ。
胸から胴へ。
胴から全身へ……。
全身を
二つ吸って一つ吐く。
二つ吸って一つ吐く。
ヒッヒッフー。
ヒッヒッフー。
特殊な呼吸法により取り込まれた酸素が、全身に周る。
見る間に額に汗が流れる。
全身の筋肉が収縮し、細胞の一つ一つが脈動する。
解糖系始動。
クエン酸回路全開。
エンジン最大出力。
血中の糖分をガソリンに、俺の全身は熱を作りだしてゆく。
今の俺は、ドーナッツの海を割って現れる、海底火山だ。
汗が瞬時に湯気に変じる。
昼の日差しの下、オーラのように、吹き上がるマグマのように、蒸気の柱が立ち上る。
それによって消費されるカロリーが、はたしていかなる量なのか……。
「腹が……減ったな……」
勝負は、その瞬間についていた。
猛然とドーナッツの海を平らげる俺。
バ・ザムは驚愕し。
そしてゆっくりと。
両の腕を落として、意識を失った。
彼の愛する市民が作ったドーナッツは、一欠片すら吐き捨てられる事も、地面に落ちる事もなかった。
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