第2話5部 屍を超えて征く者と
湯船に沈んで周囲を見れば。
視界はすべて湯気の中。
彫刻も富士山の絵も、今の俺には必要ない。
あるのはただ、湯の暖かさと水圧だけ。
湯気で視界が狭いのか、湯あたりで頭がボーッとなっているのか。
朦朧とした視界は、それはそれで心地いい。
「もうちょっと汗を流しておくか」
汗を流す程にビールが美味い。
とは言え程度はある。
やりすぎると、逆に楽しめないので注意が必要だ。
中庸、そこそこ、それが重要だ。
「おお、先に入られておりましたか。失礼いたします」
声が浴室に反響する。
振り返ると湯気に映った豊満な身体。
飛び出た胸と豊かな腰回り。
それに腹回り。
顔もでかい。
背もでかい。
「これはこれは市長さん。お先にご馳走になっています」
市長デ・ヴゥだった。
「いやはや。日差しが強いといけませんな。肌がボロボロになって」
「ああ、オークの人たちは大変でしょう」
「ええ。家政婦達にも風呂で念入りに皮を取らないで布団に入るなと、何度も怒られましたから」
温和な声。
聞いているだけでほっこりする会話。
市民に愛されている事は間違い無い。
良い市長だ。
だが、俺にとって良い相手とは限らない。
良い為政者であるということは、敵にとっては厄介な相手という事だ。
「形無しですね。まあ、それを言うと俺の方が酷いものですが」
「貴方の従者の方々は、実にその……個性的な方々ですからな」
「変な奴らと言って良いですよ。私も変だと思いますから」
「はっはっは。度量の広い方ですな。貴方は」
いやぁ。あれを普通とは、間違っても言えないなあ、俺は。
「そうそう。お食事の件。家令から聞きました。いらぬ失礼をいたしました」
「いえいえ。慣れていますから」
そう。相手のホームグラウンドに入った以上、妨害工作の類は慣れている。
だが、フードファイトの技術に対して無知な者の多いこの世界で、このオークの感覚は突出している。
普通ならば、前日までできるだけ食わせるだろう。
その方が、本番で食えなくなる気がするからだ。
だが、デ・ヴゥは逆を行った。
絶食させ、相手の胃腸を縮小させるという妨害工作。
それは、このオークがフードファイトの技術を、少なくとも一端以上、会得していると言う事だ。
「それにしても、いい身体をしていますね」
そして、その肉体。
ぶっとい手足と胴回りには脂肪が纏わり付いている。
通常、肥満はフードファイトには不利だ。
内臓脂肪が、胃腸の拡張の妨げになるからだ。
しかし、彼の太り方は極端なまでの洋ナシ型。
つまり、脂肪の殆どは皮下脂肪だ。
おそらくは、激しいフードファイト修行に加え、内臓脂肪を除去するために有酸素運動を続けているのだろう。
太い手足は、そのためについた筋肉の賜物だ。
心技体。すべてを備えた男。
おそらく、この世界においても最強の一人と言える。
さすが、【不壊】と恐れられた男だ。
湯船の中でも背中に冷たいものが流れるのを感じる。
「いやはや、お恥ずかしい。長年の不摂生が腹に溜まってしまってな」
あっはっは。と笑う姿はまるで気のいいお父さん。
だが忘れるな。
お父さんが一度荒ぶれば、優しい姿は鬼に変わる。
全ての鬼は、家庭に帰ればお父さんなのだ。
「そういえば、市長さんの準備は大丈夫なのですか?」
ちょっとジャブを打っておこう。
「はっはっは。出来れば絶食をして空腹にしておきたい所ですが。いけませんな。ワシは意志が弱いもので。それに言うでしょう。豚は一食抜けば死ぬ。と」
初めて聞く言い回しだ。
だが、こういうジャブを軽くいなせる相手というのは分かった。
いいだろう。
いい相手だ。
本気でやるに、ふさわしい相手だ。
「こちらに来て、初めて敵に会えました」
それだけ言って立ち上がる。
湯で汗を流し、脱衣所へと歩みゆく。
「ワシも、良い【
視線を合わせず外に出る。
かっこいい。
やっぱり、ハードボイルドはかっこいい。
くぅ、これが男の世界って奴だ。
きっと、湯船で市長も人知れずガッツポーズをしているはずだ。
俺は今している。
全力のガッツポーズだ。
さっと浴衣に着替えて食堂に行く。
「というか、浴衣あるんだなぁ、ここ」
便利だからいいか。
「主殿。遅いですぞ」
「先にやらせてもらってるよ」
食堂では二人が待っていた。
すでに大分メーター上げている。
時々思うんだが。
女性って、もしかして昼から酒を飲む事に罪悪感とか無かったりするのだろうか。
なんかそんな気が時々する。
もったいないなぁ。
「風呂場で市長と話し込んでしまってね。豚は一食抜けば死ぬ。ってさ」
「ふぅん。オークらしい物言いねぇ」
「主殿。市長は確かにそう言われたのですか?」
何だろう。
珍しくヘリアディスが真面目な顔をしている。
「確かだけど。どうかしました?」
「『豚は日差しを浴びれば死ぬ』『豚は一食抜けば死ぬ』よく言う物言いですが、オークにとっては特別な意味合いがあります」
そうなのか。
こっちの知識はなんとなくしか無いもんな、俺。
「元々はオーク達の精鋭。まさに、【不壊の】デ・ヴゥ直属部隊である、
「信条にしては、気弱すぎない? 簡単に死にすぎ」
「前半だけですからな。『豚は死ぬ。容易く死ぬ。故に我らは厳しい訓練を乗り越えて、自分の中の
海兵隊みたいな連中だ。
常時忠誠とか一生海兵とか歌いながら走ってそうだ。
鬼教官とかいるんだろうか。
「デ・ヴゥはその
そう言う見方もあるのか。
でも、そうなるとどうなるんだ?
「確かに。それなら辻褄が合うかも」
「何がですか、テーダさん」
「アタシが聞いてるデ・ヴゥの外見なんだけど、あの市長とぜんぜん違うのよね」
「どんなのですか?」
「無愛想でメガネで痩せっぽちの小男。ね」
全然違うじゃないか。
あの市長は愛想の良い裸眼の大男だ。
「なるほど。外見まで違うのか」
「一緒なのはハゲな事くらいよ」
仇と追っていた人の外見も知らないのか。
いや、知らないで見つからない方が都合が良かったのか。
「となると、別人がデ・ヴゥを騙っている。と言う事ですかね」
「その可能性は高いでしょうね」
有名人を騙るのは、情報網が未熟な場所では日常茶飯事だ。
騙る事のリスクより、リターンの方が遥かに高い世界だ。
そういう事もあるだろう。
「まあ、だからと言って何だという話ではありますが」
「……まあ、そうよね」
「【
敢えて言えば、【不壊の】デ・ヴゥは別のどこかにいる。
だが、それとこれは関係ない。
市長がかつて無い強敵である事は、俺の感覚がびんびんに感じている。
久しぶりの本当に戦いに、俺の魂が燃えている。
「三日後が、楽しみですね」
ぐびり、と流し込むビールの味は、なんとも格別の味わいだった。
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