尊厳

にしおかゆずる

尊厳

「ただいま」

 研究所から帰った彼に、答える声はなかった。

 きっと妻は今日も病院だろう。明かりのスイッチを入れると、居間の真ん中で空の揺りかごが彼を出迎えた。

 妻の妊娠が判ったとき、生まれて来る子どものために用意したものだ。しかし生まれた後も、息子は病院から戻っては来なかった。心臓に先天的な持病を抱えていたのだ。

 結婚した後もひたすら研究に没頭し、家庭を顧みることなどまるでなかった。ようやく生まれた息子にその罰が降りかかったかのように、彼には思えた。

 息子を助けるためには心臓移植しかないと、医者は言った。だがこの国では、慢性的に移植用の心臓が不足している。長い長い待機者のリストに名前を連ねてはみたものの、実現の可能性は薄かった。

 ……いや。

 息子を助ける道が、他に一つだけあった。

 自分の研究成果を応用すれば難しい話ではない。だがそう気付いた後も、彼はためらわずにはいられなかった。何度も何度も脳裏に浮かんでは、そのたびに振り払って来た選択肢。しかし今、彼はそれに手を伸ばすことを決めたのだ。その方法とは──

 ソファに腰を下ろし、瞳を閉じる。厳しい表情のまま、彼は妻の帰りを待ち続けた。


 口数の少ない夕食を終えた後、彼は妻に言った。

「ブタとヒトの臓器がほぼ同じ大きさなのは、知っているね?」

「あなた、まさか……」

 異種間移植。

 違う種類の動物との間で、臓器をやり取りする方法だ。長年バイオテクノロジーの研究を続けて来た彼にならば、それが可能だった。

「あの子に、獣の心臓を埋め込むなんて……」

 妻は絶句した。良識ある者ならば、当然の反応だろう。

「移植する臓器には、あらかじめあの子の遺伝子を入れておくんだ。大丈夫、拒絶反応が起こることはないよ」

 努めて穏やかな口調で答えを返す。しかし問題はそんなことではない。それは彼が一番よく知っていた。

 悪魔の技術と言われるそれに手を染めれば、マスコミは狂ったように彼を攻撃するだろう。彼の学界での地位は間違いなく失われる。それだけではない、彼の家族はどうなる? 世間の奇異の目に晒されて育つ、あの子の一生はどうなる?

「他に方法がないんだ」

 自分に言い聞かせるように、彼は言葉を絞り出す。

「こうしなければあの子は、天に召されるのを待つだけだ。あの子の命が失われるのを、ただ黙って見ていることは出来ない」

「……わかったわ」

 沈黙の後、妻はそっと彼の首に腕を回した。

「何があってもあの子は、私たちの可愛いぼうやよ」


 手術は成功に終わった。

 術後の経過も良好で、ようやく家族は息子との対面の日を迎えた。

 これでよかったのだ。

 病院の廊下で妻の肩を抱きながら、彼は喜びを噛みしめていた。

 もちろん自分は、世間の非難を一身に受けるだろう。しかしそれがどうしたというのだ。息子の元気な声、明るい妻の笑顔。それは彼にとって、何物にも代え難い報酬だった。子を思う親の気持ちを、いったい誰が裁くことが出来るというのか。

 看護婦に抱かれ、息子が無菌室から姿を現す。

「ぼうや……」

 涙に喉を詰まらせながら、妻は手を差し伸べた。柔らかな肌の温もりが、幼い命が確かにそこにあることを教えてくれる。

 母の腕の中で、彼らの息子は高らかにブウと鳴いた。


《世界初、心臓の異種間移植成功》

 ×月×日未明、国立医大病院において、ヒトからブタへの初の心臓移植が行われた。患者は満一歳の子豚で、経過は順調とのこと。しかしこの手術が万物の霊長たる我々ブタの尊厳を脅かすものとして、議論を呼ぶことは間違いない。

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