第26話 名刺、磨りガラス、しずく

 ナガハシアキオ、と名乗られて、戸惑った。


「何?」

「えっと……」


 音だけ聞くと、男性名でも通りそうに思える。それを口にすると、相手はにんまりと笑った。丹念に手入れされた褐色の顔が、よくみがかれた宝石みたいに光って見える。


「日本人に見えないとは言われるけど、男だと思われたのはちょっとレアだった」


 彼女は薄い財布の中から、名刺を差し出してきた。親指の爪が、CGみたいに完璧な曲線を描いている。


「名刺なんて、向こうじゃ使わないんだけど」


 とっさに両手を差し出し、おぼつかなく指先をふらふらさせながら名刺を受け取る。

 長橋秋緒、という名前が、中央に記されている。肩書きも何も書かれていないそれは、やけにカラフルで、三角形や四角形が紙一面にちりばめられていて、しかしその中心に記された名前がくっきりと浮き上がって見えるようだった。

 頭の中で、ぼんやりと印象が重なる。


「ひょっとして、イラストレーターさんとかですか?」


 ジギタリスさんのSNSインストのバナーに似ているような気がしたのだ。乱雑に見えて、しっかりと計算された、大事なことが真っ先に目に入るような構造。私にはよくわからないけれど、共通の理屈がそこにあるように思えた。

 秋緒さんは「いい線ついてる」とうなずいて、


「そっちの名前は?」

「……太刀川たちかわ真依まより、です」

「真依ちゃんか」


 ん、と、秋緒さんが目を閉じる。


「どこかで会ったことあったっけ?」

「……ない、と思いますけど」


 こんなに印象的な容姿の人に出会って、覚えていないはずがない。「だよなあ」と秋緒さんも言って、ふたたび深い色の目で私を見つめた。


「でも、名前はどこかで……」

「帰って来るなり女の子にちょっかい出さないの」


 濃厚な香りと苦笑交じりの声が、テーブルに降ってくる。とん、とコーヒーカップを置いて、秋緒さんを一瞬だけにらみつけた店長は、私の方に微妙な目線を向けた。


「ごめんね、ぶしつけで。距離感が人と違うのよ、彼女。いやだと思ったらすぐ呼んで」

「なんて言い草だよ。ハラスメントには気をつけているさ、こっちの国よりずっと」


 嫌がらせたら、好きになってもらえないし。秋緒さんはそう言って、カップを口に運んだ。


「なつかしいな、この味。ちっとも変わらない」

「1年やそこらじゃ、それは、ね」

「わからないよ。あたし、向こうじゃ半年で3回引っ越したし」

「こっちでも馬鹿みたいに引っ越してたじゃない。秋緒が落ち着かないだけでしょう」


 秋緒さんは「ごめんねえ、いつも手伝わせて」と笑う。店長の切り返しを予想していたみたいだった。ふたりの間の気安い雰囲気をぼんやりと見やりながら、私は残り少ないカップを口に運ぶ。

 と、秋緒さんはすぐにこちらに向き直った。右手でカップをゆらゆらと左右に揺らしていて、ちょっとだけあふれそうになっていた。


「この店、いいでしょ?」

「え、ええ、まあ」


 私があいまいにうなずくと、秋緒さんはちらりといたずらっぽく店長を見て、


「こいつのことは気にしなくていいよ。本音でしゃべって」

「こら」

「お、客に文句言うの、店長? 低評価レビューつけるぞ?」

「いいけどね。ネットで探しに来るお客さんなんて、そんないないし。あなたも口コミで来た感じでしょ?」


 店長が、気遣って私に話題を振ってきた。


「そうですね。最初にここを教えてくれたのは……」


 そのときのことを思い出そうとして、ちょっと視線を遠くに向ける。磨りガラスの向こうの冬景色と同じくらいに遠い、魔法少女だったころの記憶を呼び起こす。輝理きりちゃんに助けられて、魔法少女になって、なんだかんだで4人になって、確か……


函名かんなちゃんに誘われたんだったかな」

「カンナ?」


 すっ、と、薄いナイフのように差し込まれたのは、秋緒さんの声。


高良たから函名? カンナの知り合いなの?」

「あっ、はい、高校の、」

「思い出した」


 ぴっ、と、右手の人差し指で私の眉間をさした。勢いで、熱いコーヒーがひとしずく、カップの縁を越えてあふれる。

 秋緒さんの瞳の色が、ずっと深くなったような気がした。私へ向ける関心が質を変えて、より奥へと踏み込んでこようとしている。


「カンナがちょいちょい通話で話してる子か、太刀川真依。あの子、セフレの女の話ばっかだけど、たまに友達の話するから、それで名前だけ覚えてた」

「あの……」


 あけすけな単語はスルーして、私は秋緒さんに向き合う。いつもは座り心地のいい椅子が、いまだけ、お尻の下で落ち着かない。何か大きなものが押し寄せてきて、私を揺さぶっているようだった。


「函名ちゃんと、知り合いなんですか? その……」


 そういう、友達のひとりなのだろうか? でも、さっきの話だと、今日になってマレーシアから帰ってきたばかりで……

 私の目がうろんげだったのか、秋緒さんは背中を思い切り反らして「あは!」と笑う。


「あたしとカンナがそんなだったことはないなあ~……あたしもあの子には手ぇ出せなかったし、向こうもそんなふうにゃ見られなかったんじゃないか?」

「……親しかったんですね」

「いっとき。なんていうか……シェルターみたいになってあげてた」


 その話は終わり、とでも言うように、秋緒さんはコーヒーをくいっと傾けた。私はぼんやりと、どう言っていいのか戸惑ったまま、両手で自分のカップを握っていることしかできない。

 こんなところで、海外帰りの、函名ちゃんの知り合いと出会うなんて。しかも、どうしてか、訳ありのようで。

 ふと、妙にいやな予感がきざした。わずかに体を左右に揺らして、問う。


「どうして、こちらに?」


 函名ちゃんに、何かよくないことでもあったんだろうか。今日もデートだと言って、集まりには顔を出さなかった。

 魔法で戦えることなら、私や輝理ちゃんがなんとかしてあげられるかもしれなくても、そうでないことなら、どうにもならない。

 秋緒さんは、笑う。私の胸の不安な暗がりを見透かしたみたいに。


「あいつのことじゃないよ。カンナは元気でしょ?」

「……そうですね」

「別の知り合いが、半年くらい前に、ちょっと病んでたみたいで。いつのまにか片付いたっぽいんだけど」


 こういうのって、肝心なときには間に合わないんだよねえ、と、秋緒さんは眉尻を下げる。困った風な、だけど、楽しそうな、なんとも言いがたい顔をしている。


「まあ、せっかくだからスケジュールを空けて、むりやり戻ってきたわけ。しばらくいれることだし、その間は目一杯甘やかしてやるつもり。あいつには、厳しくしちゃったから」


 秋緒さんの声ははずんでいて、彼女はまだ冷め切ってもいないコーヒーを思い切りあおった。唇の端から、コーヒーが一筋、褐色のおとがいを伝い落ちる。彼女の肌とよく似た色のしたたりは、まるで、秋緒さん自身の中身がしみ出したみたいだった。

 ぴちょん、とテーブルの上ではねた黒いしずくは、なめらかな木目調のテーブルの上に、ちいさなよどみを作った。

 カップを置いて、笑いかけた秋緒さんは、ぞっとするほどきれいだった。


「あたしの弟子でね、そいつ。きみも知ってるでしょ? 黒沢くろさわ音月ねつき

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る