第24話 背伸び、信頼関係、友達
頭の中で言い訳を用意しながら、私は、いつかふたりでパンを買いに行った街で
あのときの音月さんは、お酒の缶を片手にしているというのに、そのたたずまいが恐ろしく様になっていた。あんなふうに誰かを待てる人になれたらいい、と、思ったこともあるけれど、いまの私は背伸びしたって音月さんには追いつけない。
こうして音月さんを待っていても、私は落ち着かなくて、駆け出したい。夜風が服の上から肌を刺して、みっともなく凍えそうになる。大人びた夜の街には私は似つかわしくないような気がして、つい視線をうつむけてしまう。目の前を行き交うのは、深い色のパンプスやよく磨かれた革靴。私のローファーは、それらと比べるとすこし野暮ったく見えてしまう。服はもちろん、足下さえも私は大人になれていない。
魔法少女なら、この大人びた夜にも似つかわしいだろうか。変身して、空を飛んで逃げ出せば、私も大人に近づけるのだろうか。
目の前に、見覚えのあるつま先が現れる。カジュアルで軽やかなデザインのスニーカーは、不思議と黒いアスファルトになじんでいた。
「お待たせ」
その声に、すこしだけ荒い息が混じっていたみたいに聞こえて、私は顔を上げる。薄化粧の音月さんは、肩を一度軽く上下させてから、結んだ黒髪を指先でそっと背中に下ろす。
すみません、と、謝りそうになって、口をつぐむ。ちょっと考えて、私はもっとふさわしい言葉を選ぶ。
「……ありがとうございます、急だったのに」
「このくらい、急なうちに入らないよ」
仕事なんて人間関係よりずっと急なことばっかだからね、などとうそぶく音月さんの言葉は、どこまで本音なのかよくわからない。単に私に罪悪感を抱かせないための優しい嘘なのかもしれないし、仕事の愚痴なのかもしれない。
うまく気持ちが読み解けなくて、私はつい、じっと音月さんの顔を見つめてしまう。音月さんは、冗談が滑ったみたいな顔をした。笑っておけばよかったんだろうか。
「ちょっと歩こ」
「……はい」
笑おうとして笑いきれなかった私の表情は、すごく変な顔になっていたと思う。音月さんはそっぽを向くようにして歩き出し、私はゆっくりした足取りで後を追った。
魔法を使わないと、うまく人の気持ちがはかれない。昔みたいに、周りの人たちの気持ちにことごとく同調してしまうべきではないのだけど、こうして気持ちがすれ違ってしまうのは胸が痛い。
音月さんが、ちょっと歩調を落として私に並んでくる。顔を上げる私に、
「何してるの」
「え」
「
なるほど、言われてみればそうだ。人を呼ぶだけ呼んで、話もせずに人の後ろにくっついて歩こうというのは、なんだか間抜けな話だった。
夜の通りに溶け込んだ音月さんの表情はうまくうかがえないけれど、いつもは強い眉が、ちょっと下に垂れ下がっているみたいに見えた。
「話、というほどのものじゃ……」
「そうなの?」
私の言葉を聞いて、眉がいっそう下がる。困惑させてしまったのを申し訳なく思いつつ、どうにかこうにか、言葉を継いでいく。
「すこし、友達とすれ違っちゃって」
ふたりの歩くリズムにあわせると、すこし急かされるような気分だったけれど、不思議と心地よかった。音楽の授業やカラオケとは違うタイプの歌を、唄っているような感じ。
「うまく話せそうなひとが、音月さんくらいしか、いなくて」
「こないだの絵の話?」
「元はといえば、そうなんですけど。ただ、もっとこう……」
言葉にしづらい言葉を舌の上で転がす。音月さんをすこし見上げながら歩いているから、口の中で声がわずかに詰まって、放ちづらい形にこごっていくような気がする。そのまま胸の奥に言葉が沈んでしまいそうだった。
音月さんは、私の言葉を焦らせたりせず、同じ歩みのリズムを保つ。前から来るスーツ姿の人たちや、後ろからやけに急いで駆けていく自転車も意に介しない。
その速度を維持したまま、音月さんがちょっと向きを変えた。私はそれにあわててついていく。私たちは並んで、夜のなかでいっそう暗い角へと踏み入っていく。
「どこに行くんですか?」
こないだのベーカリーに行く道ではない。問う私に、音月さんは軽く首を横に振った。
「あんまり決めてない」
「え?」
思わず声を上げてしまう。行き先もわからないのに、あんな迷いのない速さで歩くことができるのか。
踏み込んだ角のむこうは、ごみごみしたにおいがした。雨のあとでもないのに湿ったような路面が、足の裏にへばりついてくるみたいに感じられた。
「この辺がどうなってるのか、ちょっと気になっててさ」
「……恐くないんですか?」
「真依がいるからね」
そんなことを言って微笑む。
「それに、この手の裏道は慣れてる。こういうとこに突然、見知らぬギャラリーとか、得体の知れない小劇場とか、マイナーなライブハウスとかあったりするんだよ」
「いつも、そういうの探してるんですか?」
「たまにはね。そういう開拓を忘れると、クリエイティブの感覚も鈍るし……怒られるからね」
「怒られるんですか?」
パワハラとかアルハラとか、大人が叱られる状況というのは想像がつくけれど、その対象が音月さんというのはピンとこない。出会ったころから、音月さんはいつもクールで、有能で、誰かにお説教される様子なんてイメージできないーー自分で自分を追い込むことはあっても。
音月さんは、すこしうつむいて「……まあね」と笑い混じりにつぶやく。肩をすくめて前屈みになったその一瞬だけ、音月さんの背丈が数センチ縮んだみたいに見えた。
センセイ、という声が思い出された。いつか、風邪にうなされた音月さんが口にしたねごとの響きを、私は今でもあざやかに覚えている。
「ちゃんと怒ってくれる人は、ありがたいよ」
「……そういうものですか?」
ぼんやりとした問いかけに、音月さんはちょっとうなずくだけ。リズムを失った問いは、そのまま夜の闇に溶ける。
ちゃんと怒る、という言葉自体、私にはいまひとつよくわからない。私の知っている怒りは、お説教か糾弾か、もっと悪く言えば魔女裁判のようなものばかりだ。ひとを泣かせるか、吊すか、それだけを目的としているやり方。
私自身の体験もそうだし、”リガ”になってしまったひとの記憶も、同じだった。
音月さんは、違うのだろうか?
”リガ”だったときの彼女は、もっとずっと孤独だった。
「信頼関係があればね」
すこしタイミングを外して、答えが戻ってくる。音月さんはいつの間にか半歩先にいて、私はちょっと小走りで追いついた。肩越しにこちらを見ていた音月さんの瞳に向けるように、
「音月さんが信じてるひとって、」
「ちょっと遠くにいる」
私の問いが終わるより前に、音月さんはかぶせるように言った。
「どうしても疎遠にはなるけどね。向こうも自分も、それなりの生活ができあがっちゃうから。でも、のんびり待ってると、いきなりつながりが戻ってきたりする。遠いひととの縁って、年単位のつながりだと思った方がいいのかもしれないな……」
いくぶん早口に、音月さんは言いつのった。まるで、ずっと形にできなかったものをいっぺんに生み出そうとしているみたいだった。
ずっと、そんな話をしたくてたまらなかったのだろうか。いまここにいない、たいせつなーーきっとたいせつだったひとのことを。
ふう、と、話を区切るように、音月さんは息を吐いた。
「でも、つながりって結局、収まるように収まるんじゃないかな。だから、まあ真依も……気長に待つといいよ」
とってつけたようなアドバイスは、道徳の教科書みたいに薄っぺらく聞こえた。私は、はい、とも、はぁ、ともつかない声を発してうなずく。
私のしょっぱいリアクションを見て、音月さんは思い切り唇をゆがめて苦笑した。
「そんなにお説教くさかった?」
「……すみません。でも、そういうの、いまはいいかな、って」
「だね。わたしも好きじゃないな……十代の子に教訓垂れるとか、年食っちゃったかな」
悲しそうにする音月さんを見たら、きゅっと胸が締め付けられた。背伸びするみたいにして、私は音月さんの耳元に叫ぶみたいに、
「あの、音月さんのこと、信じてないわけじゃなくて、だから」
「嫌われたとは思ってないよ。大丈夫」
すっ、と、首筋に音月さんの手が添えられる。触れるか触れないか、微妙な間合い。でも、それはなんだか近すぎるみたいに思えて、でも、そもそも私と音月さんはすでに肩が触れそうなくらいに近くにいて、寄り添うような様子で歩いていて。
このまま抱きすくめられちゃうんじゃないか、と一瞬思って。
「私も、音月さん、」
言いかけて、声が止まった。
どこともつかない夜の道、きわどいふたりの距離、自然に絡み合うふたりの歩調。
ふさわしい言葉は、のどの奥にこごったまま、出てこない。
音月さんは、つかのま、私の言葉を待つように、じっと私を見つめた。夜の底でなお鈍く光る瞳は、宝石のよう、という形容がふさわしく思えた。
そうして、一瞬。
「……友達です」
私はようやく、そう告げた。音月さんは、かすかにうなずいた。私たちの頭上には、オレンジ色をしたカフェバーの看板がまたたいていた。だけど、薄くただようアルコールのにおいは私には不釣り合いで、音月さんはあわい光の中であいまいに笑うだけだった。
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