第21話 ちいさな汚れ、回路、さざ波

「内緒話、しよぉ?」


 放課後、函名かんなちゃんに耳元でささやきかけられて、私はちょっと背筋がぞわっとした。ふいに急所をなでられたみたいな、部屋の隅に残っていたちいさな汚れをあげつらわれたみたいな、不安と恐れを呼び覚ます、けれどわずかに気持ちいい声。

 こういう声を聞かされるのが、好きな人がけっこういるのかもしれない、と、ちょっと思う。

 振り返ると、函名ちゃんはすぐ後ろにいて、椅子の背越しに私の首元に顔を寄せている。


「あれ、びっくりさせすぎちゃった? ごめんねぇ」

「いいけど……」


 函名ちゃんはほとんど気配もさせず、私のすぐ後ろに入り込んでいた。どちらかといえば人の気配には敏感なつもりだから、ふつうに驚いてしまう。

 こういう芸当ができるのは、函名ちゃんくらいだけど、いつもはそんないたずらはしない。

 今日の彼女は、いつもとちょっと違うのかも。内緒話、だなんて。


輝理きりちゃん、学校来なかったねぇ」


 私の後ろの席の机に腰を下ろし、函名ちゃんは言った。教室にひとはまばらで、大半の席はすでにからっぽだ。夕方の赤い空気をたたえた教室は、ふたりきりで話をするにはかっこうの舞台のような気がする。


「いつものことじゃない?」


 そう答える自分の言葉まで、なんだか芝居がかっている気がした。なんだか、いつもは言いそうもないことを言ってしまいそうな。

 だから内緒話なんて言い出したんだろうか、函名ちゃんは?

 彼女は机の上でちょっと身じろぎする。衣擦れの音が聞こえるくらい、あたりは静かになっている。かすかな吐息まで届いてくる。


「あの絵、」


 函名ちゃんは息を吐いて、


「わたしはいやだったなぁ」

「……輝理ちゃんの?」

「うん。あのイラストレーター、真依まよりちゃんの紹介だったんだよね?」

「紹介……と言うと、微妙に違うけど」


 生江見いくえみさんと私が会っていたところに輝理ちゃんが突然現れたのが最初で、元はといえばギャラリーで絵を見たのがきっかけで、それは音月ねつきさんに連れられていって……

 そんなふうに、私はとりとめもなく説明する。「そっか、音月さんかぁ」と、函名ちゃんはかすかにつぶやく。


「どうりで、なんか違う価値観だと思ったぁ」

「違う、って?」

「真依ちゃんが好きそうとは思わなかったなぁ、っていうかぁ」

「……どうなのかな」

「ん? 真依ちゃん的にはそぉでもない感じ? 実は隠れ趣味あったり?」

「じゃなくて……知らなかったものに、好きも嫌いもないじゃない?」


 私自身、あの絵に出会うまで、ジギタリスさんの絵が好きだなんて思ったこともなかった……って、それは知らなかったんだから当たり前だけど、でも、ああいう類いのイラストが琴線に触れることさえ想像できなかった。

 でも、出会って好きになったんだから、きっとそういう回路が私の中にはあったんだろう。


「まぁ、ね……」


 ぽつりと、函名ちゃんはちょっと首をひねる。丸い瞳はずっとこちらを見ていて、硬いビー玉が瓶の中で転がるみたいに、まぶたの中で揺れている。しん、と、耳に刺さるような沈黙。


「函名ちゃんは、出会いたくなかった?」


 思わず口を開いていた。


「あんなふうに輝理ちゃんを描いてほしくなかったの?」


 私の言葉を受けても、彼女の瞳は動揺したりはしない。かすかに揺れながら、私から離れることなく光っている。


「……うん。だって、気持ち悪いでしょぉ?」


 やわらかくて安全そうな函名ちゃんの声が、静かに刺さる。いまこのときは、彼女の声は痛みを伴い、私の胸の表面にチクチクと不快な感覚を残す。

 内緒話だからなあ、と、私は声に出さずにつぶやいた。


「輝理ちゃんがあんなに喜んでるから、表だっては言えないけどさぁ。あれは、人を選ぶタイプのイラストでしょぉ? 友達がモデルで、あの絵が出てきたら、こう……ウッ、て、なるよぉ」

「……」


 どう言ったものか、すこし迷った。でも、内緒話だ。聞いているのは私と函名ちゃんだけ。


「私はいいと思ったよ。見た目はグロテスクだけど、リアルな質感があって、だから逆に、きれいで」

「意外だよねぇ、真依ちゃんにあの辺が刺さるの。わたしはいまいちわかんない」

「わからなくても、私は好き」

「……うん、好きなのはわかった」


 はぁ、と生ぬるい音のするような、吐息混じりの函名ちゃんの声だった。その声の響きが、私の胸に未だ突き刺さっていた嫌悪感をそっと拭ってくれたみたいに思えて、ほおが緩んだ。言い負かしちゃったみたいになって、いまさらながら、ちょっと申し訳ない気分だった。

 でも、謝るのもなんだか違う。ここで謝ったら、私の感覚を否定してしまうことになりそうだった。その好きな気持ちは私自身のもので、取り消す理由はどこにもない。


「よかった」


 だから、代わりにそう言う。


「内緒話、できて。函名ちゃんが思ってること、ちゃんと聞けたし」

「そんならよかった。わたしも、真依ちゃんがそこそこ本気で自己主張するの聞けたのは、わりとレアだし」

「……そうかな?」

「根が遠慮がちなんじゃない?」


 かもしれない。

 というか、たぶん、昔の自分のなごりがまだあるのだろう。人の気持ちを自分のものみたいに感じて、なんでもしゃべってしまって、嘘吐きだとののしられた私。嫌われないように、しゃべらなくなった私。

 魔法はどうにかコントロールできるようになったけれど、行動に染みついた慣れはなかなか消えない。


「言葉にされない気持ちなんて、ないのと同じだよぉ」

「……函名ちゃんこそ、こんなに本音しゃべるの、珍しい気がする」

「カノジョにはいつも本音をぶつけてるんだよぉ」

「はは……」


 苦笑する。カノジョなるポジションのひとが複数いるのを知っていると、あんまり素直には感心できない。


「今度は、玲蘭れいらんちゃんとも内緒話しなきゃね」

「……玲蘭さんは、わりといつも本音でしゃべってる気がするけど」

「でもないよぉ。ひとから見える場所じゃあ、どうしたって取り繕うからねぇ」


 ネットの話だろうか。私にはよくわからないけど。


「ま、それはまた今度だねぇ」

「玲蘭さんは、あの絵、どう思ったのかな? やっぱり実は……」


 言いかけて、首を振る。それこそ本人に聞かなきゃわからない話だ。

 私が立ち上がると、息を合わせたみたいに函名ちゃんも机から脚を下ろした。さっきまでひどく静かに思えた教室に、私たちの動く音がざわざわと響き渡っていって、夕暮れの空気にさざ波を走らせていく。

 函名ちゃんは、私より一足先に教室を出て行く。その背中を眺めながら、こうして内緒話をするのが、函名ちゃんの処世術なのだろうか、とぼんやり思う。内緒話なんて子どもみたいだけど、こうして相手を選んで本音を打ち明けるのは、大人のやり方なのかもしれない。どちらにしても、中間にいる私たちにはふさわしいのかも。

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