第19話 イートイン、『あなたはわたしの虹』、返信

 今日会うと決めたのは、朝起きてSNSリンリンを送ってからだった。週の半ばに約束を取り付けて、土曜日までやきもきした日々を過ごさなくても、私は音月ねつきさんとかんたんに会えるようになりつつあった。

 たぶん、同じ部屋で過ごすことはひととひとの関係を近づけるのだろう。私が魔法少女仲間とパジャマパーティーをしたときがそうだったように。

 風邪を引いて寝込んだ姿を見られて以来、音月さんは、私に対してすこし距離を縮めてくるようになった気がする。


「これ、見た?」


 音月さんのマンションから歩いてすぐのところにあるパン屋のイートインコーナー。パンにだけはやたらにこだわりのある音月さんは、ここでおいしいのは定番のメニューだけだから、といって、あんパンとパン・オ・ノアを私に勧めた。

 ふたりぶんのパンを並べたトレーを挟んで向き合うなり、音月さんは私にスマホの画面を見せた。

 少女の割れた頭部から、アーチを描いて巨大なイモ虫が這い出していた。生江見いくえみさんの新作だ。


「……食事の前に見せるものじゃないんじゃ?」

「それもそうか。ごめん」


 まともなデリカシーが鈍っちゃってね、と苦笑して、音月さんはスマホを裏返してテーブルに置く。


「ご飯もデスクで食べるからさ。作りかけのグラを見ながらサンドイッチ、なんて珍しくもない。こないだもモンスターのやられモーションずっと作ってて、首が……」


 私の視線にようやく気づいてくれたのか、音月さんは熱いコーヒーを一口飲んで顔をしかめた。舌をやけどしたのか、それとも想像以上に苦かったのか。

 私は苦笑を押し隠して、言う。


「もちろん見ました。ラフの時に輝理きりちゃんに見せてもらいましたし」

「ああ……やっぱ、あの子がモデルなのか」


 インスタに貼られたそのイラストには、『あなたはわたしの虹』とキャプションがつけられていた。おぞましい印象からはかけ離れた一文だったけれど、モデルの輝理ちゃんや、生江見さんとの関わり合いを知っていると、納得がいく文章だった。

 音月さんは間を持たせるみたいにあんパンを口に入れる。私はその向かいで、大きなクルミの実のかけらをかじる。クルミのほの甘い食感が、しっかり焼いたパンのほろ苦さとうまく溶け合う。確かにおいしい。

 土曜の昼前、店内の空気はパンの匂いに満たされておだやかに緩んでいる。子どもたちのはしゃぐ声と、母親たちの会話が、かすかな音楽にも似た安らぎを醸し出す。業務用のグラインダーが稼働するやかましい音も、ちょっとしたアクセントだ。


「あの子さ」


 何気ないふうに、音月さんが言った。


「やっぱり変身したの?」


 オレンジジュースのコップを握った手を止める。私は音月さんの顔を見つめる。天井に何か気になるものでも見つけたみたいに、彼女の視線は宙を泳いでいる。

 何のことを言っているのかはすぐわかった。


「見ないで描いた、って、輝理ちゃんは言ってました。おどろいてましたよ、珍しく」


 生江見さんの絵の中で、モデルの少女は現実離れした服を着ていた。フリルとリボンを全身にまとわせた、赤と白のワンピース。華のように広がるペタルスリーブの袖と、レイヤードフリルのペチコート。

 魔法少女として活動するときの、輝理ちゃんの衣装だ。いっしょに戦ってきた私から見ても、ダメ出しするようなところもないくらい、本物とうり二つの服。

 生江見さんは、それを想像だけで描いたのだと言っていた。


「そうなんだ……」

「生江見さん、やっぱりすごいんですね。輝理ちゃんが言うには、モデルらしいことはあんまりしなかったって言ってましたよ。ヌードにもならなかったし」


 それは冗談だけれど、生江見さんの仕事は、いかにもなアーティストやイラストレーターのやることとはちょっと違ったらしい。

 輝理ちゃんが言うには、生江見さんは、ただ輝理ちゃんといっしょにいただけだったそうだ。学校帰りにご飯を食べたり、輝理ちゃんの部屋を訪れたり、あるいはいっしょにギャラリーに行ったり……厄介おじさんをやっつけたのも、そのときの話だ。そういったトラブルはありつつも、生江見さんと輝理ちゃんはただの友達みたいに、何気なく過ごした。

 その間に、生江見さんはタブレットにスタイラスを走らせては、じっと画面を凝視していたという。戦いの後遺症で視力の悪い生江見さんは、画面上で過剰に細部を拡大させて線を引く。異常な緻密さは彼女のイラストの持ち味だけれど、それはあくまで、そんな作業態度によって生まれる線の密度の話だと思っていた。

 見たこともない魔法少女の衣装さえ、描いてしまうような幻視の力は、私の想像を超えていた。


「びっくりしましたけど……ただ、わかるような気もするんですよね」


 オレンジジュースを今度こそ口に入れて、私は唇を湿らせながら、言う。


「魔法少女同士だから、なにか、見えたのかな、って」


 生江見さんも、かつては魔法少女だった。理涯境域に出入りして”リガ”と戦うということは、”リガ”を生み出す人の心の深淵に向き合い、その見極めがたい形を見極めることだ。

 それが生江見さんの目を……様々な意味で、生み出したのかもしれない。

 だから輝理ちゃんの姿も見抜けたのかもしれない。

 生江見さんと過ごした時間を話すときの、輝理ちゃんの笑顔を思い出す。


「楽しそうでしたし、輝理ちゃん」

「……そうなんだ」


 けほ、と、音月さんがちいさく咳をする。


「また風邪ですか?」


 身を乗り出しかけた私を、音月さんはちょっと手を振って退ける。


「ううん……むせただけ。パン、飲み込めなかった」


 熱くて苦いコーヒーを口にして、音月さんはもう一度、手を横に振った。

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