第17話 紙コップ、スプーン、正義の味方

 部屋の壁沿い、フィギュアを飾ったガラスケースとモダンアートのポスターに挟まれるみたいにして、ちいさなテーブルが立てかけられている。お客さんが来たときのために準備しているらしい。

 私はそのテーブルを壁から引っ張り起こし、部屋の真ん中に据えた。おかゆとサラダのお皿、スーパーで買ったペットボトルのお茶とプリンをそこに並べる。音月ねつきさんも手伝いたがっていたが、風邪引きの人を働かせるわけにはいかないので、ベッドに座っていてもらった。準備が整ったところで、音月さんはいそいそとテーブルの横に腰を下ろした。

 お茶を紙コップに注いでさしだすと、音月さんはそれを一口に飲み干す。すこしむせたように咳きこむ。


「大丈夫ですか?」

「うん、ごめん。風邪、のどから来るんだよ」


 あ、と思い出したのは、数日前のSNSでの会話だった。水を飲んでいたので返信が遅れた、といわれ、下手な言い訳だと笑った。


「ひょっとして、ずっと調子悪かったんですか?」

「言うほどじゃない。やたらのどが渇くし、せきも出るから、やばいとは思ってたけどね。仕事には行けてたのに、休みになると悪化するんだから」


 緊張が解けると逆にダメだね、と笑う音月さんを、私はじっと見つめるしかない。手がかりはあったはずなのに、私は何も彼女のことを思いやってあげられなかった。音月さんだって人間で、ふつうの女性で、調子を悪くすることだってある。強いところも、弱いところもある、なんでもない人なのだ。

 つい、そういうことを忘れてしまう。


「……すみません」


 言葉が口をついて出た。音月さんは首をかしげる。


「なんで真依まよりが謝るの。風邪引いたのは私だし、待ち合わせおじゃんになったのも私のせいだし。真依は私によくしてくれるし」

「よくしてなんて……」

「何を気にしてるか知らないけど」


 音月さんは笑って、銀色のスプーンを手に取った。湯気を立てる、ひまわりのような色のおかゆをひとさじすくって、口に入れた。「はふ」と、ちょっと唇に手を当てながら、おかゆを飲み下す。


「真依はお見舞いに来てくれたし、おいしいおかゆも作ってくれた。十分だよ」

「……はあ」

「ほら、真依も食べる? 熱くておいしいよ」


 なんでもなさそうな顔で、音月さんは私の方にスプーンを差し出す。きらきら光るたまごの黄身に包まれたお米の粒が、スプーンからこぼれ落ちそうだ。

 そのつやつやした輝きに、私はつかのま目を奪われる。

 ほんとに、口つけちゃって、いいの?


「……あの」

「あ、私が使ったのじゃだめか。風邪、うつるし」

「えっと……」


 だいたい、風邪を引いた側が食べさせるのはどうなのか、って話だ。

 自分にそう言い聞かせて、私は両手で音月さんにスプーンを押し戻すようにする。無言で、自分を守るみたいに手のひらを押し出して、顔をうつむけて、ぐっとのどの奥に力を込める。ダメです、と叫んでしまいそうなのを、ようやくこらえた。

 音月さんは、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で笑って、手首を返して自分の方にスプーンを戻した。

 そして、まばたきするかしないかの間だけ、ぼんやりと、動きを止める。

 熱のせい、なのかもしれなかった。でも、それにしては音月さんの面差しはやけに悲しげだったし、蛍光灯の薄い光がうつしだしたほっぺたの陰影は、ずっと複雑な色を帯びているように見えた。

 まるで、そこだけ、時間ごと止まったみたいだった。

 音月さんは、ふたたびスプーンを口に運んだ。すこしして、おいしい、と小さな声でつぶやいた。

 おかゆもサラダも、ゆっくりとだけどぜんぶ平らげた。お茶はすぐに飲み干した。プリンはちょっと甘すぎたようだけれど、結局完食した。

 私はなんだか何も食べる気にならず、ただ、音月さんを眺めていた。

 ひとがおいしそうにものを食べる様は、周りのひとも満足させるらしいけれど、私がそのときに感じていたものはたぶんそういうことではなくて、だけどそれがなんだったのか、私はいまいちよくわからないままでいた。


 食器とゴミを片付けてすっきりしたテーブルの上で、音月さんが肘をついてぼんやりとしている。お皿を洗い終わった私は、キッチンの前から呼びかける。


「寝た方がいいんじゃないですか?」

「……何、真依は私にとっとと寝てほしい?」

「そんな言い方……」

「ごめん、冗談。ありがと」


 おなかがいっぱいになってあったかくなったせいか、音月さんの声と表情はいくぶん和らいでいた。気を許してくれたんだろうか? とも思うけれど、そもそも最初から油断しっぱなしだったようでもある。

 つかみかけた音月さんの本音を、また手放してしまったみたいな気分だった。もう一度、距離を測り直したい。


 センセイって、誰ですか?


 そう訊かなくちゃいけないんだろう。熱を出して寝込んで、目を覚ました隙にこぼれ落ちた、知らない誰かを呼ぶ言葉。それが果たして誰のことなのか、音月さんにとってどういうひとなのか。

 だけど、問い詰めるみたいになったら、いやだ。

 それ以上に、知ってしまうのが怖い。

 本音を話してくれるのはうれしいけれど、ほんとうのことを知らされるのはときとして恐ろしい。

 キッチンの前に突っ立って、相変わらずテーブルに肘をついたまま立ち上がろうともしない音月さんを見やる。ほんの一部屋なのにやけに遠くて、だまし絵を見ているみたいだった。無限に続く階段の上、別世界に続く扉の前、絵の中にいる人たちはどうなってしまうのだろう。自分が狂った世界にいるとも気づかないまま、途方に暮れるしかないのだろうか。

 理涯境域りがいきょういきで戦い続けた魔法少女にだって、勝利か死という出口があった。あの人たちには、それさえない。それってどんな一生なのだろう。私たちがそれでないなんて言えるだろうか?


「スマホ、鳴ってる」

「え?」


 音月さんに言われて、私ははっとする。音月さんが指さすのは、私が座っていたテーブルの横。いつのまにか手放していたらしい。慌てて駆け寄り、スマホを手に取る。

 SNSの通知だった。相手は生江見いくえみさん。


『かっこよかった』


 そんなメッセージとともに貼り付けられたのは、生江見さんと輝理きりちゃんがふたりで並んだ自撮り画像だった。写真を撮っているのは輝理ちゃんの方で、ふたりとも、ハンドサインを顔の横に添えるはやりのポーズをとっている。こめかみ同士がくっつくくらいの距離で笑うふたりの様子は、意外なような、自然なような、不思議な感じだった。

 まあ、輝理ちゃんらしいのかもしれない。

 くすっ、と笑うと、音月さんが首をかしげて、


「誰?」

「ああ、生江見……ジギタリスさんです。なんか、輝理ちゃんと……」


 言いかけたところに、続けてメッセージが届く。


『輝理は正義の味方』


 その大げさな言葉は、全然誇張じゃなかった。

 矢継ぎ早に届くメッセージが、状況を教えてくれた。なんでも、輝理ちゃんは、生江見さんにつきまとっている面倒なおじさんを追い払ってくれたらしい。以前から、ネットやリアルで粘着質に話しかけられ、ベタベタ触ってくることもあったとかで、さすがに魔法で撃退するわけにもいかず困っていたのだという。

 輝理ちゃんがどういうやり方をしたのかは、生江見さんの言葉からは判然としない。『強い言葉の力ってすごい』『善の輝き』『ひとが身も世もなく泣き崩れるのを初めて見た』という言葉からすると、力ではなく言葉と態度でなんとかしたのだろう。

 輝理ちゃんにはそういう、ちょっとしたカリスマみたいなものがある。危なそうなひと、怖そうなひとにも臆さず向かい合うし、抵抗されても決して折れたりしない。

 その魔法よりも魔法のような力を、生江見さんは目の当たりにしたのだろう。


「なんて?」


 音月さんに訊かれて、かいつまんで事情を説明する。生江見さんは音月さんとも知り合いだし、あまり隠す必要もない。

 話の途中で、音月さんはなんだか複雑な苦笑を浮かべた。


「その困ったおっさんのこと、聞いたことあるよ」

「そうなんですか?」

「若い女のアーティストには、そういうのが湧く。迷惑だけど、いちおうお客だし、対処に困るやつ」


 肩をすくめて、音月さんは言う。


「ま、追い払えたなら、よかった。恨み、買わなきゃいいけど」

「輝理ちゃんがやることなら、きっと、悪いことにはなりません」


 私はきっぱりと告げる。音月さんは、肘の上でうっすらと微笑む。


「信じてるんだね、あの子のこと」


 それから、ちょっと懐かしむような目をして、


「でも、あの子も真依のこと、褒めてたよ。すごくいい子だし、一緒にいると元気になれるし」

「会ったんですか?」

「前に、カフェで。仕事さぼったとき」


 言われて、思い出した。私たちも学校をサボって川原のカフェに行ったときか。あのときは、音月さんとはすれ違いだった。輝理ちゃんが音月さんとじっくり話したみたいなことを言っていた気が……


「……輝理ちゃんは、ほっといても元気ですけど」

「でも、本人がそう言ってるんだから」


 いまいち実感は湧かない。とはいえ、輝理ちゃんの方はほんとうに、そんなふうに思ってくれているんだろう。輝理ちゃんはひとを悪くは言わないが、わざわざ誇張や嘘でひとを持ち上げるような子でもない。

 私はスマホを手にしたまま、顔を上げて音月さんを見る。


「ほかに、なにか言ってました?」

「……からかうと面白い、って」

「ほんとに?」


 さあね、と、音月さんはわざとらしくあくびをするふりをし、ベッドの方へと戻っていく。ごろりと横になって、私に背を向けた。

 ……ごまかした。


「ほんとなんですか?」


 私がそう訊いても、返事はなかった。代わりに聞こえてきたのは、かすかな寝息。あっという間に、ほんとうに眠りに落ちてしまったのか。それとも、寝たふりなのか。

 その無防備な背中に近づいていけば、答えは聞けたのかもしれないけれど、さすがに踏み込む勇気はない。そんなふうに距離を近づけていいものかどうか、わからない。

 テーブルの前にひとり取り残されて、私はもう一度、唇の上だけでつぶやいた。


「……ほんと、なんですか?」

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