第16話 ビニール袋、おかゆ、ねごと
『風邪 よくなる 食べ物』で検索したり、自分が風邪を引いたときのことを思い出したりして、食材や調味料を購入した。量を食べるよりは、食べやすくて栄養のあるものの方がいいと思いながらも、ついつい両手に余るほどの品を買い込んでしまった。炭水化物とタンパク質が豊富なのは、体力をつけることがいちばんだと思ったのと、前に音月さんがサンドイッチ作りにはまっていたのを思い出したからだ。
重たいビニール袋を自転車の前かごに押し込み、ずいぶん久しぶりに握ったハンドルをおっかなびっくり左右に揺らしながら、ペダルを踏み込む。
寒気が衣服や肌を通過して骨身に染みる。秋はあっという間に冬への準備を始め、街の空気は次第に透明さを増していく。歩道を行く人たちの姿はどこか重たい印象で、そのかたわらを、ぐいぐいと加速しながら東に向かう。
住宅街を、自転車で駆け抜ける。魔法を使えばもちろんひとっ飛びなのだけれど、そうはしなかった。両手で荷物を抱えたまま空を飛ぶのが不安だったし、それに、音月さんのおうちを訪れるのに魔法を使いたくなかった。
冷たい風は、私の胸の奥まで貫くみたいだったけれど、ふしぎと不快じゃなかった。
不謹慎だけれど、きっと、私は浮かれている。
指定されたマンションの駐輪場に自転車を停めて、私は両手首にビニール袋を引っかけ、マンションの表玄関を通り抜けた。インターホンに部屋番号を打ち込んで、すこし待つ。
「はい」
インターホン越しでふだんよりもいっそうぶっきらぼうに聞こえたけれど、それは音月さんの声だった。いつもと違う音月さんが、向こうにいる。
いまになって、急に、胸がどきりと高鳴る。
緊張して固くなった口を開き、
「あ、あの、私、です。
いつになくどもってしまった。頭に血が上って、目の前に誰もいないのに顔を伏せてしまう。返事の代わりに、ごうん、と音がして、自動ドアが左右に開いた。どうやら私は部屋に入ることを許されたらしい。
ロビーは広くて静かで、誰もいない。右手側、無機質に並んだ金属の箱をチラリと見やる。ただの郵便受けなのに、ずらりと並ぶと妙な威圧感みたいなものがあった。この建物に住んでいない人は、歓迎されていない。周辺に貼られたいろんな国の言葉の張り紙が頭に思い浮かんで、居心地の悪い思いを振り払うために私は早足でエレベーターの方に向かう。
ボタンを押して、3階に上がり、無音の廊下の真ん中へんまで歩く。312号室を見つけて、足を止めた。
今度は胸だけじゃなくて、頭まで脈打っている気がする。ほんの1時間前に発した勇気のおかげでここまで来てしまったけれど、ほんとうによかったのだろうか。迷惑じゃないだろうか。病気の時なら寝かせておいてほしかったかもしれない。そもそも私が音月さんの部屋に踏み込むなんておこがましい。ほかに誰か友達がいたりとか……
両手のビニール袋が、ぎゅっと手首を締め付ける。それが、私に活を入れてくれた。ここまで来て帰る方が逆に情けないじゃないか。
ドアの横のボタンを押すと、部屋の中からちいさく呼び出し音がした。直後、チェーンが外れる音がして、扉が開く。
「……悪いね」
しわがれた声で、音月さんは言った。
寝乱れた髪をそのままにして、お化粧もしていない。顔が熱っぽく赤いし、目が充血してうるんでいる。飾り気のないパジャマを雑に上下に着込んだだけで、足下もはだしのまま。
油断した、無防備な音月さんは、こんなふうなのか。
なんだか、とても……
「…………かわいい」
つぶやいたのは私じゃなかった。
音月さんが、私のかっこうを上から下まで眺めて、ぽつりと、聞こえるか聞こえないかの声で口にしたのだった。
私が音月さんの気持ちを勝手に感じているのではない。この場では魔法は関係ない。
今日の約束のために、精一杯のおめかしをしてそろえた私の新しい服を見て、音月さんが、そんな……
いつもはあんまり言わないことを、直球で……
私が何も言えないでいると、音月さんは首をかしげた。入らないの? と、なかば抗議するみたいに。
「おっ、おじ、じゃま、しますす!」
舌が全然回らないまま勢いで発した言葉は、びっくりするほどどもっていた。頭のてっぺんまで熱が音を立てて押し寄せて、私はまたうつむいてしまった。
私が部屋に入ると、音月さんはふたたびドアにチェーンと鍵をかけ、そのままよたよたとリビングに戻っていく。左右に揺れる足取りには、ふだんの音月さんのスマートさはない。不安になって、彼女の背を目で追うと、自然、音月さんの部屋の様子が見える。
意外と部屋はさっぱりしていた。前にレアなフィギュアを入手したりしていたので、もっと雑然としたオタクっぽい部屋かという可能性も想像していたけれど、そうでもない。フィギュアはリビングの片隅に置かれたケースに整然と並べられ、そのそばには分厚くて大きな本をいくつか並べたカラーボックス。きちんと整頓された部屋の中で、床に脱ぎ捨てられたままの衣類だけが目についた。
壁際に据え付けられたスチールのベッドに、ばたり、と、音月さんは倒れ込んだ。
「あの」
思わず声が出た。人を部屋に入れておきながら、あんまり無防備すぎやしないだろうか。
横になった音月さんは、ずるずると枕の上で首をこちらに向ける。髪が顔にからんでうっとうしそうなのにもお構いなしだ。ずれた襟からのぞく首元が、うっすら汗を帯びて、やけになまめかしく見える。
赤い目で、言う。
「キッチン。好きに使って。足りなかったら、冷蔵庫も」
「……えっ、と、」
入ってすぐのところにあるキッチンにはIHヒーターが2口、単身者用のこじんまりした冷蔵庫も据えられている。開けたら何かありそうだけれど、開けるのはなんだか申し訳ない気もする。
相変わらずビニール袋を手にしたままの私は、しばらく迷って、水場と冷蔵庫と自分の手を見比べる。そして、肝心のことを訊いていないことに気づいた。
「音月さん、何、食べたいですか?」
「なんでも……」
いちばん困る類いの答えを返して、音月さんは、枕に突っ伏してしまった。
もう……
つかのま顔をしかめ、私は、首を横に振った。風邪引きの音月さんは、考えたり動いたりするのもおっくうなのだ。ドアを開けてくれたり、私に答えを返してくれただけでも、すごくがんばったに違いない。これ以上、音月さんに頼っては申し訳ない。
ようやく袋を床に下ろして、私はちいさく息を吐いた。
レンジで温めたパックのご飯をおかゆにして、卵とネギを混ぜる。あたたかい食べ物の香りがただよい始めると、よそよそしかった部屋の空気に親密さが宿る。
冷蔵庫には、お酒の缶と高そうな食パン、それにいろいろ野菜類が入っていた。ちょっと申し訳ない気もするが、いちおう本人の許しを得ている。冷蔵庫の中のレタスとタマネギとトマト、それから自分で買ってきた梅じそのドレッシングでサラダを作り、紙皿に開けた。
残りの食材は、冷蔵庫の中へ。サンドイッチだけじゃ物足りないだろうし、冷蔵庫はにぎやかな方がいい。
「音月さん、できましたよ」
まだ湯気を立てているおかゆと、まぶしい色をしたサラダを手にして、呼びかける。
返事はない。
「音月さん?」
ベッドの方をのぞき込むと、音月さんは、さっきベッドに突っ伏した姿勢のまま、静かに背中を上下させていた。しばらく起きてきそうにない。
横に流れた髪の奥から、白いうなじが見える。乱れたパジャマの隙間から、背中が見えた。腰の骨のなだらかな曲線が浮き上がっている。外から見るより、音月さんはずっとやせているらしい。親指が、なにかを警戒するみたいにぎゅっと折りたたまれていた。
私を、かわいい、と言ってくれた唇が、いまはほっぺたと枕の奥深くに隠されてしまっている。
ひどく、いけないことをしているような気分だった。
友達のパジャマを見るのは、輝理ちゃんの部屋で行われたパジャマパーティー以来だ。部屋、といってもマンションの最上階にある、家族で住んでいてもおかしくないようなだだっ広い一室だった。私たちは、寝具とお菓子を持ち寄って、夜通し語り合った。魔法少女をやっている真っ最中で、その作戦会議という名目だったけれど、覚えているのは、函名ちゃんが当時付き合っていたかっこいい女性のこととか、玲蘭さんが教えてくれたお菓子のレシピのこととか、輝理ちゃんがあっという間に眠りに落ちる瞬間の気の抜けた表情とかだ。
いま、こうして横になっている音月さんと同じ部屋にいるのは、あのときとはまるで違う。気持ちが張り詰めて、落ち着かない。いま、音月さんが起き上がったとしても、きっとうまく話すこともできないだろう。このまま、突っ立って、立ち尽くして、そのまま終わってしまいそうな気さえする。
だけど、その時間を、絶対に手放したくなかった。この瞬間こそが、何よりもたいせつだった。枕の脇にゆるく横たえられた音月さんの左腕のなめらかな曲線を、私はきっと、ずっと覚えているだろうと思った。
おかゆとサラダにラップをかけて、おかゆはヒーターの横のスペースに置き、サラダは冷蔵庫にしまう。
かるく手を洗って、私は、そっと音月さんの方に歩き出す。脱ぎ散らかされたままの服をよけて、ベッドのそばまで近づき、音月さんの頭のそばに膝をつく。
うつ伏せた音月さんの吐息が、枕の隙間から漏れ聞こえてくる。じっくりとそばで見たことがなかった音月さんの体の一部一部、きれいな形の耳や、細すぎていくぶん節くれ立った指、七分袖に覆われた肘なんかを、間近に見つめてしまう。
こうしていたら、ほんとうに、このまま眠っていてくれるんじゃないだろうか。
でも、もしも私から触れたら、音月さんはどんなふうに感じてくれるんだろうか。
驚くかな。
怒るかな。
笑うかな。
ベッドの脇に両手を置いて、私は、指を動かす。白いシーツの上をうごめく私の手。
唇まで、指を潜り込ませて、触れたいと思う。
ふと、音月さんが身じろぎした。息をのんで、手を引き、胸の前で指をぐちゃぐちゃに組み合わせる。
ずるずると、音月さんが枕の上で頭を動かし、顔をこちらに向ける。
圧迫されてすこし赤くなった額が、なんだかかわいらしい。
音月さんは目を開け、ぼんやりと口を開ける。
「……センセイ?」
「え?」
誰のこと?
私がきょとんとしているうちに、すっ、と、音月さんのまぶたが細められた。それから、あ、とかすかに吐息のような声を発する。眉をひそめ、一度ちいさく咳きこんだ彼女は、ゆっくりとつぶやく。
「……ごめん。夢でも見てたみたい」
誰のこと?
そう問いかけそうになって、
「起きれますか?」
私は作り笑いで言った。音月さんはあいまいに「ん……」とつぶやくきり。
「おかゆ、作ったんですよ。あとサラダも」
「……作ってくれたの? わざわざ」
「……ご迷惑でした?」
「ん……いや。てっきり、出来合いので済ませると思ってたから。なんか、悪いね。手間かけさせて」
「大丈夫ですよ。食べれそうなら、いまからおかゆあっためますよ」
「……そうだね。ありがと」
音月さんが、ベッドの上で体を起こす。背中を丸めて、力の抜けた姿勢で両膝に手を置いている音月さんは、小動物みたいで微笑ましかった。私は「じゃ、持ってきます」と背を向けて、キッチンに向かう。
置きっぱなしのおかゆのお皿を見やる。湯気の香りが、まだうっすらと部屋の中にただよっている。幼いころ、風邪を引いたまどろみを思い出させるみたいな、家族の匂いだ。
センセイ、と、音月さんは言った。
音月さんの記憶と、卵の匂いと、かすかな言葉の音色は、どんなふうに結びついているのだろうか。
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