第15話 風邪、カーディガン、ストリートビュー

『ごめん』


 その3文字を、私はしばらく見つめた。すでに外出の準備はほぼできていた。派手でない程度に明るい色合いの上着と、それに合わせた柔らかめのフレアスカート、小物を詰めたサコッシュを片手に、もう一枚薄物を羽織っていくかどうしようか迷っていたところで、机の上のスマホにそのメッセージが届いたのだった。

 音月ねつきさんだった。今日これから会いに行く人。

 カーテン越しに、土曜の朝のすがすがしい陽射しが染み入ってくる。私の机はその窓から影になって、無機質にたたずんでいる。

 私は、サコッシュをベッドの上に置いて、スマホを手に取る。


『どうしたんですか?』


 心配する表情の絵文字をつけて、送る。大仰な表情のキャラクターが、深刻さを和らげてくれればいいと思った。


『風邪ひいちゃった』


「ちゃった、だって」


 クールな大人に似つかわしくない語尾は、音月さんなりの気遣いかもしれなかった。実際、私は心配するよりも先にすこし笑ってしまった。その声は、すぐに静かな部屋の中でかすんで消える。

 それにしても、風邪か。

 音月さんだって、風邪ぐらいは引くだろう。いい大人だといっても、けっこう忙しい仕事のようだし、無理することもあれば、体の調子をかまえないほどいっぱいいっぱいになることもあるに違いない。夜中に邪悪な気配を感じて真っ暗な街に飛び出していくのとはまた違う、社会に属する人の苦労はあるのかもしれない。

 とはいえ、あの音月さんに、風邪なんてささいな病気はやっぱりそぐわない気がする。一度は世界を敵に回すような、最悪のリガと化して猛威を振るったあの人が、風邪か。その落差に、またすこし笑う。

 笑いのあとにやってくるのは、さびしさだ。

 私はスマホを手に取り、文章を打ち込んだ。


『今日は無理ですね』


 私の方からそう言った。でないと、よけいに気を遣わせてしまいそうだった。私のために病を押して起き上がってくれる……なんて思うのは傲慢かもしれないけど。


『熱が下がったら動ける』


 実際、そんなふうに音月さんが返してきた。私はあきれて、大きくため息をつく。誰もいないから、そんな感情を表に出すのにもあまり遠慮しない。


『だめです ゆっくり休んでください』


 ついでにもう一言、


『私のことはいいので』


 他愛のない約束だ。行きたいお店は逃げないし、映画は来週までやっている。ほかの予定はしっかり決めてたわけじゃない。だから、今日という日でなくてもいい。

 ただ、今日、音月さんに会えないというだけだ。

 スマホを両手で握りしめる。シックな色のカーディガンに袖を通したままの二の腕が、ぎゅっと絞られるみたいだった。胸の奥で、心臓が震えたような気がして、その音がやけに耳に大きく聞こえた。こまやかに編み込まれた、大人びた雰囲気のカーディガンは、頼りない子どもの私をすこしだけ背伸びさせてくれる。背の高い音月さんに追いつかせてくれる。

 あの人は、どんなかっこうで、この文章を読んでいるんだろう。

 メッセージは返ってこない。もう横になって、寝ているのかもしれない。あるいは、文章を打つ元気もないのかもしれない。

 立て続けにメッセージを送るのは、負担になるだろうか。

 そんなふうに思ったのに、自然と指先が動いていた。


『お見舞いに』


 行ってもいいですか、と打って、書き直して、行きましょうか、と打って、もう一度書き直して、


『お見舞いに行きます』


 結局、そう書いて送信した。

 さっきよりさらに大きなため息が、私の口からこぼれ落ちた。

 ほんの一行を書くのに、こんなにも勇気を振り絞ることになるとは思わなかった。気を遣ったり、悩んだりして言葉を書いたり消したりするのとは、また違う。心を奮い立たせ、思い切らないと、そんな一言さえ言えないなんて。

 臆病者だな、と苦笑する。

 けど、勇気を出さなきゃ、自分が怯えていることさえわからない。魔法少女として戦いながら、私が学んだことのひとつだ。誰だって、なにかに挑むのは怖い。恐怖や不安を生まれる前に忘れてきた輝理きりちゃんだって、心のどこかに恐怖はある……だろう、たぶん。あの子の内面は、私にもよくわからない。

 でも、あの子だって、きっと心の中の影を巨大な光で吹き飛ばしている。

 私も必死に光を発して、心の影を振り払うのだ。

 満足感に浸っていた私の手の中で、スマホが震えた。


『悪いよ』


 どうやら、音月さんの方はまだ弱気の虫につきまとわれてるみたいだった。風邪で熱がある時なんて、そんなものだろう。

 けど、私はもう加速しているので、あまり加減しない。


『看病ぐらいします その方が治り早いです』

『うつるかも』

『平気です 魔法使えるから』


 ほんとだか嘘だかわからないことを勢いで主張する。魔法で風邪を治したことはないけれど、魔法少女の友達がいればなんとかしてくれるだろう。

 返事がない。今度こそ寝てしまっただろうか。それともほんとうに拒絶する言葉を用意しているのだろうか。あるいは、音月さんにも魔法の使える友達かなにかがいて、彼女を助けてくれていたりして。

 スマホが震える。

 SNSリンリンのメッセージに添付されていたのは、グーグルマップのURLと、ストリートビューの画像。そのあとに、マンションの名前と部屋番号が記されていた。

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