第13話 嵐、保健室、モデル

 ひとりだったころの、嵐のようだった私の夢を見た。

 友達が、別の女の子に陰湿な言葉をぶつけて怒らせていた。私は友達と同じ気持ちになって、いっしょになって笑っていた。そのころの教室は薄暗くて、私たちは自然色の蛍光灯の下で劇でも演じるように言葉をぶつけ合っていた。

 怒っていた女の子は、そのあと、ひとりで教室に居残って泣いていた。私は彼女と同じ気持ちになって、泣いていた。明かりのついていない教室では、なにもかもが赤く入り交じっていくみたいだった。

 いじめをよそから見ていた子たちは、ひそひそと両者に対して陰口を打ち合っていた。私も彼女たちと同じ気持ちになって、うなずいていた。教室の窓際から、私たちの淡い色の影が床に落ちていた。

 私は、みんなから嘘吐きだと言われた。いじめる側から誰かを笑い、いじめられる側で悲しみ、冷笑する側で陰口を叩く。誰もが誰かの敵だったし、どこかの陣営につかなくてはいけなかったのに、できなかった。私は、たまたまそばにいた誰かと同じ気持ちになって、その気持ちを素直に表していただけだった。

 それは、いけないことだとわかっていた。幼いころから、私にはそういうところがあった。そばにいる人、目の前にいる人、隣にいる人と、感情が同化してしまって、まるで自分がその人に成り代わってしまったかのように振る舞っていた。誰かが体験したことを、まるで自分のことのように語ることもあり、そういうときにも私は嘘吐きだと言われた。嘘吐きだと言われないように、誰からも責められないように、私はすこしずつ自分を守るすべを覚えた。守ってくれる親友ができて、彼女とだけはうまくやれていて、それで私は一度は安定し、嵐は凪いだ。

 だけど、親友とひとときだけ離れて、また私は嵐のただ中に巻き込まれた。私の周りで次々移り変わる人々の気持ちはまさに嵐で、四方八方から吹き荒れる風と雨で、私の心もまた嵐のように荒れ狂った。

 心に嵐を抱えながら、私はひとりでとぼとぼと、夏の帰り道を歩いていた。自動車の激しいエンジン音も、人々の話し声も、私にとっては吹き付ける暴風と同じで、意味のわからない強い圧力でしかなかった。私は吹き飛ばされそうになりながら、身を縮めて歩いていた。ぎゅっと胸の前で両手を握りしめるたび、私の中の嵐はますます力強くなって、解き放たれる瞬間を待ちかねていた。嵐を抱えた心は苦しく、だけど、嵐がはち切れる瞬間を渇望するのは得も言われぬ快感だった。

 私はその日を待っていた。

 夕方になっても異常なほどに強かった陽射しが、私の真正面から白い光を浴びせかけていた。


 夢見が悪かったせいで朝からいくぶん体調がよくなかった。どうにか家を出られたけれど、魔法を使う元気はなくて、久しぶりにバスで学校に行った。バスの中に充満する空気のせいで、よけいに頭と体が重たくなってしまった。

 やっとのことで机に座るなり、私はとうとう突っ伏した。額を机の天板にべったりとくっつけて、ひんやりとした感覚に身を預ける。なにか考えようとすると、頭がぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。


「保健室行く?」


 函名かんなちゃんの声が、私の真横から聞こえる。しゃがみこんで、耳元にささやきかけている気配が想像できる。

 彼女の気配の向こうから、教室の中のみんなの声が聞こえる。ざわざわと混ざり合った音から、感情だけが私の耳を介して胸の奥までにじんで来るみたいだった。

 私は、無言で首を横に振る。「ほんとに、大丈夫ぅ?」と函名ちゃんの声がするが、答えない。ううん、と、かすかにうめいた声が自分の声だったか函名ちゃんのだったか、一瞬区別がつかない。


 と、足音が聞こえる。つかつかとすごい速さで歩み寄ってきて、あっという間に私の真後ろにいた。


「休も」

「えっ」


 輝理きりちゃんの声がした瞬間、両脇に腕を差し込まれて、私はぐいっと椅子から持ち上げられた。

 わわっ、と、足をばたつかせてしまう。椅子を蹴って、ガタンと大きな音がして、教室内の視線が一斉にこちらに注目するのがわかる。みんなは私と、私の体を後ろから抱え上げている輝理ちゃんを見ている。

 好奇の視線だ。知っている。いつもは遠ざけている視線が私に集まって、余計に具合が悪くなる。

 目立たないように派手なアクセサリーを使わないとか、大きな声で趣味の話をしないとか、そういうちょっとした配慮と同じ意図で、私たちは魔法で我が身を守っている。そうやって薄皮一枚の距離を作っているのだ。

 輝理ちゃんはすこし力を抜いて、私を床に下ろした。スリッパがかすかに床にこすれた。


「歩ける?」


 私を後ろから抱き留めたまま、輝理ちゃんはいう。函名ちゃんのようにささやきかける色気はなくて、落ち着いた、善性だけによって発せられる優しさがある。両腕がやわらかくおなかの上に回されて、背中に体の質量とあたたかさが感じられる。

 それが、私の体を落ち着かせる。


「……大丈夫」


 すこし息を吸って、ふたたび吐き出す。

 口の中で、ちいさく言葉を唱える。おなかの底で、線香のような細い火がそっとともるのがわかる。輝理ちゃんの右手がちょっと動いた。

 ほんのすこし、魔法を使った。窓を全開にしたときのように空気の流れが少し変わって、みんなの視線がそっと押されたみたいに私たちからそれた。肩にのしかかっていた得体の知れない重さが取りのけられて、輝理ちゃんのおだやかな存在感が取って代わった。

 輝理ちゃんが、そっと私の両肩を押した。うなずいて私は、よたよたと歩き出した。



 朝の保健室には、しんとした静けさだけが満ちている。窓の外から聞こえる生徒たちの声がすこしだけ耳にふれるけれど、それがよけいに部屋の沈黙を強調しているみたいだった。


「落ち着いた?」


 ベッドに横になった私のかたわらで、輝理ちゃんがいう。ベッドの脇に無造作に流した私の髪を踏まないようにしているのか、彼女にしてはめずらしく、椅子の下にぎゅっと両脚を折りたたんでいる。


「ありがとう、もう平気」


 教室のなかにあふれていた気配から離れ、魔法を使わなくても大丈夫な気安い空間で、ようやく人心地ついた。頭の芯がまだすこし重いけれど、一眠りすれば治るだろう。


「晴湖さんとはほんとに、何もあったわけじゃないんだよね?」


 ハルコ、という名前を、一瞬頭の中で検索する。生江見いくえみ晴湖はるこ。ジギタリスさんだ。昨日ふたりで会っていたときのことを、輝理ちゃんはまだ気にかけているらしかった。

 彼女はほんとうにまっすぐで、ときどきしんどくなるくらいに単刀直入だ。喜びと優しさと正しさだけで駆動しているようなところがあって、その迷いのない速さに伴走していくのが大変になる。でも、たいせつな友達だ。


「……関係ないよ」

「隠してない?」

「ない」


 ウソをついた気はなかった。生江見さんの言葉は、ささいな取っかかりにすぎない。たまに昔のなんでもない記憶が不意に頭の中に浮かぶような、ちょっとした気持ちの揺らぎ。

 それに、生江見さんは何も知らないのだ。彼女のせいにしちゃ申し訳ない。

 輝理ちゃんは、にっこりと太陽のように笑う。ちょっとした仕草のひとつひとつに華があって、目が離せなくなる。初めて彼女と会ったころの玲蘭れいらんさんが、輝理ちゃんの写真を撮りまくっていた、というのもわかる気がする。


「まあ、何かあったら晴湖さんにあたしが直接いうから。SNSリンリンも交換したし」

「そうなの?」


 いつのまに。昨日会ってたときには、そんな様子はまったく見せなかったけど。


「名刺もらったし。検索して、絵も見たよ。個性的だね」

「うん……」


 少女と虫というモチーフ、拡大して徹底的に描き込むという描写の密度、そして全体の世界観。独特の要素がみっしりと画面の中に詰め込まれて、ひとつのイラストレーションとして成立している。それを個性というのなら、きっと適切なのだろうと思った。


「モデルになって、っていわれたんだけど」


 急に輝理ちゃんが意外なことを言い出すので「えっ」と引きつった声が出た。


「どういう意味だろうね? あたしを普通に絵に描きたいのかな。それとも、あたしのおなかから虫が這い出してるのを描きたいのかな?」

「……私に訊かれてもわからないよ」


 絵心とか、美的センスとかそういうのを通り越して、輝理ちゃんはきれいだ。整った容姿も、常に輝いているかのような表情も、内側からあふれ出してくる力強い気配も、すべてが彼女を魅力的に見せている。だから、輝理ちゃんを絵にしたい、という願望は、なんとなくわかる気がする。

 ただ、ジギタリスさんのイラストのモチーフとしてどうなのか、それはちょっとわかりかねた。生江見さんが、輝理ちゃんを対象としてどんなふうに仕事をしたいのか、想像がつかない。

 なんにせよ、ひとつだけわかることがある。


「輝理ちゃんって、いつもみんなを振り回すね」

「そうかな?」


 台風の目、というだけでも飽き足らない。彼女は太陽だ。地上にずっと陽射しを浴びせ続けて、天体の気候を変えて、いつしか生命さえ生み出してしまう。すさまじい熱量と明るさが、世界を変える。そういう子だった。

 今朝の夢のことを、私はぼんやりと思い出した。私も彼女に世界を変えられたひとりだ。

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