第12話 目眩、仁王立ち、シャボン玉
雰囲気のいい喫茶店を出ると、陽射しはもういくぶん西に傾いて、街全体が薄い影に覆われているみたいだった。川の方から立ち上ってくる水のにおいが、影を帯びて、あたりにいっそう湿り気を与えているように思われる。
目線を駅の方に向ける。西日を浴びた架線が、かすかに振動している。
私の後から店を出た
「これからどうするの?」
「……別に、用事はないですけど。生江見さんは?」
「アタシも別に、よ。ファンサービスは充分したつもりだし、
素っ気ない言い方だったけれど、生江見さんが楽しそうにしているのはわかった。ただの1ファンである私のためにわざわざ外出してくれたあたり、ほんとうは、人と話したがっていたのかもしれない。
「楽しかったです、私」
私がそう言うと、生江見さんはちょっと驚いたみたいだった。
「……同感、だけれど」
「はい」
迷惑をかけたんじゃなくて、よかった。私はすこし笑う。
生江見さんは眉をひそめた。治らない傷が残る目を、ぎゅっとゆがめる。
細密な絵に、いっそう緻密な線を引くとき、きっと彼女はそんな顔をする。その瞬間を想像させる、彼女の表情。
画家が紙面に筆を乗せる瞬間のような緊張感を帯びた表情が、私をじっと見据えた。
「あなた、たまに、人を見透かしたような顔をするわね」
……それは。
私が何も言えないでいるうちに、生江見さんはさらに言葉を付け足した。
「それがあなたの魔法?」
「……」
それは。
私の口が、ぼんやりと開いたり閉じたりして、細く息だけをこぼす。声は出ない。
質問の答えを、私はよく知っている。なのに、それを声にはできない。
頭の奥で、鈍く痛むものがある。
一瞬、視界がぼやける。真夏でもないのに、ふいに蜃気楼が立ち上がったみたいだった。あるいは、ジギタリスさんの傷ついた視界を共有したかのよう。ぐらり、と、周りの世界が左右に、上下に揺れる。水の匂いがいやに濃い。
嵐の夜みたいな夜を思い出している。
真っ暗で、いやに騒々しくて、私は風の中の立て看板みたいにぐるぐると振り回されている。あたりには目印も道しるべもなくて、どちらが上とも下ともつかないまま、右も左もわからないまま、どこに行けばいいかもわからないままに振り回されている。
目眩がひどかった。手足の感覚はないのに、ただ頭と気持ちだけが荒っぽく揺さぶられていた。あのとき感じていた痛みが、体の痛みなのか、錯覚の痛みなのか、いま思い出してもわからないままだ。
あの夜の記憶は、判然としなくて、だから夢のようにふいに浮き上がって私をむしばむ。
忘れていたのに。思い出さずにいたのに。
魔法少女前夜の私のことなんて。
「大丈夫?」
声が降ってきた。あの夜と同じに。
私の視界がぱっとひらけて、夕暮れの街になった。赤く暮れなずむ空、さびれた路地、灰色の駅舎を突き抜けて走り抜ける電車の銀色の車体。
車体の上、パンタグラフに両足を乗せて、仁王立ちで笑う
一瞬、まだ幻の中にいるような気になる。荒ぶる記憶の残滓のせいで、立ちくらみみたいな感覚が残っていた。
でも、「何あれ」と呆然とつぶやく生江見さんの声のおかげで、我に返った。ここは魔法少女の戦いが終わった時間、私たちのしずかなティータイムの後。
そして、輝理ちゃんは、いまも昔も変わることなく自由だ。
「あ、戻ってきた」
架線の上から私たちのいる場所までは、500メートルくらいだ。輝理ちゃんの立つ線路は三階建てのビルほどの高さにあるから、ずいぶん遠い。それなのに、輝理ちゃんの声は、私の耳元に間近に投げかけられたみたいに聞こえた。
膝丈のスカートが、線路上を吹き抜ける突風ではためく。あっ、と、私がつぶやくのと同時に、輝理ちゃんはしなやかな生足を躍動させて、跳んだ。
駅から路地までの距離をひとっ飛びして、長いサイドテールを翼のように羽ばたかせ、輝理ちゃんは私たちの元に舞い降りる。すとん、と、軽そうなスニーカーが路面に触れる音が、やけに心地よく響いた気がした。
輝理ちゃんは、普段と変わらない満面の笑みで、いう。
「何してるの?」
「……知り合いと会って、話してただけだよ」
「その人? 真依ちゃんの友達?」
「友達、じゃないかな。イラストレーターさんなの」
「へえ」
生江見さんの方を見て、輝理ちゃんは一度まばたきした。当の生江見さんの方は、輝理ちゃんが突然現れた驚きから抜け切れていないのか、じっと眉をひそめて輝理ちゃんを見つめたまま、微動だにしない。
ひょっとしたら、自分の目で見たものが信じられないのかもしれない。
「魔法少女なんですね?」
訊いたのは輝理ちゃんの方だ。生江見さんが答える前に、輝理ちゃんはちょこんと頭を下げる。
「はじめまして、直利輝理です。真依ちゃんの友達で、あたしも魔法少女」
「……でしょうね。わかるわ」
ようやく生江見さんがつぶやいた。そりゃ一目瞭然だろう。
「アタシは生江見晴湖。お察しの通り、魔法少女……もう引退済み」
「現役なんてもういませんよ」
しれっと輝理ちゃんが口にする。その通りだ、私たちの戦いはとっくに終わっていて、魔法少女は役目を終えて、いまはただの女の子としてゆるやかに過ごしているだけ。
生江見さんは、目を細めたまま輝理ちゃんをじっと見つめている。わずかに顔を上下させ、上から下まで彼女の全身を捉えようとしているみたいだった。生江見さんの横顔は真剣そのもので、緊張気味のほおが、ピンと張り詰めている。ぎゅっ、と、胸元で両手を結んで握りしめ、なにかをこらえるみたいに肩をいからせている。
当たり前だ。初めて輝理ちゃんに会った人なら、彼女に注目せずにはいられない。それくらい、輝理ちゃんの造形は美しい。友達の私たちでさえ、たまに、はっと目を奪われてしまうことがあるくらいだ。
生江見さんは、ますますきつく、目を細める。
「で」と、生江見さんはいう。「なんで、電車の上にいたの?」
「気持ちいいでしょ? あの速さで、風を浴びながら走るの」
何も不自然なことなどないみたいに、輝理ちゃんは答えた。生江見さんは、頭痛を感じたみたいに眉間にしわを寄せた。
「目立ちすぎじゃないの?」
「そのための魔法だし。誰も気づかないですよ」
「魔法で移動するなら、空を飛んだ方が早そうだけれど」
「隣の駅くらいだったら、散歩したくならない?」
かみ合うようでかみ合わない、奇妙な会話だった。
丁寧さを微妙に保とうとしながら失敗している輝理ちゃんの話し言葉は、なにか、異世界の言葉を翻訳したみたいに聞こえる気がした。先生と話すときでも、彼女はそんなふうだ。気分屋で、秩序がなくて、それなのにひとりの人間としては完成している。
それと向き合う生江見さんは、ずっと、痛みを抱えているみたいな表情をしていた。我慢しているかのような、心をとらわれているような。
私は、なんとなく、ずっと生江見さんの横顔を見つめていた。
「で、生江見さん」
輝理ちゃんが、ちょっとだけ体の重心を右から左にずらした。跳ね回るバッタのようだった声音が、ふと平板になる。
「真依ちゃんに、なにか変なこといった?」
私は、ちいさく息をのむ。つかのま、私の心の奥に、さっきの嵐がよみがえる。
輝理ちゃんは、さっきの私のことが気にかかっているのだ。生江見さんが、私の感情を悪意によって傷つけた。そう考えているのかもしれない。
「……わからない」
生江見さんは、すこし首をかしげた。
「彼女の地雷がどこにあるか、そこまで知らないから。なにか、変なふうに踏んじゃったのなら、申し訳ないと思うけれど」
「そう」
じゃあいいです、と、輝理ちゃんは笑う。一瞬だけ張り詰めた態度が嘘だったように、その微笑みは柔らかくて優しかった。彼女が重心を逆方向に揺らして、風に揺れる枝のようにしずかな笑い声をこぼす。
生江見さんの肩から力が抜けた。眉間のしわが消えて、細めていた目がぱっと、シャボン玉みたいに開く。奇妙な色に染まった彼女の瞳は、夕陽の光をまっすぐ受け止めたみたいに、すがすがしく光っていた。白かった肌が、すこし赤くなった気がした。
ふと、私は、その情景を見たことがあるように思った。こんな顔をしていた誰かの顔を、どこかで見たことがあるように思った。脳裏では、印象だけがやけに強く心を揺さぶるけれども、具体的な姿をとることはない。切ないような、浮つくような、記憶の情動だけが心の中を踊る。頭の奥で、ちいさく脈打つものがある。
輝理ちゃんは、すこしだけ首をかしげて、生江見さんの視線を受け止めている。見つめるのにも見つめられるのにも臆することのない自然な輝理ちゃんが、生江見さんの目の中でどんなふうに見えているのか。そればっかりは、私にもわからなかった。
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