第9話 旧友、ひそひそ話、スマホケース
魔法の名残みたいに、スキップするような軽い足取りで教室の扉をくぐると、魔法少女たちは誰も登校していなかった。私はちょっとがっかりしつつ、自分の椅子に腰を下ろした。椅子の背に体重を乗せると、いっぺんに自分の体が現実のものになったような気分になる。
話し声がさざめく教室をぼんやりと見回す。
メッセージを送っても、誰からも返信は来ないだろう。そうなると、胸にしまったスマートフォンも、制服のポケットをかすかにたわめるだけのただの板だ。持ち重りするその手応えが、煩わしい。
音月さんは、寝てるだろうか。それとも仕事かな……
「おーす」
声に振り返ると、机の横に
「おはよ、萌ちゃん」
「連中は一緒じゃねえの?」
萌ちゃんは左右に軽く首を振り向けて視線を巡らす。明るい色に染めた毛先が、肩の上で跳ねる。
「誰も来てないんだよね」
「
「まあ、いろいろ」
あいまいに笑う。こないだカフェに行ったときもそうだけど、気まぐれで自由な輝理ちゃんたちにペースを合わせて、学校を抜け出しちゃうことが最近多い。魔法少女としての戦いがどうこうという深刻な話ではないのだけれど、魔法で気配を消してサボリを敢行しているので、あんまり大きな声じゃ話ができない。萌ちゃんには魔法少女のことは話していないし。
つかのま私を見つめた萌ちゃんは、白いほっぺに笑みを浮かべた。
「まあ、今の真依は元気そうだし、アチシは心配してねえけど」
「うん……大丈夫だから」
「真依の『大丈夫』は当てにならんよ」
ふひひ、と息の漏れる笑いをこぼした萌ちゃんに「もう……」と唇をとがらす。たしかに、口で『大丈夫』と強調するときほど不安なときはない。笑顔で明るくそう言う人に限って、気持ちは荒れ果て、肌も体も不健康で、部屋の中はゴミ屋敷になってたりする。そんな人たちの心の奥で”リガ”が育っているのを、私たちは何度も見てきた。
端から見ていて、私も同じふうに見えていた、と気づかされたのは、私が魔法少女になってからだ。
その前から私を知っている萌ちゃんは、だから、私の『大丈夫』を信じていないらしい。
「でも、ほんとに大丈夫じゃなくなったら、いいなね。直利だろうと誰だろうと、アチシがなんとかしたるから」
信じていないからこそ、そうやって力強く、助けようとしてくれる。私をじっと見据える頼もしい目は、中学の頃に私をずっと見守ってくれていたときから、変わらない。
その気持ちがうれしくて、でも、私はつい苦笑いしてしまう。
「輝理ちゃんはそんな悪い子じゃないよ……」
「だよなー、あいつほど悪が似合わない女もいないよなー。
つま先をとんとんと上下させて床を叩いていた萌ちゃんは、ふと思いついたように、私の方に顔を寄せた。冗談めかした小声で、言う。
「なんか、だらしなくない? あいつら」
……わからなくもない。
輝理ちゃんはキラキラして颯爽としてかっこいいけど、あまり世間とかに頓着しなくて、自分がどう見られているかにかまわないような一面がある。函名ちゃんは、こう、人間関係が、その、あれだ。玲蘭さんも、ふだんはまあまあ真っ当だけど、ネットのリズムに入った今はどうなっていることやら。
みんな、どこかで、周りの目を気にせずに振る舞っている側面がある。それを、だらしないとたとえるなら、そうなのかも。
私は口を開く。肯定するのか否定するのか、迷いながら声を発しかけたとき、萌ちゃんが視線を私の後ろに向けた。
「……っと、噂をすれば、だ」
「え?」
振り向くより先に、こつん、と私の後頭部に硬いものが触れた。丸く整形された、薄い板の角。
あたらめて振り返ると、無表情な玲蘭さんがいた。メイクもしていないどころか、古い段ボールをくくって捨てるときみたいに雑に縛った髪や、斜めに曲がったタイ、折り畳む気もない長いスカートなど、全身どこをとってもいい加減だ。
案の定、ネットのリズムから抜けられていないらしい。その証拠に、彼女は両手で持った2台のスマホを同時に操作している。
「おはよ、梧桐」
さっきの陰口なんてなかったみたいに、萌ちゃんは気安くあいさつして距離をとる。私とは親しく話す萌ちゃんも、玲蘭さんたちとはそこまで会話があるわけではない。さっと視線を巡らせて、教室に入ってきた子の方に手を振り、
「じゃね」
「うん」
萌ちゃんは流れるように私の机を離れる。その代わりに、私は椅子ごと玲蘭さんの方を振り返り「おはよう、玲蘭さん」と笑う。玲蘭さんはうなずいて、私の横を回り込んで机の前にしゃがみこむ。両方の肘を机の端に乗せ、右手と左手を交互に見ながら、画面にすいすいと親指を滑らせ続ける。独立した生き物か、プログラムされた機械みたい。
その指先ひとつひとつで、彼女は的確な相手に適切なコメントやスタンプを送り、ネット上の人間関係を構築し直し、世界に影響を与えている……らしい。私にはよくわからない世界だ。
魔法少女をやっているときより、ネットしている玲蘭さんの方が、よっぽど魔法使いに見える。
「あの……さっきの、聞こえてた?」
萌ちゃんのささいな、さほど悪気もない陰口が、玲蘭さんの耳に届いていたかもしれない。ふと不安になって訊ねると、玲蘭さんは、Wの形になった両腕の間で首をかしげ、「何?」と落ち着いた声で聞き返してきた。すくなくとも、怒っているわけじゃなさそうだ。
「ごめん、気にしないで」
「謝るようなことなら逆に気になる」
あっ。
淡々と、ふだんより早口な玲蘭さんの言葉に、私は思わず痛恨の感情を顔に出しそうになる。変なこと言わなければよかった。だいたい、私は何も悪いことなんてしてなくて、ただ萌ちゃんの言葉を聞いていただけだ。私が彼女の代わりに謝るのも筋違いだし、ことを大きくしてしまいかねない。
玲蘭さんは、両手の親指を動かしながら、ぼんやりと私の前に立っているだけ。やっぱり怒ってはいないんだけれど、気持ちがどこかあさっての方に行ってしまっているのがわかる。そういう人には、なかなかうまい言葉が出てこない。
だから、
「……リボン、曲がってる」
口にするとやけに芝居がかるそんな言葉をつぶやいて、玲蘭さんの胸元に手をやる。ひと組の細い手首の間から、彼女の胸元に手を通す。そっと、しわにならないように、リボンの形を左右対称に整えた。白い制服の上で、蝶の標本のようにリボンがきれいな形を描くと、それだけで、すこしは彼女のだらしなさが和らいだみたいに見える。
玲蘭さんはまた首を傾げた。
「マンガの影響?」
「何それ」
今度は私が聞き返す。玲蘭さんは答えず、目線をスマホの方に戻した。私もそれにつられて、彼女の手元に改めて目を向ける。玲蘭さんのちいさな手には、大きなスマホは少し余っていて、はみ出したスマホケースの図柄が手のひらからはみ出して見える。
そこに描かれた細密な線に、ふと、思い当たるところがあった。
「ねえ、玲蘭さん。そのスマホケース、」
「どっち?」
私が皆まで言うより先に、玲蘭さんが手の中でスマホを回転させて、こちらにケースの図柄を見せてくれた。「左手の方」とつぶやいて、私はまじまじとスマホケースを見つめた。
ありふれた素材のスマホケースに、西洋の銅版画を思わせるような細密な図像が刻まれていた。一見すると、単なる抽象的な模様に見えるけれど、よく観察すると、それは虫と少女だ。今回は、複眼や胴体の縞模様まで細かく描かれたスズメバチの、異様なまでに膨れ上がった腹部から、涙目の少女が顔を出している場面だった。本来なら何も生じるはずのない虫の体内から、少女が出現する様が、過剰に細密な線で表現されている。
このスタイルは、知っていた。
「ジギタリスさんとはフォローし合ってる」
玲蘭さんはそう言って、彼女がネットを巡っている際にジギタリスさんの絵を発見してすぐさまフォローし、たまにメッセージを交わし合う関係になったこと、今でも自分のタイムラインに彼女の絵を拡散して認知に貢献していること、などを早口に説明した。玲蘭さんのネット上での活動にぜんぜん触れたことのない私にとっては、初耳の情報ばかりだ。
「知り合いなの?」
「端的に言えば」
玲蘭さんがうなずき、私をじっと見つめる。こちらに絵を見せてくれている左手はもちろん、右手の親指の動きも止まっている。一瞬の間があって、玲蘭さんは言う。
「すぐ近くに住んでる」
「ああ、うん、それは」
桜木筋のギャラリーに絵を出展していて、そこに顔を出せる程度には近隣に住んでいることは察しがつく。あの辺か、ひょっとしたら六ヶ斗に住んでいるのかもしれない、とは想像していた。
うなずいた玲蘭さんの左手が、素早く動く。それから彼女は、ほんのすこしだけ、唇の右端をつり上げた。
「友達がファンだって伝えた」
「今!?」
あの一瞬の動きで、そんなメッセージが伝達できたらしい。そんなに動作の速くない私にとっては、玲蘭さんのそういう速度には驚かされてしまう。
というか、ジギタリスさんに私のことを教えたわけ? さすがに個人情報まで伝えたわけじゃないんだろうけど……
玲蘭さんは目を細めて、ゆっくりと私の方に顔を近づけてくる。さっき萌ちゃんが口を寄せたのとは反対側の、左耳に。
それから、告げた。
「魔法少女だってことも言ったよ」
「えっ」
「あの人も元魔法少女だから」
玲蘭さんが何気ない響きで告げた言葉は、やけに大きく聞こえた。彼女の距離感は、ときどきよくわからない。
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