第8話 待ち合わせ、映画、会社

 ショッピングモールの自動ドアの手前、案内板の真下で、音月さんはまっすぐな姿勢でどこか遠くを見上げていた。私が手を挙げて声をかけようとするより先に、音月さんは私に気づいて手を振った。小走りに駆けより、型どおりのあいさつをして、私は音月さんの醒めた顔を見上げる。

 音月さんが、眠たげにすこしまぶたを閉じたまま、私を見下ろした。


「どうしたの」

「え?」

「笑ってる」


 言われて、自分の顔が微妙にゆるんでいることに気づく。はっと表情を引き締めようとしたけど、別にそんな必要はない。緊張するような間柄じゃなかった。

 夜明け頃の、他愛のないスマホ越しの約束がかんたんにかなう。そういう気安い関係。

 飾らない服装の音月さんが、ジャケットの胸元からスマホを取り出し、細い指先で何か操作する。


「映画、もうすこし時間あるね。どうする?」


 下を向いた音月さんの声はぼそぼそとして、だけど私の耳には心地よく響く。


「ロビーで待てばいいんじゃないですか。私は大丈夫ですよ」

「そう?」

「音月さんが行きたいとこあるなら、それでも」

「や、別に。どうせ時間も半端だし」


 音月さんは抑揚の薄い声でつぶやく。本来の用事以外は特に関心もないらしい。それは裏を返せば、私と一緒にいることは音月さんのとって必要なことなのだということ。彼女が必要としている圏内に、私が含まれてる。

 ちょっと足を前に出せば、つま先が触れるような距離だ。音月さんのスニーカーは、機能性だけを求めたように軽くて細い。無駄に格好を付けないそういう靴が、休日の彼女にはふさわしい。


「また笑ってる」

「そうですか?」

「今日はテンション高いね」


 そうかも。



 日本のマンガを中国のスタッフが実写化したというアクション映画は、ファンタジー風の世界観で、魔法と科学が混じったような武器を駆使する主人公たちが世界を脅かす怪物と戦う、というものだった。怪物のCGは迫力があったし、人間たちの持つ特異な武器も作り物とは思えない質感があって、重さとリアルさを感じさせた。


「面白かったですね」


 スタッフロールの終わりを待って席を立ち、私が率直な感想を述べると、音月さんは低い声でつぶやいた。


「主役、叫び過ぎじゃなかった? 見せ場ならいいけど、10分おきに絶叫されると飽きちゃう」

「……きっと、そういう性格ってことなんですよ」

「まあ、それならそれでいいけど」


 薄暗いままのシアターから明るいロビーに出て、音月さんの横顔に目をやると、彼女はまぶしそうに顔をしかめていた。単に明暗の差が堪えたのか、それとも映画によほどの不満があったのか、それを彼女ははっきりと口にはしない。ただ、いぶかしそうに首をひねっているところからすると、納得できなかったのは確かなように見えた。

 お話の善し悪しは、私にはよくわからない。ただ、音月さんがそうして不満そうにしていると、私も同調してしまいそうになる。何か目に見えない欠点があって、ほんとうは私も不満なのかも、とか。

 なのに、音月さんはロビーの売店でパンフレットを購入した。


「そんなに面白かったんですか?」


 支払いを済ませた音月さんに訊ねる。彼女は、映画館のロゴが入った白いビニール袋をいささか乱暴にぶら下げながら、首をひねる。


「別に」


 なら、どういうことだろう? 面白くもない映画のパンフレットなんて、わざわざお金を出す意味があるのだろうか。俳優のファンで、写真がちょっとでも載っていればとにかく手に入れておきたい、とか……この間のフィギュアのコレクションみたいに、何かしらの収集癖があるのかも。

 ふと思いついて、私は手に持ったままの銀色の薄い袋をじっと見つめた。手のひらほどの大きさのパッケージには、来場特典のイラストカードが入っている。ランダムで何種類もあるから、全部集めるのはなかなか手間がかかる、と前に玲蘭れいらんさんが言っていた気がする。

 特典を音月さんの方に差し出す。


「音月さん、これ、いります?」

「ん? いや、いいから。コンプするつもりないし」

「はあ」

「……でも、あとで見せるだけ見せて。ひょっとしたら、同僚がほしがるかも」


 突然、仕事の言葉が出てきて、私は面食らう。なんだか、頭の上に雨が落ちてきたような、不意打ちを食らった気分だった。

 私が口を閉ざしたのを見て、音月さんはつかのま、ロビーの高い天井を仰いだ。口元をわずかに動かして、なにかちいさくつぶやいてから、音月さんは視線を私に向けた。


「ワタシの仕事の話って、ちゃんとしたことなかったっけ」

「……たぶん」


 多忙で残業しがちなことは知っているが、それ以上のことは知らない。こちらから踏み込むのも差し出がましい気がして、今まで訊けずにいた。

 そういやそうか、と、音月さんはひとりごとのようにつぶやく。それから、ふと思い出したような仕草で、白くやわらかい手提げ袋から映画のパンフレットを取り出す。ぱらぱらと、しなやかな手が薄い冊子をめくる。


「ほら、これ」


 差し出されたのは、一番最後のページ。豆粒のように細かな字でずらりと記載されているのは、映画のスタッフだ。大半の人は興味がないし、私も見ない。スタッフロールなんてテーマソングを聴くだけの時間だ。

 そんなページの一点、右下に押し込まれるように並べられた文字列を指さして、音月さんは言う。


「これ、うちの会社」

「えっ」


 3DCGの、よくわからない横文字の何かを担当したスタッフの、たくさんの名前。個人の名前もあれば、会社の名前もある。そのうちのひとつが、音月さんの会社だという。

 その名前だけが、私の目に、とても大きなもののように浮かび上がって見える。こんな、ちゃんと作られた本物の映画の中に、私の……友人と関わるものが入り込んでいるなんて。

 音月さんは、なんだか言い訳でもするみたいに、すこし早口に言う。


「ほんとうにちょっとだけだけどね、ほら、中盤ぐらいで出てきたヤツいたでしょ? あのウロコとか、爪とか、あのへん」

「……音月さんが作ったんですか?」


 この間、音月さんに渡したもののことを思い出す。空想上の爬虫類のようなモンスターをリアルに造形した、手のひらほどのフィギュア。あの外皮や脚の形状が、映画の中に出てきたそれと似ていたかどうか、思い出せない。そこまでちゃんと見ていなかった。


「ううん。隣の机の子がやってるのをチラ見しただけ。だからワタシとは関係ないっちゃないんだけど。でも、ま、観ときたいって思うじゃない」


 じゃない、と同意を求められても、ぴんとこなかった。でも、自分の手の届くところから、たくさんの人に観てもらえるものが作り出され、送り出されるのは、きっとうれしいのだろう。

 いつの間にか私たちはロビーの窓際にいた。音月さんの肩越しに、窓の外に広がる市街地が見える。若葉マークみたいな六ヶ斗ろくがとの街の真ん中あたり、東西に街を貫く大通り沿いにあって、人々はそこに集まっては散らばる。駐車場から出て行くミニバンが、ゆっくりとウインカーを点滅させている。それと入れ違いに、自転車に乗った子どもたちが通りからすごい勢いで駐車場への通路に飛び込んでいく。

 ざわざわと動く街を背景に、音月さんの表情が、じんわりと動く。


「そう。観ときたかっただけなんだよね」


 その、はにかんだ笑みと、どこかやりきれなさを宿した眉尻のかすかな揺らぎを、私はぼんやりと見つめる。

 私が初めて見る音月さんのその表情は、ざわざわと、私の胸の内までもざわつかせる。目に見えない深い部分に指を触れられて、きゅっ、と、一瞬だけ血の流れが押さえつけられるような、こそばゆいような恐いような感覚。

 知ったことのない私の感情が、音月さんを介して私に響いてくる。うまく受け止められなくて、立ち尽くす。

 こういうことは、ずっと昔にあった気がする。思い出せないけれど、でも、夢で見たような……


「……つまり、ワタシの仕事ってそういうのなの。CGやったり、まあ2Dもやるけど、そういう映像の部品を作るみたいな仕事」


 音月さんの声で、私は我に返る。迷子になりそうだった意識が戻ってきて、頭が外の世界を見る活動を再開する。音月さんの言葉の意味をかみ砕いて、理解して、口を開く。


「じゃあ、こないだのフィギュアも、そのための参考ですか?」

「そう言っちゃえばそうなる、かな。展覧会も。仕事に役立つのはそうなんだけど……こういう仕事は、趣味とかが自然と仕事につながっちゃうようなところ、あるしね。参考って形で言っちゃうのは、すこし違うかも」


 困ったように首をひねっていた音月さんが、口にする。


「そういや、ジギタリスさんとはつながったりしてる?」

「……いえ」


 ふたりで行った展覧会で、私が気に入ってずっと見ていた絵の話だ。ジギタリス、というハンドルネームの作者のアドレスは、音月さんに教えてもらっている。

 でも、連絡を取ってはいない。そこまでするほどのことだろうか、という気持ちと、おこがましい、という気後れとが重なって、私の腰を重たくしていた。一度だけ絵を見た、というだけのことだ。何年も追いかけたり、作品をコンプリートしたり、強くて深い愛情が私の中にあるわけではない。

 軽々しく、作者に愛を表明していいほど、私は熱狂的なファンじゃない。

 そんな風に説明すると、音月さんは苦笑した。


「ワタシは真依よりずっと軽率だった」

「音月さんがですか?」

「そう。いろんな人に……いろんな人の作品にね、好きだって言い続けて、それでいつの間にか、この仕事についてた、みたいなところがあるから」


 そう言って、また音月さんは、ふわりと天井を見上げる。空から天使の羽でも落ちてきたみたいな、一瞬の間。そして、かすれたような彼女の声。


「なんか喋りすぎだな、今日」

「うれしいです」


 音月さんからこんなに昔の話をしてくれるなんて初めてで、だから、私までつい、そんなことを口にしてしまう。おどろいたみたいに、視線をこちらに戻した音月さんは、笑ったような、困ったような、微妙な顔をした。


「それなら、まあ、いいけど」


 面差しも、声音も、いつもの音月さんに比べるとずっとあいまい。

 それがよけいにうれしくて、私は、彼女のその微妙な笑みをずっと覚えていた。

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