第7話 夢、明け方、約束

「ね、ねえ、やめようよ……」


 友だちの背中に、私はおずおずと話しかける。草ぼうぼうの獣道を早足で歩いていた彼女は、編んだ髪をくるりと振って、こちらに陽気な顔を見せる。夕方は薄暗くて、顔ははっきりと見えないけれど、なんだかひどく明るく光っているみたいに感じられる。


「どうして?」

「遅くなったら、ママが心配する……それに、宿題、まだやってないし……」


 友だちは、大きな目をぱちぱちとまばたきする。


「だいじょうぶだよ。恐くても、あたしがついてるし」

「っ」


 私が言い訳で守ろうとした真情を、友だちはまっすぐに見透かして、そして許す。この子は、いつもそんなふうだ。私や、みんなや、パパやママたちの気持ちも筒抜けになっているみたいな態度をとる。そして、たいていはそれがぴったり合っているみたいで、おとなも、子どもも、この子にすこし近寄りがたいものを感じているようなのだった。

 そんな彼女を、私は、友だちだと思っている。

 ちくちくと、ソックスの上からとがった葉っぱが足首のやわらかいところを刺す。山の中で学校に行くための靴はかわいくないけれど厚くて強くて、草だらけの坂道を歩くのにも支障はなさそう。今まで歩いてきた道をそのまま戻れば、転んだり迷ったりせずに帰れそう。

 それに、彼女がついている。ほかの人とは違うところのある私の友だちがそばにいれば、困ったことがあってもきっと何とかしてくれる。


「行こ」


 友だちは、ふたたび前を向いて、両手を大きく前後に振りながら歩き出す。とことこという足音が、山の中の風の音に入り交じって、力強く耳に届く。

 暗い道を戻るより、その足音について行った方が安心だ。

 私は友だちの背を追う。地面はいささか頼りなく思えたけれど、目の前に彼女の背中があるのだから、きっと大丈夫だ。


「ほんとうにいるよね、白い狐」


 私たちのあいだで流行っている噂のことを、友だちが口にする。もちろんただの狐ではなくて、中学生くらいの大きさで、毛皮が白くて、目が赤くて、日本語をしゃべるという。出会った人たちはひとり残らず呪われるという噂だけど、実際に呪われた人に会ったことはない。

 理屈で考えたら眉唾なその噂を、私も友だちもうたがったことはなかった。


「絶対いるよ」


 そう確信してつぶやいたのが、私だったか、それとも友だちだったか、はっきりしない。ときどき、友だちは私のいいたい言葉をそっくりそのまま口に出すことがあったし、ひょっとしたら私の方が友だちの言葉を先取りしていたのかもしれなかった。

 前を歩いていく友だちの背中は、どんどん大きくなっていく。私よりずっと元気なわりに、彼女の体つきは私よりずっと小さいし、だから歩幅も短くて、足はそんなに速くない。鬼ごっこをすれば、私はかんたんに彼女に追いつける。ただ、捕まえることが出来ないだけだ。彼女はためらわずに塀によじ登ったり、木に登ったり、川原をすべりおりて水に飛び込んだりするから。

 白い狐をつかまえるのも、それと同じことだ。だったら、きっと心配はない。

 しだいに足下からちくちくする草の感触が消えていくのも、たいしたことではない。足の裏に感じていた土の固さが薄れて、あたりは夕暮れの色からあいまいなクリーム色に変わって、空を覆っていた山の景色もその色の中に溶けていくのも。

 だって、友だちはすぐそこにいる。手を伸ばしたりしなくても、そこにいるのがわかる。私と彼女は心で感じ合っている。

 ふー、ふふー、ふー……と、友だちは鼻歌を奏でている。その歩みには迷いがなくて、自然とついていける。

 どこまでも上って、山道を通り抜けて。

 白い狐がいると噂の廃屋すらも通り越して。

 山の頂を越えて。

 でも、私と友だちは一緒にいて……


「マヨリちゃん?」


 白い靄の中で、そう呼んだのが私だったか、友だちだったか、思い出せない。



 目を開けると、暗い部屋。見慣れた景色だった。

 就寝時間が早くて、寝付くのも早い私は、いつも朝が来る前に目を覚ます。あたりはまだ暗い。やわらかなベッドの温度はぬるく、意識だけがやたらに鮮明で、私はたったひとりで天井を見上げる。いつも、そんなふうに目覚める。

 夢を見たらしかった。内容は覚えていないけれど、なつかしいような気持ちだけが、胸の奥で溶け残った粉のようにわだかまっている。孤独なベッドの中では、そういう、あっという間に散ってしまいそうな気持ちがひどく重たい。

 ベッドのヘッドボードに手を伸ばして、スマホを手に取る。起床のためにアラームが必要になったことはないけれど、急な連絡が来たときのための準備だ。魔法少女として戦っていたときの習慣だった。

 画面に手を滑らそうとしたとき、スマホが低く震えた。音月ねつきさんからのメッセージだった。


『まだ寝てる?』

『今起きました』


 すぐに返答しながら、対応が早すぎたかもしれない、とすこし笑う。でも、まるで私と音月さんの感覚がぴったり通じ合っていたみたいに思えて、うれしくなる。ごろり、とベッドの中で寝返りを打ち、大きな枕にスマホを置いて、私は両肘で上半身を支えながら画面を見つめる。


『起こしたかな ごめん』


 顔文字もないメッセージだけど、音月さんの苦笑いが画面の向こうに浮かんでくるみたいだ。私も、たぶん同じような表情で笑いながら、画面に指を滑らせて文章を入力していく。するすると動く指の下で、言葉がつむがれて、往復する。


『その前に起きてました』

『よかった』

『音月さんも早起きですね』

『寝るところ 3時間後には起きる』

『すみません』

『いつもだから』


 社会人の生活というのは、魔法少女よりもずっと過酷なように思える。戦いが毎日押し寄せて、逃げ出したら人生が崩れてしまう。どう返せばいいかわからずに、画面の上で指をさまよわせていると、次のメッセージが浮き上がってきた。


『おかげで週末は空けられる また会う?』


 クエスチョンマークの頭部が、左右に揺れている。アプリが勝手に変換しただけなのだろうけど、シンプルな文面の中に突然現れたその手招きめいた動きが、私の目を妙にひきつけた。画面の光が視界に強く浮かび上がって、目がくらむ。眉をひそめ、唇をすこしゆがめ、私はおぼつかない指先を画面に滑らせる。


『会いたいです』


「ふふ」


 唇の隙間から、笑いの吐息がこぼれた。

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