第6話 夕暮れ、自販機、紙袋

 ギャラリーから出ると、あたりは薄暮の景色だった。古くさいフォントで書かれたビルの看板も、つぶれた店のシャッターも、やけに真新しくて場違いなデジタルサイネージも、駐車場のがらんどうの空間も、夕暮れの中では全部溶け合っていくみたいだ。

 電車に乗る前にすこし休んでいこう、と音月ねつきさんに言われ、私たちは雑居ビルの裏手からしばらく歩くことにした。音月さんがお気に入りのベーカリーが、この辺にあるのだという。


「クロワッサンがおいしいんだ。シンプルだけど、味が深くて」


 音月さんの楽しげな声を聞きつつ、静かな裏通りをのんびりと歩いて、しばし。

 ベーカリーは休業日だった。


「……あー」


 先月から定休日が増えた、というむねのチラシが貼られたシャッターの前で、音月さんは額に手を添えて顔を伏せた。すっかりパンの気分になっていた私も、落ち込んでいいのか、慰めていいのか、言葉が出ない。立ち尽くす私たちの後ろを、自転車が通り過ぎていく。

 と、音月さんはため息をついて、顔を上げた。周囲を見回し、道の向かい側にジュースの自動販売機を見つけると、すたすたとそちらに歩いていく。

 ポケットに手を突っ込んで、財布を取り出してから、振り向いた。


「何がいい?」

「えっと……薄味ので。あったかいのを」

「難しいな」


 音月さんは自分にブラックコーヒーを買い、私には緑茶をくれた。

 閉じたシャッターの前に並んで、1車線ぶんもないような路地の方を向いて、私たちは所在なく突っ立って飲み物を口にする。

 ずっと手にしていた紙袋を足下に置き、オレンジ色のふたを力を入れて外し、緑茶を口に含んだ。舌の上から、安心感のある苦みと、生ぬるい熱が伝わってくる。

 缶をひっくり返すような勢いでコーヒーを一気に飲んだ音月さんは、はっ、と息を吐く。


「ごめん、真依まより


 唐突なひとことに、私は飲み口をくわえたまま首をかしげる。何か謝られるようなことなんてあっただろうか、店が定休日だったのは音月さんの責任じゃないし。

 彼女は手の中で缶を転がしながら、さびれた街の乾いた空に語りかけるように、つぶやく。


「むりやりつきあわせたかな、と、思って」

「そんな」


 振り向いて声を上げた。

 音月さんは私の声に反応せず、わずかに視線を空に向けて持ち上げたまま、すこし右足に体重を預けた姿勢でたたずんでいた。後ろに流れた髪の隙間から、まっすぐな耳たぶがのぞいている。私を顧みない、三日月のような横顔が、夕暮れにかすむ路地を背にして、驚くほどさまになっていた。 


「つきあわされた、なんて思ってないです」

「でも、退屈そうだった」

「……」


 だって、緊張していたからだ。街の外、魔法の力から離れた世界、ずっと縁遠かった場所。

 それか、音月さんが、心を奪われていたからだ。私のよくわからない、よそよそしい絵や知らない人、そういういろんなものたちに。

 安心できなかったからだ。音月さんがそばにいてくれない気がして。

 そういうことを伝えたかったのに、言葉がとっさに出てこない。巻き起こる気持ちは、ひとつひとつ整理するのが難しくて、順番がわからなくなってしまう。

 音月さんは、私の沈黙をすこし待って、それからつぶやいた。

 遠い過去に聞いたような、ひどく悲しい音色で。


「めんどくさくない? 私と友達になって」


「ないです」


 迷いはなかった。私はきっぱりと告げて、オレンジ色のキャップを力いっぱい締めた。ペットボトルがねじれるような、耳障りな音がする。

 音が思い出させる。


 理の外の領域、”リガ”の生み出した境界領域。育ち続ける絶望の花の頂で、いびつなつぼみに閉じ込められていた、ちいさな人影に向かい合っていたときのこと。

 孤独の生み出した重力に取り込まれ、自分で作り出した魔力の檻に閉じこめられていたひと。

 ”リガ”を倒し、魔力を封じれば、境界領域は消失して街の危機は去る。しかし、あのときの私たちはすでに知っていた。封じられた魔力は妖精の糧となり、臨界に達した妖精は世界を食らう獣となる。そして、私たちには妖精は殺せない。私たち魔法少女の命は妖精の存在と紐付いており、妖精を消せば私たちの命を駆動する魔力は途切れてしまう。私たちは死ぬか、自分自身が魔力を生み出す獣となるしかない。

 このからくりを出し抜く手段を、私たちは知っていた。


『私があなたの友達になるから!』


 ”リガ”の……その源であるひとの孤独を癒すこと。それが、私たちの仕掛けの肝心要の一手。


 私たちと世界を救うために、そして彼女を救うために、私はそのひとの、黒沢音月さんの友達になることに決めたのだ。


 それから、ほんとうにいろいろなことがあって、私たち魔法少女は妖精の企みを打破した。妖精は封じられ、私たちは生きて、ついでに魔法少女としての仕事だの義務だの宿命だのからほぼほぼ解き放たれた。

 やるべきことが残っているとすれば、せいぜい、私が音月さんの友達であり続けることくらい。

 だからって、義務で友達になろうとしているわけがない。


「いやだって思ってたら、そう言います。友達ですから」


 ペットボトルを胸の前で握りしめ、私は音月さんの方に踏み出す。祈るような手つきで、前のめりになって、音月さんの方に顔を近づける。

 目を見開いて、音月さんが私に振り返った。体重を預けていた右足がすこし崩れて、彼女はよろけた。

 私の足下で、紙袋が倒れる。音月さんの手にした缶が、地面に落ちる。ばしゃ、と、ふたりの足下に黒いコーヒーが散乱して、地面を濡らす。

 音月さんの表情が、困惑に揺れた。

 私もはっとして、身を引いた。熱くなっていた頭がすっと冷えて、沸騰していた気持ちが胸の底にいっぺんに沈み込んでいくような気がした。入れ替わりに、顔が熱くなっていく。

 急に気持ちを押しつけて、私の方こそ、めんどくさい子だ。


「……あの」


 すみません、と、言い掛けて、私は音月さんを見つめる。

 彼女はまた、空を見上げていた。秋空はほとんど暮れなずみ、スカイブルーの代わりに赤と黒が埋め尽くそうとしている。白い細面は陰に覆われて、表情が見えない。細い首に浮かぶ薄い血管の色と、鎖骨のふくらみが、浮き彫りのように夕暮れの中から飛び出して見えた。

 くふ、と、彼女の首筋がけいれんするみたいに動く。

 ふ、ふ、ふ、と、彼女は笑う。その感情の意味をはかりかねて、私は何も言えずに立ち尽くす。


「……あー……」


 音月さんは、息を吐きながらゆっくり顔を下げた。エアードームから、空気がちょっとずつ漏れてしぼんでいくみたいだった。ショッピングモールの屋上の夕暮れ、子供たちの遊び場が営業を終えて、遊具が片づけられていく光景。どこで見たのか、そんな景色を思い出す。

 ようやくこちらを向いた音月さんは、困ったような笑みを浮かべていた。


「ごめん、真依」


 同じことを、違う声で言う。さっきの硬い声音とは様変わりした、どこか間の抜けたような、力のない、だけどそれだけに親しみを感じさせる声。


「でもさ」


 いいわけがましく付け加える、その声までも、やけに好ましく聞こえた。


「ワタシもけっこう、緊張してたみたい」


 ……ああ。

 私は、ちょっとだけ口を開けたまま、苦笑いで応じた。

 思えば、当たり前だ。私がふたりの関係を気にしてるのと同じくらい、音月さんだって気にしている。7つの年の差は、上から見たって下から見たって同じ隔たり。大人だからって、人付き合いをなんでも如才なくこなせるわけがない。

 そんな人だったら、リガになんてならない。

 魔法少女と怪物は表裏一体だ。同じようなことで悩んだり、苦しんだり、傷ついたりしていた。


「あっ」


 ふいに音月さんが焦った声を上げる。何事かと思って、彼女の視線の先、私の足下に目をやる。

 せっかく持ってきた紙袋が、缶コーヒーで黒く汚れていた。

 私はあわててしゃがみ、紙袋をがさがさ探って荷物を引っ張り出す。リサイクルショップの老店主が震える手でラッピングした箱は、どうやら無事なようだ。ほっ、と息を吐く。

 音月さんも、安心したように相好を崩し、こちらに手を伸ばした。


「ワタシが持つよ」

「はい」


 立ち上がった私が彼女に箱を差し出すと、音月さんはそれを小脇に抱えた。やけにファンシーなキャラクターものの包装紙は、彼女のスマートなたたずまいにはやたらに不釣り合いで、親戚の子のためにおもちゃを買って帰っているみたいに見えた。

 私の視線に気づいて、音月さんは眉をひそめる。なんでもないです、と首を振った。

 それから私たちは、しばらく取り留めのない話をした。今日見た絵のことや、音月さんの好きなイラストレーターのこと、おいしいパンのことや、私の高校生活のことを。

 日が暮れて、夜になっても、飽き足りずに話し続けた。

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