第5話 駅、鉄橋、ダイオウグソクムシ

 ベンチに腰を下ろし、両手をこすりあわせながら、私は音月さんを待っていた。

 空陽台くうようだい駅の前に設置されたベンチからは、バスロータリーぐらいしか見えない。ときおりやってくるバスが、円形の道路をゆっくりと巡航したり、客を降ろしたりしていく。真ん中には、空に手を掲げるよくわからないポーズを取った裸の女性の像がある。しげしげと見るのも恥ずかしいが、しいて目をそらすのもなんだかみっともない気がして、私は用事のあるふりをして手元のスマホを眺めつつ、足をなんとなく揺らす。ベンチの下に置いた紙袋に、かかとが触れた。

 バスがのろのろと走ってくる。私の目の前、というか駅の前で停車したバスの前扉から、すらりとした人影が降りてきた。タラップを踏む、スリムなデニムとスニーカーで覆った足を見て、私は顔を上げた。


音月ねつきさん」


 彼女もこちらを見て、目を細めた。特に急ぐふうでもなく、まるで地面から立ち上る靄みたいに、体を軽く左右に揺らしながら歩いてくる。カジュアルさとスマートさをほどよく両立した彼女の印象が、前に仕事帰りに会ったときとほとんど変わらなくて、奇妙な感じだった。プライベートも、仕事も、あんまり区別がないのかもしれない。

 私の1メートルほど前で足を止め、音月さんは笑う。


「まだ遅刻じゃない」

「……と、思いますけど」


 ぼんやりした答えを返した私に、音月さんがちょっと首をかしげる。変なこと言ったかな? と思って、一瞬後、手の中のスマホのことを思い出した。時間を確認してほしかったのか。

 画面を見れば、まだ待ち合わせの5分前。それを告げると、音月さんは微笑んだ。


「バスが遅いから。焦ったよ、急かすわけにもいかないし」

「むしろ、降りて徒歩で来るかと思いました。音月さんなら」


 私がそう言うと、音月さんは戸惑いがちに眉をひそめた。またとんちんかんなことを言ってしまったかもしれない……ちょっと気の利いた評価のつもりだったのだけど。自分でコントロールできないことを嫌って、たとえ遅くても自分の速さで歩き続けるような、そういう芯の強さ。音月さんには、そういうところがある気がしたから。


「それ、例の?」


 音月さんは、視線を私の足下の紙袋に向ける。ショッピングモールにあるブティックの紙袋だが、中身は、こないだ函名かんなちゃんが買った、あの爬虫類らしき何かのフィギュアのセットだ。


「悪いね、お使いみたいなこと」

「いえ、ぜんぜん……」


 会う約束をするのにうってつけでしたから……とまで言えればよかったのかもしれないけど、私の言葉はフェードアウトしてしまう。そういうことを軽々しく口にするまでには、まだ、私と音月さんの関係は気安いものではないように思えた。

 すっ、と、音月さんがこちらに右手を差し出す。昼前のすこやかな陽射しを受けて、彼女の白い手のひらが真新しい陶器のように光る。


「持つ?」

「……大丈夫です」


 そう言って、私は紙袋の取っ手を握って立ち上がる。


「今日は、まだおつきあいしますから。お渡しするのは、その後でも大丈夫でしょう?」

「それならそれでいいけど」


 つぶやいて、音月さんはふと、晩秋の青空を見渡すように視線を上に動かす。かつん、と、つま先でアスファルトを叩く。その音に吸い寄せられたみたいに、電車が線路を揺らす響きが私たちの元まで伝わってきた。


 行き先は、3つ向こうの桜木筋さくらぎすじ駅。急行も止まらない、という意味では空陽台と同じ、どこにでもありそうな辺鄙な駅だ。どこにでも、なんて言っても、私もそうたくさんの駅を知っているわけじゃないけれど。ただ、私の頭に思い浮かぶさびれた街のイメージに近いのは確か。

 土曜の昼前だというのに、電車の席は半分くらいしか埋まっていない。両側に大きな空間を残す長いシートの中央で、私と音月さんは隣り合って腰を下ろしている。胸の下で腕を組んだ音月さんのかたわらで、私は両手を足の上に載せて、縮こまるような気分で座っている。

 がたん、と、鉄橋にさしかかる音がして、足の下が大きく震えた。


「緊張してる?」


 音月さんの目だけがこちらを向く。


「はい……まあ」


 答えながら、自分の胸の奥あたりが緊張して、声が出しにくくなっているのを感じた。星切川を越えると、自然と体が固くなる。魔法少女として現役で戦っていたころの悪癖だ。あのころは、あまり街から遠く離れると力が衰えてしまうから、川を渡ったりしないように言われていた。


「そ」


 音月さんはつぶやいて、また黙ってしまう。私も、話の接ぎ穂を失って、次の言葉を発することが出来ない。

 鉄橋と車輪がこすれあって、きしむ音が響きわたる。窓の外からは、川面に反射した白い陽射しが届いて、つかのま目がくらむ。風景が白くかすんで、気が遠くなるような心地がした。


「……あの」


 とにかく口を開いた。ずっと黙っているのは、音月さんは平気かもしれないけれど、私には無理だ。

 音月さんが、また目線をこちらに向ける。私はあいまいな口の形をしたまま、しばらく迷った。話すことはたくさんある気がするけど、この場にふさわしい言葉はほとんどないように思えて、舌に重石でもされたみたいに言葉が出てこない。結局、引き出せたのは、他愛ない疑問。


「今日って、行き先はどこなんですか?」

「行ってなかったっけ」


 きょとんとして、音月さんは視線をさまよわせる。まるで、目に見えないメモが空中に張られていて、そこから過去の記憶を探り出しているみたいだった。そういえば、パソコンのディスプレイにたくさんポストイットを貼ってメモ代わりにしている仕事風景をどこかで見た気がする。音月さんも、同じような仕事の仕方をしているのかもしれない。

 音月さんは、記憶を探るのをあきらめたのか、目線をこちらに戻した。


「ギャラリーだよ。私の好きな作家さんが、展覧会に参加してる」

「どんな感じなんですか? テーマとか」

「今回は、何だったかな。『空想と怪異』だとか、そんなの」


 カイイ、という言葉にどういう字を当てればいいのか一瞬わからなかった。言葉から感じる印象は、なんだか恐そうだ。私がそう言うと、音月さんはちょっと首をかしげた。


「恐いことはないよ。真依まよりたちなら、もっと恐いものと遭ってるんじゃない?」

「思いも寄らずに出会うのと、意図的に見に行くのじゃ、心構えが違いますよ」

「そういうもの?」

「恐いと思って会いに行ったら、よけいに恐く感じます」


 ホラー映画のようなものだ。恐いものがあるから、恐がるつもりで触れにいく。そうすると、予想通りに恐いから、そういうふうに恐がれる。

 突発的に遭遇する恐怖への反応は、恐いとかではなく、もっと攻撃的なものだ。


「……そういうもの?」


 やはり納得できかねる、と、音月さんの声音はそう言っていた。



 展示会は、雑居ビルの1フロアを使ったギャラリーで行われていた。

 飾られていた作品はひとことで言って、雑多だった。美少女と怪物が融合したリアルめなテイストのイラストや、手足が欠損した少女を描いたドギツイ色合いのイラスト、怪獣のいる都市、さらには何だかよく分からない抽象画、といったラインナップ。そうした茫洋な作品群も、カーテンを閉め切った部屋で間接照明を受けて展示されていると、何か高尚なもののように見えてこないこともない……ような。

 怪異、というテーマを含んでいるわりに、意外と恐ろしげなものはすくない。むしろ、気色悪さや見た目の異様さを強調した、ホラーというよりスプラッタのような作品ばかりだった。

 音月さんは、1枚の作品の前で足を止め、しばらくの間、身じろぎもせずに見つめていた。地方のビル街の空を舞う、ヘビとワシと魚をごちゃ混ぜにしたような化け物のイラストだ。真夏のような青空、路上の通行人、その狭間を悠々と泳ぐ怪物のコントラストは、ひどく静かな印象だ。この世界には、音もにおいもなくて、ただ彼らだけが存在しているかのよう。

 私は、その作品にはすぐに飽きてしまって、音月さんの横顔をぼんやり眺めていた。まっすぐ絵を凝視しているようでいて、瞳がこまかく動いて、画面全体を捉えようとしているのがわかる。淡い照明の中に浮き上がる細面は、夜空の白い月に似ていた。短い黒髪と真っ白い頬のコントラストも、細い睫毛も、まっすぐ伸びる鼻筋も、職人の生み出した切り絵のように、緻密で繊細な造形をしている。

 こんな、手が届きそうな距離にいるのが申し訳なるくらい、音月さんはきれいだ。

 唇が開いて、空調の音に溶けてしまいそうにかすかな吐息が、こぼれ落ちる。

 私の口からも、すこし湿った息が漏れた。口を開けていたのに、自分でも気づかなかった。

 ふと、音月さんが私と反対方向に振り返る。そちらから歩いてきた、青い髪の眼鏡の女性がちょこんと手を振り、音月さんのそばに立って親しげに話しかける。音月さんの表情はこちらからは見えない。けれど、どうやら気の置けない間柄であることは知れた。

 音月さんの耳のうしろ、意外と乱雑な毛先を、私は見るともなく見つめている。なめらかな耳の曲線が、おどろくほどきれいだった。


「……真依?」

「はい?」


 ふいに音月さんに声をかけられ、私は反射的に返事をする。その声に、音月さんも、となりにいる女性も、おかしそうに顔をほころばせた。


「話聞いてなかった?」

「……すみません」

「いや、いい、たいしたことじゃないし。私たちの関係が、気になるっていうから」

「……充分たいしたことじゃないですか?」

「え?」

「あらら?」


 青い髪の女性が首を突っ込んでくる。丸い瞳は私たちを値踏みするみたいで、私は思わず身を引く。音月さんはふと天井を仰ぎ、人差し指で首筋を一度なでて、女性の方に向き直った。


「ほんとに、なんでもないんです。ただ、ちょっとした知り合いで、今日はちょうど会う約束があったから」

「ほうほう」

「ほら、トーミさんも持ってるでしょ? ヨリイエミュージアムの怪獣篇。あれの完品が見つかって」

「お宝ですな」


 きらり、と眼鏡が光り、丸い瞳が私にすっと視線をよこす。正確には、私の手の中にあった紙袋に。


「メルカリにでも出てた?」

「ネットじゃ無理ですね。商店街のリサイクルショップにあったって」

「それはそれは。リアルの店も甘く見ちゃいかんね」

「コレクターが手放すか亡くなるかしたんじゃないでしょうか」

「ありそ~。こないだもさあ……」


 ふたりの話は脱線をはさみながらしばらく続き、私はその間ずっと、所在なく突っ立っているしかない。ぎゅっと手を握りしめると、取っ手のひもの螺旋状の凹凸が、棒のように固く手のひらに押しつけられて、跡になりそう。

 仲のいい人たちが会話をしているそばで、声を聴いているのは、きらいじゃない。親しげな話し声や笑い声は波の音みたいで、触れているだけで心にやさしさが響いてくるようだし、その親密さのおこぼれを自分までもらえそうな気がするから。

 だけど、今日はなぜか落ち着かない。

 私は、音月さんの背中から視線をはずして、ギャラリーを見回した。展示されたイラストレーションは、下の方から冷えた色の光を浴びて、雑居ビルの壁に風船のように浮き上がって見える。


 ふと、1枚の絵が、目に留まった。

 少女の絵、といっていいのか、虫の絵、といっていいのか。はかなげに哀れっぽい表情を浮かべた少女の頭が、ダイオウグソクムシに似た甲虫の眼球の上あたりに、逆さまに張り付いている。少女の乾いた口からは、白くやわらかそうな幼虫が、死体の舌のようにだらりと垂れ下がっている。幼虫の背中が割れて、透明な羽が見えるのは、さなぎを経由せずに直接羽化しようとしているのかもしれなかった。

 さっき何気なく見ていたときには、過剰にリアルな細部ばかりが強調されて、グロテスクな印象だけが残る絵だった。だけど、こうして遠目に見ると、女の子の悲しみも虫の生命力も俯瞰できるように思えた。かえって、その小さな総体にこそ、生々しさが醸し出されていた。虫の節足の質感よりも、少女の肌のぱさついた荒れ具合よりも、羽からかすかに透けて見える少女の欠けた歯よりも、それらが混然として立ち現れるものだけがリアルだった。

 それは、喜びの絵だった。

 みにくさも、うつくしさも、すべてがごちゃ混ぜになっていても、それは自分自身だ。かなしくても、うれしくても、それは生きることの一側面だ。

 すべてを抱え込んで、そこに存在すること。

 そして、いつでも脱出可能であること。

 いつだって、私たちはここから抜け出せるのだということ。

 それが――


「真依」

「はいっ」


 ぽん、と背中をたたかれ、またしても私は間抜けな返事をしてしまった。「帰ろうか」と言われ、ふと気づけば、さっきの女性はもうそこにいなくて、音月さんは苦笑いのように頬をすこしあげて私を見ている。

 ふと目線をさっきのイラストに戻すと、そこには「SOLD」の札が貼られていた。


「……もしかして、音月さんが買ったんですか?」

「ん、ああ、うん」


 つい奮発しちゃった、お金もないのに……と、つぶやく声は、音月さんらしくない生活感がにじみ出ていて、私はなんとなく見てはいけないものを見てしまった気がした。


「売れるんですね、こういうのって」

「そのために展示してるのもある」

「はあ」


 絵の展覧会なんて、教科書に載ってるような芸術家の作品を並べてるようなものしか知らなかった。そういう絵はオークションで何十億という価格でやりとりされ、私たちの手には届かない。

 展示されているものがその場で売れるなんて、なんだか変な感じだった。


「真依が見てた絵も、買える」

「……見てたの、わかりました?」

「そりゃ」


 音月さんが苦笑する。どうやら、私はよほど夢中になっていたらしかった。音月さんは視線を巡らせ、絵を見つめる客や、談笑する人々のなかから誰かを捜していた様子だったが、すぐにあきらめて首を振る。


「ジギタリスさん、いるかと思ったんだけど。ちょっと見あたらない」


 ジギタリス、というのがアーティストの名前らしい。ペンネームというか、ハンドルネームというやつだろうか。

 ひょっとして、その人がここにいたら、直接話をして、本当にこの絵を購入することもできたのかもしれない。その想像は、ちょっと、私の手に余った。


「オーナーさんと話せば、購入はできるだろうけど」

「あの、いいですよ。そんなの。絵を買うようなお金なんて……」

「高校生なら、交渉次第でなんとでもなる。絵の値段なんて水物だし。私が口を利いても」


 そんなふうに親切にされても、私はやっぱり、怖じ気付いていた。そんな特別な体験を、私が得てしまってはいけない気がする。


「……いえ。そんな、奮発できないです」

「だらしないなあ」


 冗談めかした音月さんの声に、胸を突かれるような気がして、私は顔を伏せた。確かに、だらしない。命がけの戦いを繰り広げ、たくさんの死線を渡ってきたって、些細な無駄遣いをする勇気もないんだから。

 ごめん、と、音月さんがつぶやく。その声がかすかに遠く聞こえたのは、彼女がまた、天井を仰いで困った顔をしているからかもしれなかった。


「さっきの人、ネットに絵もあげてるから。ここ、見に行けば」


 音月さんはカードケースから1枚の名刺を渡してくれた。植物の葉を組み合わせたような背景に、文字がデザインされた奇妙な名刺の裏側に、QRコードが載っていた。スマホでアクセスできるそうだ。


「気に入ったらコメントだけでもしてあげたら?」

「……はい」


 そうするかどうかわからなかったけど、とりあえず、うなずいておいた。

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