第2話 キスマーク、スタンプ、ラテハート
「
下駄箱の前で、
シックな色合いなサコッシュと通学カバンを提げた彼女は、ひどく眠たそう。つやっぽい口元も隠さずに大きなあくびをして、革靴をいくぶん乱暴にげた箱に放り込む。今日はどうやら、よく眠れてない方の函名ちゃんのようだった。
私も「おはよ……」とぼんやり返事をして、そのまま函名ちゃんの横顔を眺める。今朝の函名ちゃんは、眠たげなわりにくっきりとした顔だ。目つきもいつもよりいくぶん大きく見えるし、肌だって張りがあって健康的な赤みを帯びている。
振り向いた彼女は、小首をかしげる。いつもほんのり笑みを浮かべたような顔で、彼女は問う。
「メイク、変?」
「そんなことないよ。似合ってる」
鈍い生活指導の教師にはばれない、けれどめざとい同級生なら気づくくらいの軽めのメイクだ。
函名ちゃんは、うれしそうに目を細める。
「
「……へえ」
はっとして、すこし間抜けな声が出た。そういえば、函名ちゃんのソックスは昨日と同じツートンカラー。きっと、サコッシュの中には昨日の下着が詰まっているのだろう。
笑美さんというのは、函名ちゃんが……つき合っている、女性のひとり。函名ちゃんには恋人……なのだろうか? 単に、その、アレする友達だといわれそうだけど……ともかくそういう関係の人が複数いて、月に何度かはそういう人の部屋から直接学校に来たりする。のんびりした大きめの動物のような見た目からは、そんな……なんというか、ただれた生活は想像もつかなくて、だからわかっているつもりでも、ときどき驚かされてしまう。
大人にメイクを教えてもらうと、ずっと上手にいろんなことを隠せるのだろうか。Youtubeのメイク動画で基礎を学んだだけの私には、よくわからない。
函名ちゃんはサンダルを履いて悠々と歩き出す。ぼうっとしていた私は一瞬出遅れて、彼女の横に並ぼうと早足に歩きだし、それに気づいた。
「函名ちゃん、首」
声が裏返ってしまった。え、と振り返る函名ちゃんに、私はあわてて自分のサコッシュから手鏡を取り出して見せる。
首筋の後ろ側、襟と肌の境目の目立たないあたりに、ほんのり赤いキスマーク。
「ありゃ。いたずら好きだなあ、もぉ」
函名ちゃんは吐息のような笑い声をこぼし、すっと人差し指で首筋をなでる。つややかで柔らかそうな彼女の小さな爪が、つかのま、ダイヤモンドのようにきらめく。白く光る魔法の粒子が、指先から首筋へと流れこんでいく。ひんやりした魔法の気配を感じた気がして、思わず私も首筋を手のひらでなでてしまう。
函名ちゃんの肌から、薄桃色の痕跡が消えた。
姿形を自在に操作する、とまではいかないけれども、かすり傷やアザを隠す程度なら造作もない。バンドエイドやテープを使うみたいに、私たちは魔法を使う。
なめらかな函名ちゃんの首筋を見つめながら、ふと口にする。
「メイクも魔法の方が手っ取り早い気がする」
「すこぉし手間をかけるのが、好きなの。丁寧に生きてるぅ、って感じ、するでしょ?」
「まあ、気持ちは解る……気がする」
「ねぇ?」
函名ちゃんのやわらかな笑顔は、すこしの丁寧さに支えられて、優しい。その丁寧さを、もう少し人付き合いにも向けるべきじゃないかなあ。なんて、それは、差し出がましいというものだけど。
教室に行くと、今度は、いつもと違う
「おはよー」
どちらの手にもスマホを持たずに、両手の指をひらひらと振って私たちにあいさつしてくる。いつもよりいくぶん顔色がいいし、きりっとした目もやわらいで、顔全体を覆う笑みはおだやかで優しい。今はネットを離れる時期、ということのようだ。
普段の玲蘭さんは、たいてい冷徹な無表情で、2台のスマホを両手で操っている。何かというと写メを撮り、動画を撮り、それをネットにアップして、なにやら数字を稼いでいるらしい。広告でお金が入ったり、ときには見た人からお金が送られてくるらしい。私はネットには詳しくないから、なんだかすごい世界なんだな、という感想しかない。
ネットを離れるのは、炎上? しているときなんだとか。今も、玲蘭さんに関わる何かが燃え上がっている、ということなんだろうけど、見た目にはむしろ玲蘭さんは元気そうだ。
「
「まーだ」
玲蘭さんはふるふる首を横に振った。
「ラインは?」
「既読もつかんよー。寝てるんじゃない?」
輝理ちゃんはだいたいにおいていい加減なので、朝は早かったり遅かったりするし、授業にも出たり出なかったりする。ある意味、私たちの中でいちばんだらしない。
未読ばかりの画面をスライドさせて、私は、すこし眉間にしわを寄せた。
今朝方、
やっぱり忙しくてスマホも見れなかったりするのだろうか。
スマホを介したつながりは、何かをすることで互いを確かめ合う場所だ。何もないことは、それだけでとても不安を駆り立てる。
「まよりん、ノート見せてくんない?」
玲蘭さんに言われ、私はつかのまの物思いから解き放たれた。カバンを開けて、午前の授業で使うノートを取り出す。カバンの中には教科書とノートだけ。ちゃんとノートを取っていれば置き勉でも充分だ。1年生のうちは、まだまだそこまで勉強に本気になる必要もない。
「解らないとこあったら、訊いてね」
「さんきゅーまよりん、頼りになる~」
「わたしも後でぇ」
「はいはい」
私と函名さんは、玲蘭さんの机の周りに陣取ったままゆるゆると会話を交わす。クラスメートが登校してきて、教室はだんだんにぎやかになり、私たちの声もその中に埋没し、ふつうの朝にとけ込んでいく。
昼休みになっても、輝理ちゃんは学校に来なかった。
「これは本日全休の予感がするねぇ」
お弁当を食べ終えた函名ちゃんの声はひときわのんきだ。1日学校に来ないのはそれなりに一大事だが、函名ちゃんも玲蘭さんも、私もそんなに心配はしていない。輝理ちゃんは気まぐれだし、成績優秀だ。学校のルールに従わなくったって、彼女は何でもなんとかしてしまうだろう。そう思わせるところがある。
「まだ寝てんかなー。起きたならひとことくれりゃいーのにねー」
「うん。私からもラインしてみようかな」
サンドイッチを食べ終えて、ナプキンで口元を拭いた私は、その手でスマホを取り出す。グループのページを開こうとしたところで、別の着信に気づいた。
音月さんだ。
何気なくページを開くと、写メが飛び込んでくる。
『かわい子ちゃん発見』
芝生の上に寝転がる猫の写真だった。背景のきらきらした水の流れは、おそらく
『今日は会社はいいんですか?』
返答はすぐについた。
『やめた』
「えーっ!?」
絶叫してしまった。玲蘭さんと函名ちゃんが目を見開き、私を見る。私は口をぱくぱくさせたまま、言葉にならない。手のひらの中のスマホが私の全身と一緒に左右に揺れて、今にも滑り落ちそう。
直後、音月さんの返答。
『ウソ 有休』
……もう。
ため息をつきながら、怒り顔のスタンプを送る。変に言葉をつけ加えたら、こじれちゃいそうだった。
だって、たまに話しかけてきたと思ったら、こんなつまらないウソをつくなんて。私、からかわれてるんじゃない?
一瞬の間があって、返事。
『なんでもない日に有休取るのは初めて』
『真依も来る?』
「いや、そう言われても……」
今度はちいさな声でうめく。ひとりごとの多い私をふしぎに思ったのか、函名ちゃんは眉を寄せて私の顔をのぞき込んでくる。
「どぉかしたの? 輝理ちゃん?」
「ううん、そうじゃなくて……」
「あ」
玲蘭さんがつぶやく。同時に、私と函名ちゃんのスマホにも着信がある。今度は輝理ちゃんからのメッセージだ。スワイプしてタイムラインを移動する。
輝理ちゃんからの写メに写っていたのは、見覚えのあるカフェのテーブルと、白いラテハート。
「お茶してんじゃーん、やりたい放題かよ」
「今朝は寒かったもんねぇ。気持ちわかるなぁ」
「ウチらも行こっか、ねー、まよりん?」
こちらを見つめる玲蘭さんの口元には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。どう見ても本気じゃなかった。函名ちゃんは、私の方を見もしないでお弁当の残りを口に運んでいる。
もちろん、私だってサボろうなんて思わない。もうじき授業も始まるし、せっかく教室のエアコンであったまったのに、わざわざ肌寒い外に出ようなんて……
と思ったところで、ふたたびスマホのタイムラインに音月さんからのメッセージが届く。写メに映っていたのは、カフェの店頭に置かれたブラックボード。本日の日替わりメニューの横に、変に特徴的な表情のネコが描かれて、オススメの品を指さしている。
直後に届いた写メは、店内の様子を映していた。広い窓のそば、いちばん明るいテーブルの前に、制服を着た女子の後ろ姿。
うちの制服だ。そして、こんな時間にあんな場所のカフェでくつろいでいる生徒は、たぶんひとりしかいない。
輝理ちゃんが、音月さんといっしょにいる。
「……そうね。行ってみよっか」
私がつぶやくと、函名ちゃんと玲蘭さんが、そろって驚きの顔を見せた。
当たり前だろう、自分でもすこし驚いたくらいなんだから。
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