若葉の街と、だらしない魔法少女たち

扇智史

第1話 夜、パン屋、花火

 放課後があっという間に夜に移り変わる。私はカバンを小脇に抱えて待ち合わせに急ぐ。

 秋が深まり、夜風は肌寒い。国道を急ぐ車のヘッドライトは、周囲を威圧するように白く強く光る。歩道にいても、すこし怖い。命の危険を冒すような機械を縦横に走り回らせてまで、急いで行かなくちゃならない場所なんてそんなにあるのだろうか。

 息を切らせて、心臓が高鳴るのを感じながら、足を早める。魔法は使わなかった。音月ねつきさんに会いに行くのはすこし勇気がいる。きちんと自分の足で歩いて、心を引き締めて、覚悟を決める必要があった。地面を踏んでいく自分の足取りはいくぶん重たく感じるけれど、頼もしくもある。

 冷えた空気、よそよそしいビル、空っぽの駐車場。

 そして、彼女。


「音月さん!」


 一拍だけおいて、黒沢音月さんは上向きだった目線をこちらにおろした。

 オフィス街の手前、通りの角に置かれた立て看板の前に、彼女は颯爽と立っている。短く切りそろえられた黒髪の下から、ルビーの色のイヤリングがちらりとのぞく。スーツのシルエットは細く鋭角的で、会社帰りと言うよりも、ランウェイを歩いてきたばかり、という方が似合う気がした。軽くひざを曲げ、パンプスのつま先をアスファルトの上で前後させる。右手の親指と中指で、お酒の缶をつまんでぶらぶらと揺らしている。つかのま、街灯の光を受けて、黒いアルミの缶が鋭く光った。

 じっ、と、音月さんの瞳が私をとらえる。見上げていた夜空の漆黒が、そのまま写りこんでいるみたいな色。

 真依まより、と、彼女の口が私の名前を呼ぶ。その声に、胸を押されたみたいに、私は足を止めた。踏み出しかけた右足がぶらりと揺れて、私はわずかに体を左に傾けた。

 笑顔を作り、口を開いて……

 何を言おうとしたんだっけ。


「……こんばんは」


 当たり障りのない言葉が、口からこぼれた。


「うん」


 音月さんはうなずいて、レモン色の缶を口に運んだ。お酒なんて呑んだことはないけれど、彼女の白いのどがかすかに脈打ち、冷たいアルコールの流れていくのを眺めていると、私自身までほろ酔いになったような気分。

 夜景がおぼろげになって、音月さんの姿だけが露わになっていくような。

 口元から缶を話して、音月さんが私を見つめる。こちらが何か言うのを待っているかのような視線。私はどぎまぎと、思いついた言葉を口にする。


「ごめんなさい、待たせちゃいました?」

「いいよ、そういうの別に」


 どことなくズレた、会話になっていないやりとりだった。私はすこし悲しくなる。たしかに私の言い方も通り一遍のものだったけれど、それにしたって。

 カバンを抱える腕に力が入る。音月さんはつかのま暗い空を見上げ、それから、すっと足を踏み出した。


「行こ」


 そう言って、彼女の右手は缶を無造作に投げ捨てる。


「あ」


 かちん、と、ビルの壁に缶が当たる。


 跳ねた缶は、つかのま空中でくるくると回転する。それから、時間を巻き戻すみたいに、山なりに弧を描いて音月さんの右手へと舞い戻る。

 こつん、と、音月さんの手の甲に、缶がぶつかった。

 捨てたはずのものに仕返しされた音月さんは、ひどくびっくりした顔で右手に目をやり、それから私の方へ振り返った。

 私は、すこし首を傾げて、あいまいに笑う。

 胸元で広げた左手は、音月さんの方に向けたままだ。四本の指先のまわりを、青い魔力の光がちらちらと虫のように浮遊している。レモン色の缶は、音月さんの手元でいつまでも回転し続けていた。


「ゴミは、ちゃんと、」

「……マジメだね、真依は」


 言い掛けた私に、音月さんは苦笑して言った。そんなつもりはないんだけど。ただ、自然に手が出ちゃっただけで。


「……ごめんなさい」

「なんで謝るの」

「いえ……」

「悪いことしたのはワタシの方だし。真依は堂々としてれば」

「はあ」


 そう言われても、音月さんの前に立つと、つい萎縮してしまう。だって、私は彼女とうまく友達にならなきゃいけないんだから。

 でも、7つも年の離れた大人の女の人と、うまく友達になるのってどうすればいいんだろう。

 音月さんは、空中の缶を右手でつかんで、歩き出す。数歩のちに、彼女はそれを、自動販売機の脇のくず入れに捨てた。一連の無駄のない仕草に見とれて、私はすこし、歩き出すのが遅れた。



「パンを買おうと思って」


 音月さんは、突然の呼び出しの理由をそう説明した。


「パン、ですか」

「このへんに、おいしい店があって。でも、7時半で閉まっちゃうからなかなか買えないわけ。休みもなかなかかぶらないし」


 今週も仕事がみっしり詰まっている予定だったから、買うのはあきらめていたらしい。でも、クライアント側の都合でスケジュールが延び延びになって、珍しく定時帰りできるタイミングができた、という。


「せっかくだから買いだめしとこうと思ったんだけど。バゲットが1人1限で」

「……で、私が呼ばれたわけですね」


 つまり私は、パンを買うための予備人員なのだった。

 ずっと前を向いて話していた音月さんが、斜め後ろの私に振り向いた。道の前方にうっすら立ちのぼる店の照明が、音月さんのぎこちない横顔を夜の中に浮き上がらせる。


「お礼に、今度サンドイッチでも作るよ。とびきりのバゲットで」

「音月さん、料理なんてするんですか」


 つかのま、音月さんはちょっと傷ついたような顔をした。はっ、と私は口元に手を当てる。料理もできないぶきっちょだとか、そんな当てこすりに聞こえちゃったかも。


「すみません、そういうつもりじゃ……ただ、お忙しそうで、料理にとれる時間なんてなさそうだから……」

「実際ほとんどしないんだよ。料理」

「……はあ」

「ただ、サンドイッチは好きなんだ。簡単だしね。トマトとかレタスとかチーズとかオイルサーディンとか、そんなのばっかり冷蔵庫にたまってくよ」


 音月さんの苦笑は、まだどこか硬い。私も、どう応じていいのか解らなくて、なんとなく顔の筋肉をゆるめる。笑っているように見えただろうか。夜の淡く硬質な光の中では、相手の微妙な表情がうまく届かなくて、どうしても不安になる。

 でも、音月さんが自分の部屋の中の話をしてくれたのは、これが初めてだ。

 前方から、香ばしい空気が漂ってくる。淡い色の看板の下、パン屋の明かりが、旅人を待つ宿のように夜の中に浮き上がって見えた。



 紙に包まれた2本のバゲットと、それから朝食用だというパンをいくつか。音月さんはビニール袋にそれらをまとめてから、くるみパンをひとつ、私の方に差し出した。


「お礼」

「……ありがとう、ございます」


 頭を下げ、私はビニール袋で保護されたくるみパンを両手で受け取る。閉店間際とあって、焼きたてとはいかないけれど、まだほんのりと熱を持っているような気がした。

 すたすたと歩き出して、音月さんはベーコンと茄子とチーズのパンを片手で口に運ぶ。


「お酒の後は、塩味がうまい」


 ひと口食べてから、そんなことをうそぶき、またひと口。早足で歩くリズムに合わせ、ギターでメロディを刻むような、彼女の仕草。咀嚼し、歩き、ビニール袋を抱え直す、すべての所作が音楽になる。暗く沈んでいく夜の中で、音月さんだけが、特別なカメラでフォーカスされている。

 私も、いつもより急いで歩く。彼女を追いかけるように。

 足下が重たくて、じれったい。


「あっ」


 あわてたつま先が、アスファルトに引っかかった。上半身がぐらりと傾き、反射的につきだした両手からくるみパンがこぼれ落ちる。

 とっさに、魔法をかける。


「ひゃっ!」


 正面からアスファルトの上に倒れた。みっともない前受け身のおかげで、かろうじて顔面直撃はまぬがれたけど、路面に押しつけられた両手がじんじんと痛む。髪がべったりと、アスファルトの上に広がっている。


「……ごめん」


 音月さんの声がする。

 顔を上げると、音月さんは、左手をぼんやりと宙に漂わせたまま私を見下ろしている。

 彼女の手のすぐそばで、魔法の光に包まれたくるみパンが浮いていた。私の魔法は、自分の体は守れなかったけれど、くるみパンの方はちゃんと保護できたらしい。


「真依、自分をかばうと思ったからさ。パンを守ろう、ってなって」


 ばつの悪そうな表情をして、音月さんはひざを曲げて私の方に手をさしのべる。私も、たぶん似たような顔をしていただろう。ほっぺたがひきつっていた。こけた痛みなんか感じなかったけれど、胸の奥のかすかな重みにひきずられているるみたいだった。

 かみ合いませんね、という言葉が滑り出そうになって、必死に飲み込んだ。

 それを口にしてしまったが最後、この夜が終わってしまうような予感がした。ずっとちぐはぐだったやり取りを、どうにかごまかして、やり過ごして終わらせたかった。

 そうでないと、友達になんてなれなそうだったから。きちんとかみ合った会話をして、流れるように言葉と表情をやりとりするしか、友達になる方法を知らない。


「……ありがとうございます」


 それだけつぶやいて、私は音月さんの手を取る。爪はきれいに磨かれているけど、指先はちょっと硬くて荒れている。握るだけで、疲れが指に出ているのが解る。日がな一日PCと向かい合う仕事だから、指と目は酷使するのだろう。マウスを押さえる中指の付け根が、ひときわ強く荒れているのがわかった。

 作り笑いを浮かべながら、身を起こした。ぱっ、ぱっ、と手のひらの砂利をはたき落とし、空中に浮かんだままのくるみパンをつかむ。

 私を見ないようにするみたいに、音月さんはぼんやりと夜空を見上げている。その横顔は、夜にまぎれて、表情が解らない。


「あ」


 音月さんの口から、ふと声がこぼれた。上を向いたままの彼女の声は、あいまいに震えた。

 私も、予感に引き寄せられて、顔を上げる。


 世にも美しい魔法少女が、夜空のど真ん中で笑っていた。


「あ、真依ちゃんだあ!」


 真っ赤なリボンでサイドテールにした金色の髪。色とりどりのフリルと細いリボンで飾った赤と白のワンピース。袖は蓮華の花を思わせるペタルスリーブ、ひざ下丈のスカートの奥はレイヤードフリルのペチコート、足下は分厚くて力強い真っ赤なブーツ。右手にはビーズとジュエルで飾ったステッキ、左手にはシールでデコったコンパクト。そして、唯一飾り気のない笑顔。まん丸に広がった、すこし赤みの混じった瞳が、夜空の真ん中で燃えている。

 手足を大の字に広げて、輝理きりちゃんは、花火のようだった。


「輝理ちゃん、どうしたの?」


 私は夜空に問いかける。何かあったのなら、私も行かなくちゃ。

 でも、輝理ちゃんはぶんぶんと首を振るだけ。サイドテールの髪が激しく揺れる。何の支えもなく、つり下げられるでも、足下を床につけるでもなく、彼女はただあるがままに振る舞う。

 空を自由に飛ぶ姿こそ、彼女の自然だと言わんばかりに。


「なんでもなーいよ。ただ、思い切り飛びたくって」


 一緒に来る? と誘うような輝理ちゃんの笑顔に、私はゆるい微笑みで応じる。


「気持ちよさそうね」

「うん! じゃね!」


 私に手を振り、音月さんの方に赤い瞳を目配せし、輝理ちゃんは手足をでたらめに振り回しながら夜の中に飛び出していく。泳いでいるのか、つかんでいるのか、蹴っているのか、走っているのか、どんな形容も似合わないむちゃくちゃな動きが、彼女にとっていちばん自然な空の飛び方で、なのに彼女は私たちの誰より速く飛ぶ。

 流れ星みたいに、輝理ちゃんは夜の中へと消えていく。その勢いはむしろ嵐だ。ものすごい力であたりをなぎ倒し、片づけもせずに突き進んでいく。

 魔法少女になったことで、ようやく輝理ちゃんは胸の内の思いに見合ったエネルギーを得たのかもしれなかった。


「よかったの?」


 音月さんが、私を横目で見ながら訊ねる。右手の上にパンを載せ、左手を落ち着かなげにぶらぶらとさせている。さっき捨てたチューハイの缶を探しているみたいにも見えた。

 彼女のつま先が、くるくるとアスファルトの上で回っている。歩き出していいのかどうか、迷っているみたいに。

 やっぱり音月さんは、まだ魔法少女のことがすこし苦手らしい。ほんの数ヶ月前には敵だった相手だ。ことと次第によっては音月さんは、”最悪のリガ”として私たち魔法少女と死闘を繰り広げるはずだった。殺し合いを避け得たのは、輝理ちゃんを初めとするみんなの頑張りのおかげだ。

 魔法少女を戦わせていた妖精のたくらみを出し抜き、宿敵となるはずだった相手とも和解し、ささやかで平和な日常を獲得した。こんな静かな夜に、香ばしいパンのにおいをまといながら、音月さんと2人で歩けるのも、みんなのおかげ。

 その代償として、私は音月さんと友達にならなくちゃいけない。

 そして音月さんは、まだ、この平和な夜に慣れていないのかもしれなかった。


「あの子につきあってたら朝になっちゃいます」


 ちいさく笑って、私は、ビニールに包まれたままのくるみパンを両手の親指でもてあそぶ。こんがりと焼かれた皮の下にあるやわらかな生地が、私の指先を押し返してくる。その奥にあるくるみの粒のことまでは、私には解らない。

 キャッチボールでもするみたいに、パンの重心を両手に交互に載せて、そのまま持って行く。


「私、夜は早い方で。8時ぐらいになったらもう眠くなっちゃうし、9時にはベッドの中で」

「それは……つき合わせて悪かったかな」

「そんなことないです。このくらいの散歩なら、なんてことないですから」


 言われるのが予想できていたから、すぐに答えを返した。どうせこれから帰宅したって8時すぎくらい、宿題やって、明日の準備して、身の回りを整理して休むには十分な時間だ。

 音月さんは、視線を夜空にしばらくさまよわせていたけれど、やがて、すたすたと歩き出した。私は半歩後ろから追う。

 街灯の光はすこし遠くて、私たちの足下はいまひとつはっきりしない。音月さんはなんでもないようにすたすた歩くけれど、私の歩みはどこか、おっかなびっくりだ。

 静かな夜に慣れなきゃいけないのは、私も同じかもしれなかった。

 音月さんは、右手にした塩辛いパンをかじって、かすかに表情を変える。微笑みにも、不快感にも、何にでも見えるあいまいな夜の表情だ。けれど、その仕草も、シルエットもすらりと鋭くて、闇の中にひときわ色濃く浮かび上がる。輪郭線もないのに、夜の底にいっそう力強い彼女の影は、油断すればあっという間に遠ざかる。

 私は、それをいくぶん早足に追う。


「早すぎた?」


 悪びれない彼女の声に、なぜか、妙に胸が躍る。笑いをこらえるみたいに、私は答えた。


「……大丈夫です」

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