8.

 非常用の脱出艇には、生活できる一通りのものが揃っている。数日なら暮らしていける。ただ、実際の非常時に使ったところで、気休めにすらならない。地球から、最高速の反水素船でも十年もかかる場所だ。とても帰れないし、救助も待てない。安楽死用の薬が備えてあったりするぐらいだ。簡単な観測機器や通信機器もある。ただもちろん、超光速通信ではない。ここからの電波が地球に届くとしても、七ヶ月後だ。早苗は脱出艇に乗り込んだ。止められないうちに出ていく。超光速通信が実現した今、地球からでもコーネルのあらゆるコントロールができるはずだ。観測だろうが、突入だろうが、帰還だろうができる。主要なユニットを接続し、その準備をしてきた。準備をしたことと、自分が旅立つことは、タイマーで数時間後に伝えられる。そのころにはもう、自分はコーネルにはいない。

 未練はない。船は狭すぎたし、孤独すぎた。地球と通信ができるようになったところで、何も変わらない。佐伯は最後まで他人行儀だった。必要以上に親しくしなかったのは、今この時のじゃまになることを恐れていたのだろうか。会えるか分からない竜也より、今この世界を生きている自分を選ぶかもしれないと。まさか。むしろカラスの方に少し未練がある。あの存在は、生きていると言えるのだろうか。ちゃんと会話していたし、記憶もしていた。いい友達だったと思った。でも、あの状態は、テラというシステムが動いている間だけだ。それ以外の時は止まっている。テラは停止させてある。何十年後あるいは何百年後にいきなりテラを再起動しても、カラス自身が感じている時間は前回停止の時から持続している……なんて、想像もつかない。永久に起動しなかったら、いつ死んだといえるのだろう……だから、生きているわけではないんだ。あのような存在なんだ。

 脱出艇がヤヨイに向けて出発した。ゆっくりとうごめくまだら模様に向けて、まっすぐに動き始める。ヤヨイはもうすぐそこだ。


 どう感じるか、ということが真実を示す。早苗はあるものを思い出していた。軌道エレベーターの搭乗口にあった絵。山吹妃紗の絵だ。立ち並ぶ樹木。まるで寄り添うかのように林立する樹々は、様々な形状ながら、枝の分岐には堅い法則があった。必ずどの部分も二つに分岐している。枝の一本が一本が、分裂していった一つの世界である。必ず二つに分かれているのは、それがやがて、無限に達した時に、消滅するものだからだ。


 1+2+4+8+……∞=-1


 生命……それは生命とも呼ばれる。生物だけではない。誕生から死を持つ全ては生命であり、全ては多世界に分裂する。その仕組みは、セルオートマトン。一つ前の瞬間が、次の瞬間を生み出していくもの。

 生命の誕生は、一つの意識的な行いだった。それは、この世界というセルオートマトンに、エデンの園配列という、決して計算途上には生まれないものを配置することだ。それが分裂して、成長していく。一つの樹木のように。


 早苗は今や一つの樹だった。そして気がついた。早苗は脱出艇には乗っていた。しかしまだ乗っていない自分もいた。結局乗らないで、通信と観測を続ける自分もいた。そして竜也を失っていない自分も。分裂していった世界が見え始める。ただ、全てが見えるわけではなかった。分裂は高次元方向に有限の距離を持っていて、今の自分から遠い分裂は見えない。うっすらと感じるだけだった。見えない遠くには竜也と出会わなかった自分や、佐伯と結ばれた自分もいると分かった。全ては根元からつながっている。樹木のように、選択の枝を分岐させ続け、ここまで成長してきた。人は皆、命は皆、一本の樹だ。

 そして世界は、樹々のように。

 すべては、樹々のように。

 すぐ近くに竜也がいた。話しかけたかった。自分は竜也を失ったはずなのに、話しかけるのは変だと思った。しかし失っていない自分とも一体となっていたので、変であるはずもない。自分は分岐していった枝の一つではあるが、樹木としての認識を獲得した以上、もう枝の一つである必要はないはず。自分は一本の樹だ。

「竜也……」

「何だ?」

「よかった、生きているのね?」

 表情が視覚的に分かるわけではないが、竜也が苦笑するのが分かった。

「慣れないもんだな……自分が『すべて』になるには、まだまだ時間がかかる。やっと近くの分裂がまとまり始めたところだな」

「私は、今ぐらいの方がいいわ。遠い分裂には、あなたがいなかったり、別の人がいたりするもの」

「それはそれで、向こうの方も同じことを考えているかもしれないね。それにしても僕が死んでしまった君の世界がこんな近くにあるとはね」

 全く逆の会話を、同時にしているのが分かった。早苗が死んで、竜也が生き残った世界もあった。その世界では、宇宙空間の氷の粒が、早苗がいたユニットを撃ち抜き、体を貫通して即死させていた。その世界に独りでいた竜也は、早苗との再会を喜んでいた。複数の自分が複数の会話を同時にしていて、それが不自然ではなかった。

 寄り添った樹々の、枝同士が触れ合うようなもの。樹々は世界に生まれ、成長を続ける。ふと気がついたが、枝同士が触れ合っていると見えるところは、何かのエネルギーを出しているようだ。光が灯っているような感じだ。無数の樹々と、灯る光が点々としていて、美しく感じられる場所でもあった。

「ずっとここにいたいわ……帰りたくない」

 竜也に再会したことで、早苗は安堵していた。また独りに戻るなんて考えられない。

「僕もそう思う。いることはできるよ。ここにも寿命はあるけどね。世界の分裂が無限に達した時、僕達の命は消滅する」

 枝は様々に延びるが、やがてはどの枝も死を迎える。

「無限に達するなんて、無限の時間がかかるんじゃないの? でも人間の寿命は限られているわ」

「本来、うまく代謝をすれば、永遠の命を持っていても不思議じゃない。あらゆる細胞は入れ替わっているからね。でも寿命があるのには理由があるんだ。見えるか?」

「何が?」

 見えるかと言われても、早苗はまだ慣れていない。正確に言うと、慣れている早苗も多世界のどこかいるが、それとまだ融合できていない。

「世界が分裂する様子っていうか、時間軸にそって見てごらん。分裂は加速度的にその数が増えている。つまり比例的じゃないんだ。時間軸上に無限に達する漸近線がある。そこまでの寿命を、僕達は与えられているんだ」

「与えられている? 誰に?」

「それは分からないな……ただ、上を見てみて」

「上? 上ってどっち?」

 こんな高次元の環境でいきなり上と言われも分からない。

「そうだな、時間軸の向こうだ」

 早苗はそのように意識を向ける。何かが見えた。それもかなりの数。こっちを向いている。

「誰? 何……? あなたもあれを見ているの? たくさんあるみたいだけど」

 先端が鋭い針のようなものが無数に並んでいて、自分達のほうを向いている。

「あれらはこっちを狙っているみたいだ。どうも僕達が何かを生み出して、それを吸い取るか、突き刺して刈り取ろうとしているように見える」

「私達が何を生み出せるの? ……もしや」

 あのエネルギー? 

「ねえ、樹々が触れ合った場所、光が灯っているでしょう? 何の光だろう」

「愛の光かな」

「まさか……そうなの?」

 早苗は笑ったが、笑いが通じているのかよく分からない。愛の光という言い方は悪くはないが、何かしっくりこない。愛が光になるなんて、ファンタジーじゃあるまいし。

「そうだな、他より分裂が高密度なんじゃないかな。命と命が関わると、つねに駆け引きをしている。それだけ選択と分裂の数が多いんだ」

「うん、その説明のほうが、まだましかな……」

 とはいえ、愛の光も悪くはないと思った。

「僕だって分からないことが多い。いや、分からないことだらけだ」

「ねえ、これからどうする? 私、戻るのは嫌よ」

「新しい生き方を考えなきゃ。時間はいくらでもある……いや、時間さえも高次元要素の一つだから、越えることができる。でもそうなると、今ここで流れている時間は何だろうな……ちゃんと経過している感じがする」

「そうね……でも流れていると思っているだけかも。実際、時間なんていうものは、今までだって、流れているというものじゃなかったんじゃない?」

「へえ、どうしてそう考えるんだ?」

「私は見たのよ。あなたは見なかった? 世界がセルオートマトンだって。ステップはあるけど、流れている時間はないわ。今まで時間だと思っていたものは、全てステップの更新なの。だからここも、高次元であっても仕組みが同じなら、私達は普通に時間が流れているように感じると思う」

「なるほどね」

 早苗は、自分がかつてできなかったことが、今ならできると思った。

「ねえ私、子供がほしいな。どこかの世界には、子供が産める私がいるはずよ」

「そうだな……そんな自分を含む世界を統合していかないと」

「あるいは時間軸のどこかに、私達を残していくの。それは一つの樹になって成長するわ」

 ヤヨイに取り込まれた脱出艇の中で、早苗の体は滅んでいく。高次元に拡張された意識は、もう肉体には存在しない。いや、もともと量子的な存在、量子レベルでの進化と淘汰を繰り返した結果である意識や自我というものは、体に構築されていたわけではない。高次元に存在する樹として生きていた。

 その自覚が新しい生き方だった。

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