7.
コーネルの減速と軌道修正が終わり、コーネルはヤヨイの周回軌道に入った。ヤヨイの大きさは太陽の約七倍。モニターいっぱいにまだら模様の円形として映し出されている。これだけ明瞭に見ることができても、曼荼羅と同じものというだけで、正体が何か早苗には全く判断がつかなかった。そもそも、まず球形のものかどうかすら分からない。どの方向から見ても、円形に一様なパターンが広がっていて、視覚的には球ではなく、宇宙に開いた穴のようで、穴の向こうにまだら模様と増殖する白い光のパターンがあるように見えた。ヤヨイの周囲を周回しても、常にこちらに向けてパターンが見えている奇妙さがある。コーネルから様々な測定装置をヤヨイに向けた。光学式望遠鏡でまだら模様を拡大してみる。すると、一様な曲線に見えていた部分も、さらに細かく複雑な曲線のパターンで作られているのが分かった。拡大すると、パターンの中にさらに相似形を思わせるパターンがある。フラクタルだと早苗は思った。全て自己相似形でできているのだ。まだら模様は、有名なマンデルブロ集合のように、無限の複雑さを持っているかのようだった。明るい光の部分は、分裂して増殖する微生物のようで、その光もまた一つの光点ではなく、何かのパターンを持っていた。装置での観測では、どの光も星の光と同じスペクトルを持ち、多様性を持っていた。宇宙に見える星の光を集めて、模様にして見せているようだった。
早苗はふとひらめく。実際そういうものではないだろうか。ヤヨイに実体があるわけではなく、背景の星の光が複雑に屈折した結果、うごめくパターンを見せているだけで、ヤヨイそのものは向こうが見えるレンズのようなものではないだろうか。それにしても、全天の星より遙かに明るい天体になっている。光が増強されているのだ。それに、パターンが動いているので、屈折だとしても何かの仕掛けがある。ヤヨイは重力を持っているから、質量があり、何かの物体には違いないはずなのだ。
コーネルは様々な測定器を搭載した無人観測機を三つ持っている。近々ヤヨイに向けて撃ち出し、実体に激突するまで観測を行う予定だった。
早苗は人工重力のユニットを抜け、無重力状態で窓から直にヤヨイを見てみた。実際の光量では眩しすぎるので、窓にフィルターをかけてはある。ヤヨイを周回しているはずだが、常にパターンがこちらを向いているので、全く実感がない。窓の外に巨大なまだら模様の円形がある。宇宙空間にある巨大な曼荼羅と対峙している感じだ。しかも自分は無重力の中を浮遊している。まだら模様はゆっくり動いている。見ていると奇妙な、何とも言えない気分になってくる。何か自分の身体が重くなってくるような、自分というものの存在、あるいは密度が増えてくるような奇妙な感じだった。そして突然、人の気配を感じて、思わず周囲を見回した。
「誰?」
声に出したが、誰もいるわけではない。ただ、誰かいるとすれば、思い当たるのは一人しかいない。
「竜也……そこにいるの?」
最初はひどく不気味に感じたが、次第に慣れてくるのが分かった。気配がなくなったわけではない。何かが近くにいる。それを受け入れ、それが本来あるものだということも分かってきた。そして、それを自分に分からせた誰かがいるということも。それは自分の一部、いや自分の傍らにいる自分自身だと感じていた。
早苗は自分に何が起きたのが、うっすらと分かってきた。佐伯が万界散華で得たもの、あるいはカラスが身につけていた能力が、自分にももたらされてきたのだ。まるで自分の身体に染み込むように。それは分裂していく多世界の把握だった。分裂したどこかの世界では、竜也が生きている。そこにもコーネルがあり、竜也を失わなかった自分がいて、竜也もそこにいる。そして、その世界の自分もまた、この世界の自分を把握している。だから、竜也を失った自分を支えようとするが分かるのだ。
ただもちろん、別の世界の自分や竜也とコミュニケーションができるわけではない。把握できたからコミュニケーションができたような気持ちになっているだけだ。つまり、自分なら別世界の自分を支えてあげる、ということが、自分自身であるゆえに確信を持っているということ。
早苗は、しばらくこの自分に浸ってぼんやりしていて、グラスのコールサインに気がつかなかった。ふと気がつくと、グラスにアラームが点滅していた。メールでも来たのだろうか。誰かの七ヶ月前の言葉が今届く。アラームを開くとメールではなかった。超光速通信ユニットからの呼び出しだった。装置はまだ送受信できる状態ではないはずだが。
早苗は超光速通信のユニットまで行って驚く。ディスプレイには見慣れない呼び出しのサインがついていた。まさかと思う。地球から「今」呼び出されているのだろうか? タッチパネルでサインに応える。
「こちらは地球、宇賀神早苗、聞こえるか?」
「クリストファー! ……コーネルの早苗です」
答えてから、もしかして一方的な通信ではないかと思ったが、そうではなかった。
「こちらも聞こえる。成功したようだ」
「会話できるの?」
「できますよ! 早苗さん、ごぶさたしてます。佐伯です」
佐伯の声だった。他にも何人か、スタッフが挨拶してきた。早苗は思わず涙ぐんだ。
「すごい……成功したんだ。でも、装置を起動させた覚えはないわ。どうなっているの?」
「待機状態にはなっていたはずだ。遠隔で普通に呼び出せる。減速した頃だと思って呼び出してみたんだ。何しろ通常の通信では七ヶ月前の様子しか分からないんでね」
「因果律は壊れないの?」
「移動の相対速度が光速に近づけば影響は出る。ヤヨイは地球から離れていってはいるが、因果律に大きく影響はしない。影響があったところで、多世界に分裂していればパラドックスに陥ることはない……佐伯の説明によればね」
実際、全く影響がないわけではなさそうだ。
「それより、ヤヨイの様子を教えてほしい。こっちにある情報は、まだ極軽量無人観測機のままなんだ。ホットな情報がほしいね。データもこのシステムを使って送れると思うんで、それはあとで指示する」
クリストファーがヤヨイの印象を訊いてきたが、早苗としてはこれだけ近くにいてもなお正体に近づけない。見た目の印象は伝えたが、万界散華も曼荼羅の話もしなかった。どこから見ても同じパターンであって奇妙な印象であるという話はした。集積させた星の光であると。クリストファーがまだあれこれ訊いてくるが、彼の言葉を聞いている早苗は何だか落ち着かなくなった。
「クリストファー……あなた、何か体調が悪いの?」
「どうしてだ? 悪くないが。声がおかしいか?」
「いいえ……何ていうか。うまく説明できないけど、そんな気がするの」
「気がするとは、早苗らしくないな。僕はいたって好調だよ。それより、ヤヨイへの無人観測機はいつ撃ち出す予定になっている?」
「何事もなければ二日後よ」
「楽しみだな。いよいよ中に突入というわけだ」
「そうね……」
早苗は、観測機でも何も得られないような気がしていた。
それからクリストファーとの会話を終え、佐伯とデータ通信について話し合った。明るい口調だったが、感情のこもらない、事務的な口調だと思った。
データ通信で写真も送られてきた。スタッフ一同、声は変わらなかったが、こうして見ると十年の年月を感じさせる。自分の写真は送りたくないと早苗は思った。老け込んだイメージに書き換えられるのは気が進まない。でも、送ってしまった。
あらためて写真を見ていると、奇妙なことが起こるのに気づいた。時々、一瞬焦点が合わなくなる。何か目の調子が悪いのかと思ったが、それにしては妙だった。写真の中の人物だけが輪郭を失うのだ。背景にある、壁や窓や、室内にあるものには変化がない。薄気味が悪くなったと同時に、これも自分の変化の一つだと思った。命は多世界に分裂してゆく。それが視覚的にも分かり始めているのだ。
それから二日後、無人観測機一機がヤヨイに向けて撃ち出された。地球からの超軽量無人観測機では、光学的な姿をとらえるぐらいしかできなかったが、ここから撃ち出す観測機は様々な観測機器を積んでいる。磁気、温度、大気があった場合の組成、可視光線、紫外線、赤外線の測定など、一般的な惑星観測と同じような機器類となっている。地表がある場合も想定して距離センサーも積んでいる。ただ、推進力はほとんどないので、地表があった場合は激突する可能性もある。
観測機は数日でヤヨイに到着した。観測データにあった変化は光を始めとする電磁波の増加だった。距離は特定周波数の電波を発信して測定するが、特に地表のようなものは見られない。光学カメラが周囲の様子を送ってきたが、ある地点から、いきなり画面がコーネルから見ているような複雑なパターンで埋め尽くされた。コーネルから見ているよりも、かなりパターンが密で明るいようだった。
大気関係の観測値は全く変化がなかった。ヤヨイの構成は気体ではない。これは早苗も予想はしていた。表面に決まったパターンが見え、観測機からもパターンが見えるということは、光が拡散しない、つまり気体ではないはずだ。気体が存在しないという予測は、超光速で届けられたヤヨイの最新映像を見た研究者からも出始めていた。地球圏では超光速通信実現のニュースと併せて、再びヤヨイとコーネルが注目され始めていた。また人工物体であるに違いないという推測も再燃していた。議論の様子は逐一届けられた。タイムラグがないので、すぐに分かる。ここ十年間、感じたことのないせわしなさだ。
観測機はさらにヤヨイの奥へと進んでいったが、観測値にもカメラにも変化が見られなかった。表面も奥も全く同じような場所なのだ。
むしろ驚くような変化があったのは、ヤヨイ自身だった。観測機到着の前後にヤヨイの円形の中心部分に、光のパターンが発生し、分裂していった。今まではよく見ていれば動くというものだったが、それに比べると異様に早い分裂だった。それは二分裂を繰り返し、ヤヨイ全体に広がっていく。ここで気がついたのは、コーネルはヤヨイを周回しているはずなので、ヤヨイが球形で、その表面に光のパターンが発生した場合は、それがコーネルの移動とともに動くか、または向きを変えるはずなのだが、他のパターンと同様、常にこちらを向いている状態で分裂を繰り返していた。もう明らかに星ではなく、何かの現象か、装置のようなものだと早苗は感じていた。数時間で光の分裂はヤヨイを覆い尽くし、全体が白く輝いた後、一気に消滅した。その後は円形の暗黒が広がっている。観測機はまだヤヨイの中にいたが、驚いたことに、ヤヨイの光が消滅したのに、送ってくる観測値やカメラ映像にはやはり変化がなかった。コーネルからは暗黒に見えていても、観測機自身はまだ光の中にいるのだ。
ヤヨイの表面はしばらく暗黒だったが、転々と細かい光が現れ始めた。それはパターンを作っていく、今までと同じ、何日もかけてやっと動いているのが分かるようなパターンだった。数日後にはヤヨイは以前と同じ状態に戻った。観測機は存在していた。電磁波はヤヨイに入る前と同じになっている。カメラの映像に映っていたのは宇宙空間だった。反対側から抜けたのだ。これは想定外だった。結局ヤヨイの中に物体が何もなかった。たまたま何もない所を抜けた可能性もなくはないか、確率としては低いと思われた。
観測結果は超光速通信を用いてリアルタイムで地球圏に届けられている。その結果に議論が沸騰していたが、誰もが納得するような説明は出なかった。
早苗はその時眠っていたが、コール音で起こされた。何か緊急の事態が起きたかと思ったが、船内に異常はなかった。コール音は超光速ユニットからだった。行ってみると、呼び出しのサイン。そういえば、地球との時差がどれくらいあるかを伝えていなかった。こちらは夜という設定時間でも、地球は普通に昼かもしれない。サインに応える。
「こちらコーネル、今、真夜中なんだけど」
「知っています。船内時間はちゃんと把握しています。こちらも夜ですよ」
その声は佐伯だった。声の様子からして、プライベートな通信だという気がした。
「何なの? 何かあったの?」
「先日、クリストファーの調子が悪いのかとか言いましたね。実はアドリアンが重い病気で、思わしくないんです」
「アドリアン……ああ、確かクリストファーの助手ね」
「そう、今はもう助手じゃない。クリストファーのパートナーです。一緒に生活している」
「それが重い病気なの?」
「はい。あなたはクリストファーに、何か普通でない印象を持ったはず。多分、私と同じものを持っています」
同じものを持っているという言い方が気になる。どういう意味だろう。
「クリストファーはつまり、誰が見ても分かるほど気が気じゃない感じなの?」
「そうではありません。彼は非常に精神力が強い。見かけは変わりません。気がつかない人がほとんどです。でも、あなたは気がついた。もうその力を持っているわけです」
「何の力ですって?」
「ヤヨイを見たでしょう。それであなたに変化が起きた。違いますか?」
何か言い当てられている。佐伯がヤヨイについて何か隠していると思い、気が立ってくる。
「確かに、妙な変化は起きた気がするわ。前に聞いた多世界のことかもしれないんだけど。はっきりは分からないの。あなたはヤヨイのことをまだ何か知っているのね? 曼荼羅のことはクリストファーにも言ってないし、議論にも持ち出していない。私では説明できないし……あなたは何を知っているの? あの正体が何か分かっているんじゃないの?」
「推測もありますが、だいたい分かっています。あれは『格納されていない高次元』です」
「……いったい何? それは」
宗教らしくない言葉だ。
「知っての通り、超弦理論から、この世界は十一次元だと分かっています。そのうち目に見えるのは三次元、もう一つは時間、余剰次元は量子のレベルで小さく格納されています」
「目に見えないスケールになっているということね」
「しかしヤヨイは格納されていない領域、つまり我々の目に見える高次元領域です」
「でもパターンが見えていたり、重力があったりするわ」
「分裂した多世界が見えているんです。ヤヨイが星の光を集積して見えるのは、宇宙そのものが分裂しているため。また、分裂は高次元方向に起こるので、本来は見えない部分が、ヤヨイという領域でだけは見えるのです。分裂した分、光が増殖されて見えています。そして重力は分裂した世界からの重力波です」
「でも、ヤヨイはパターンを持って動いていたわ。あの曼荼羅と同じ動きよ。多世界への分裂がどうして曼荼羅になるの? 曼荼羅って確か、セルオートマトンじゃなかった?」
「そうです、つまり話はそういうこと。この世界の実相がセルオートマトンなんです。今の姿からある条件をもとに、次の姿が作られる。それの繰り返しです。そして誕生から死のあるものはすべて、分裂していくのです。ある事象が起こったか、起こらなかったか、可能性の数だけ起こること全ては、二つへの分裂の繰り返しです。そしてこの世界というセルオートマトンの条件は、その二つへの分裂が誕生から死というサイクルを生み出すようにできているのです」
「どういうこと、どうしてそんなことができるの?」
「分裂が無限に起こるからです。ここが曼荼羅と違います。曼荼羅は平面上の、もっと言えば球体の表面のように、果てがないけれども有限な世界での現象でした。しかし、この世界の実相は無限を抱え込むことができます。その結果、1として生まれ、1+2+4+8+……という二つに分かれていく現象は、無限に突入すると、-1という値に収束します。+1で誕生したものは、分裂を繰り返し、-1という死を得るのです」
「……分かったような、分からないような話だわ。どうして無限に二つに分かれていくと-1になるの?」
「難しくはありません。無限に関する繰り込み計算をすればいいんです。あとで調べてみるといいでしょう。それより、前も言いましたが、私達生命は、ダーウィンの法則により量子のレベルで最適化されているので、本来は十一次元を理解できるはずです。しかし三次元プラス時間しか意識できないのは、この世界と同様に余剰次元が意識の上でも格納されていると見ていいでしょう。ヤヨイおよびヤヨイに近似した曼荼羅を目撃することで、格納されていた高次元に対する意識、つまり高次元方向に分裂していく世界の把握が解放されます。ここまでが今の、私達人類です」
「そこまで科学的な予想していて、どうして何も発表していないの? もっと多方面から議論することが必要と思わない?」
「確かに発表すれば、様々な意見をもらえるでしょう。中には私達の推測を越えるものもあるかもしれない。ただ、私達はあくまで宗教で、統一感が必要なのです。人間の生き方や意識までを統合したものを保っている必要がある。科学者は科学面でしか考えませんからね」
佐伯はあくまで宗教の裏付けをするために、科学に関わっているらしい。かつて教団に反発したのと逆のエネルギーを、教団を支えるために使っているようだ。そう言う意味では、佐伯は変わっていない。
「私にはまだ自分の変化が多世界なのかどうか、何とも言えないわ。何かが違うというのが分かる程度よ」
「そう、まだ分裂した世界を把握しているだけですが、そこにアクセスすることができるはずですよ」
「アクセス?」
「ええ、あなたがヤヨイに飛び込めば、分裂していったあなた自身に会うことができる。いえ、分裂した世界を、過去を含めて統合したあなた自身になるのです。きっと竜也さんがまだ生きているあなたにもなれるでしょう。私が以前言った、生きている竜也さんに会えるという意味はそれです。竜也さんに会うこともできるはずです」
確かにそんなことを聞いた。もう十年も前に。思えば竜也が死んでからもう十年経つ。会えるのならもちろん会いたいけれど。
「飛び込むなんてこと、できると思っているの? 得体の知れない場所に行くことになるのよ」
「私達の推測の通りであれば、あれは領域に過ぎないので、多分中に入っていけるでしょう。観測機の結果でも、環境が変わったり物体に接触したりはしていません。概ね私達の予想通りです」
「行ったら戻ってこれるの?」
「それは分かりません。戻ってこれても、今までの自分から精神が変容しているか、あるいはヤヨイを出たら元に戻ってしまうかもしれませんが」
正体の推測はついているが、分からないところもあるのか。
「飛び込むかどうかは、あなたの自由です。竜也さんに再会できるかもしれません。幻想ではない、別世界に本当に存在している彼に会えるでしょう。いえ、別世界とこの世界という、区分けがなくなるはずです」
佐伯は何を考えているのだろう。
「もしかして、私に飛び込んでほしいの?」
しばらく間が空く。
「……正直言えば、そうです。私達が真に獲得したい姿になれる可能性がある。多世界を把握するだけでなく、多世界を掌握した存在になること。それが万界散華の最大の目的でもあるのです」
「信じてもいない一宗教のために、任務を放り出すことはできないわ。このプロジェクトには莫大なお金と手間と年月がかかっている。すべきことも残っている。でも、どうしてもと言うなら、正式に提案はしてみるけれども」
「まあ危険が大きいとして、却下されるでしょうね」
「とにかく、飛び込む気なんかないわ。もう切ります」
これ以上話を続ける気はないので、切ってしまった。別にまたすぐ呼び出されたりはしなかった。
人を実験道具みたいに見ているのか分からないが、何とも不快だった。あんなことを伝えて思い通りにさせようとするために、佐伯は超光速通信を担当していたのかと思った。
それでも漠然と、本当に、竜也に再び会えるのだろうかと考える。ヤヨイを見た時に自分が変化していき、感じている気配が本当に彼のものなら、可能性はあるのかもしれない。希望と好奇心とが、心の中で動き始めている。ヤヨイや曼荼羅の全てを知りたいのは自分も同じだ。
早苗は再び、無重力状態からヤヨイを見てみた。竜也が傍らにいるのだ。間違いない。いや、気のせいだろうか。そう聞いたからそう思っているだけか。一人でいる年月が長かったので、ことさら何かの気配に敏感になっているのか。いったい何が起きているのか、自分はどうすればいいのか分からない。飛び込むのならクリストファーに許可を得ないといけないだろう……でも何のために? 却下された場合、おとなしく断念するため?
ふと、しばらくテラを使っていなかったことを思い出す。カラスは何て言うだろうと思った。早苗はテラの部屋へと向かった。
「何年ぶりかしら?」
「え? ついさっき会っていたろ」
カラスはあいかわらず上野公園で、折りたたみの椅子に座っている。
「そうか……ここでは時間が経っていないんだっけ。起動している間だけ時間が進むんだものね。ここのシステムは私しか使っていないし」
カラスはそれを聞いて、顔をしかめる。
「起動とか停止とか起こっているのか……嫌な話だな。全く実感がない。その何年かぶりとやらが、何しに来たんだ」
「宇宙船が目的地であるヤヨイに着いたのよ」
「もう着いたのかよ……いや、君の世界じゃ十年だってな。そいつは草間彌生だったか?」
「あ、その人のことまだ調べていない……アートに興味ないし。それより、ヤヨイを見ることで、多分あなたと同じような能力が身についている。あなたほどじゃないんだけど。人の輪郭が曖昧になりつつあるわ」
「へえ、俺の仲間が増えたってことか……似顔絵描きになれそうかい?」
「絵は描けない。描く気もない。ヤヨイに飛び込めば、もっとすごいことになるかもしれないって。でも、それは任務の中にはないのよ」
「すごいこと? どうなるって?」
「多世界を感じるだけじゃなくて、掌握できるかもしれないって。どう思う? 何が起こると思う?」
彼に訊くことでもないのは分かっているが、とにかく誰かに訊かずにいられない。占いでも受ける気分だ。カラスはそれを聞いて、しばらく考えていた。彼は科学者でも哲学者でもない、ちょっと特別な能力を持った絵描きだ。しかも仮想空間にいる。どんな答えが来るか分からない。彼自身も分からないかもしれない。
「何が起こるかは分からん。想像もつかない。ただ……」
「ただ?」
「君は行くだろう」
やっぱり、という気がした。何かこの答えを期待していた。
「なぜかと言うと教えてやろう。今はなぜか、君の顔が見える」
そう言ってカラスは微笑した。
「思ったより年輩の方ですね」
「失礼ね、会ってから十年経ってんだからしかたないわ。でも私の顔、今まで見えなかったの?」
「漠然とした輪郭だけだって言ったろ。でも今は違う。君の顔が分かるんだ。何なら似顔絵を描いたっていいぜ。これから何かが起こるんだ。多世界があるのなら、君の多世界と、俺の多世界がどこかで接したということだ。こんな場所ではなしにね」
「どんな場所ですって?」
「どこかの現実に君と俺が関係を持った。いや、変な意味じゃないぜ。ちょっと出会っただけでもそれは関係だ」
「今は関係を持っていないっていうの?」
「この俺は現実の俺とはちょっと違う存在だ……ってことが最近分かってきた……ってこないだ言ったよな? 覚えてないか。何年も前だもんな。つまりそういうこと。俺は仮想ってヤツだ。でも、仮想でも多世界の片割れでもある。分かるか?」
「よく分からないわ」
「分からなくてもいい。君は行くだろう。それは確かだ」
早苗はうなずいていた。
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