5.
やることがなかった。感傷的になるには、自分はあまりにも訓練され過ぎている。竜也が死んだ直後に感情に溺れて泣き叫び、激しい嘆きにまみれていたはずなのに、その時でさえしばしば、自分は何をやっているのかというどこか冷静なストップがかかっていた。人間らしくない。早苗は椅子に深く体を預け、自分自身のストップがかからない程度に、想い出などをたどってしばらくぼんやりしていた。しかしふと、立ち上がってテラの部屋に向かった。忙しくて最近使っていなかったが、竜也は時々使っていたらしい。何をしていたのか気になった。テラのシートに座り、生体認証を回避して、非常用のログイン画面を出して手元のコンソールから竜也のIDを入れてみた。その瞬間に周囲の様子は少し変わったが、パスワードを要求するメッセージが浮き上がっていた。これは早苗にも分からない。IDは知っていても、他人のIDで入ることなんてないので、パスワードは互いに教えていなかった。誕生年や誕生日などを入れてみたが拒否された。そんな単純なわけはない。
ふと、周りに景色が暗く映っているのに気づく。最後に達也が見た景色だろうか。パスワードが正しければアクティブになり、全体が明るくなるのだ。しかし暗いままでも、何となく場所ぐらいは分かりそうだ。広場のようになっていて、木が見える。公園の中だ。向こうには高層の建物がいくつか見えている。案内の看板が立っていて、日本語が見えるから日本だ。都市の中にある公園……どこか見覚えがある。上野公園ではないだろうか。何年か前、日本に帰った時に、竜也と桜を見に行ったことがある。
早苗はパスワード画面を抜け、今度は通常の生体認証を使った。早苗としてテラの環境にすぐに入れ、画面が明るくなった。
「上野公園」
そう言うと、すぐに飛翔した。着いたところは確かに公園の中だったが、やはり違和感がある。映像はリアルでかなり多くの人が行き交っているが、ほとんどは何を見るともなく歩いているだけで、公園に来ている人達には見えない。やはりコンピュータの中でしかない、人間のように見えるだけのソフトウエア的な存在だ。話しかけても万界散華本部の前で会話したような、中身もない結果となるだろう。
早苗は公園内を移動する。季節は夏なのか、樹々が緑に茂っている。ふと、他の人とは明らかに違う気配を放つ人が目に入った。公園の隅で、折りたたみのパイプ椅子に座っている。全身黒ずくめの服で、同じように黒い色の帽子を深くかぶっている。今は寝ているのか腕を組んでいて、下を向いていて、顔は見えない。
早苗は近づいていった。起きる様子はない。この人は動いてもいないのに、置物ではないと分かるし、何か存在感を感じる。
「あのう……すいません」
早苗は声をかけた。その人は顔を上げた。若い男だった。声をかけたものの、何を話していいか分からないのだが、向こうから話しかけてきた。
「描いてほしいのか?」
「描くって……何を?」
「見れば分かると思うが、俺は似顔絵描きなんだが」
見ると、確かに絵の道具を持っている。
「描けるの?」
「だいぶ慣れてきたから何とかなる。金はいらない、というか払いようもないだろうが……」
そう言いつつ、男は画板に紙を貼って絵を描き始めた。テラの仮想空間の中で、自分はどう見えるのだろうか。相手は仮想人格だ。視覚まで持っているとは思えない。似顔なんて描けるのだろうか。
「俺が描けると言っても、誰も信じなかった。ラセンのやつもあれこれ訊いてきたが、あの時の俺は何も答えられなかった。見えるわけがないとか言いやがって。まあ確かに目では見えなかったし、そう考えるのも無理はない。でも描こうと思えば描けたんだ。光と道具さえあればね」
「ラセン?」
「二重ラセンって名前の俺の知り合い」
その名前は知っていたので、早苗は驚いた。
「それ、万界散華の音楽を作った人?」
「なんだそりゃ? バンド名か?」
「宗教団体よ。教祖の父親の一人が二重ラセンっていう音楽家なの」
男は意外そうな表情をした。
「ということは、あいつに子供ができて宗教を作ったって? 父親の一人? 何だそりゃ?」
「母親がいなくて、父親が二人なんだって」
それを聞いて男が笑い出した。
「なるほどそういうことか。もう一人はきっとワタル君だろ」
そんな名前だった気もするが、よく分からない。男はまだ笑っている。ここまで自然に感情を表現しているなんて、ただのプログラムではない。それに情報も細かい。きっと彼が、現実の人間からデータを持ってきたという一人に違いない。彼が現実に二重ラセンやワタルを知っていたのだ。すると彼の生まれたのは百年以上も前のことになる。データとして取り込まれたのは、それから二十数年後か。それでも五十年以上は昔だ。
「ねえ、あなたは、かつて現実の人間だったの?」
彼は時々自分の方を見ながら、まだ描いている。手さばきは素早いというわけではなく、どこか慎重だった。
「かつて……というか、いつの間にかここに来たが、やっとここが現実じゃないってことを認めざるを得ないってところかな。腹も減らないし、眠くもならない。だいたい時計だって進んでいるのか止まっているのか分からなくてな。ただ同じ時間が延々過ぎていくだけのようだ。でもそうすると、現実の世界ってのがあって、現実の俺がどこかにいるんだろうかね。鏡を見ても、だいぶ線が細いもんで困ったもんだ」
彼は仮想空間にコピーされた人間で、現実の彼はもう死んでいるだろう。でも、そう言ったところで、そんなことどうでもいいような気がする。
「あなたの名前は?」
「俺の名はカラスだ」
鳥みたいな名前だが、もちろん本名ではないだろう。
「私は宇賀神早苗……私……そうだ、夫を亡くしたんだった」
そう聞いても、カラスはほとんど表情を変えない。
「そりゃ気の毒に。未亡人か」
「なりたてよ」
「でも、旦那は生きてるようだね」
「はあ?」
カラスがとんでもないことを言い出すので驚くが、嘘を言っているようにも見えない。その時、カラスが画板から紙を外し、描いた絵を早苗の方に向けて見せた。顔のようだが、そこには目も鼻も口もない。顔の形の輪郭だけだった。濃い線が何本も絡まっている。やはり仮想空間では、向こうからこっちの顔など見えないだろう。自分の体はテラのシートに座っているわけで、仮想空間に入っているわけではないのだ。仮想空間用のアバターを持っているわけでもない。
「それが私の顔?」
「限界だね。何しろ姿がよく見えないもんでね。いや、全く見えないわけじゃないよ。そこに存在しているっていうのは分かるんだけど、影みたいでね。そういう人がたまに来るんだが、きっと君と同じ、現実ってところからの訪問者だろうな」
「竜也も来たの? ねえ、さっき夫は生きてるって言った? どこにいるの?」
まさか、この仮想空間の中にいるのだろうか。
「君の世界で死んだのなら、もうここにも来ない。この世界にもいない。ただ、すぐ近くの世界にはいる」
「すぐ近くの世界?」
「それこそラセンが言ったことさ。世界は可能性の数だけ分裂している。多世界って言うらしいね。細かいことは知らんが、俺にはそれが見える。輪郭として。だから似顔を描くことができるんだ。まあ、ある程度だけどね。君のすぐ近くには、旦那を亡くさなかった君が見えるってわけ」
確かに、あの事故は恐ろしいほど確率の低い偶然。宇宙に漂う氷のかけらに打ち抜かれるなんて。ほんのわずかなずれで、竜也は死なずに済んだ。
「何を言われても……私の現実ではもう私は独りだわ」
「そうでもない。分裂していった君は、全ての君自身を支えようとするんだ。旦那に会えることはないだろうけど、君は強く生きていくだろう」
勝手に強い人間にされても困るが、どこかで聞いたような話でもある。ラセンが言った話なら、それは多分、万界散華のイベントで同じような話を聞いたかもしれない。
カラスは早苗の方を見ながら、ふと顔をしかめた。
「いや……待てよ、どうもそれだけじゃないな」
「何が?」
「普通と違う。君の輪郭は妙に強い」
輪郭は話はどうでもいいと思った。所詮、向こうからはよく見えないだろうし。
「あなたは竜也に会ったの?」
「会ったよ」
「何を話したの?」
「彼は女の人を探してたな」
「ええっ!」
そういえば、竜也は何となく隠れてテラを使っていたような雰囲気があった。早苗は信じられない思いがする。その時、カラスが笑い声を立てた。
「動揺が見えるような気がするな。面白い。でも浮気じゃないよ。画家を探してたんだ。それで彼は俺に声をかけてきたってわけ」
「画家?」
「山吹妃紗って名前だ」
「山吹妃紗? ……それは」
どこかで名前を聞いたような気がする。そうだ、確か軌道エレベーターの搭乗口に飾ってあって、竜也が見入っていた絵の作者だ。
「あなたは知ってるの?」
「まあね。一応知ってる……っていうか、彼がその名前を出したのが驚きだよ。何しろ、俺が知ってるところでは、山吹妃紗は新人画家だからね」
「新人画家? じゃあ、あなたと同時代なの?」
「そう。でも話を聞いたら、宇宙なんとかの施設にも絵が飾られてるとか、なんかずいぶん有名らしかった。どうやら俺がここに来たあとで現実で有名になったみたいだな」
「確かに、樹がいっぱい並んでいるような不思議な絵を描いてたけど、でもその画家に会いたいだなんて……」
相手が女性なもので、つい下心じゃないかと思ってしまう。もっとも昔の人間に対して下心も何もないのだが。
「もしかしてこの仮想空間内にいないかと思ったらしい。いたら話を聞きたい。自分がなぜあの絵に強く惹かれたのかってね。まあ分からんでもない。俺も彼女は才能あると思ったよ」
早苗は山吹妃紗の絵を思い出してみる。無数の細かい樹々。細い血管のような枝。そう、竜也の話では確か枝が一、二、四、八と規則的に分裂していたという……分裂?
「枝は分裂してた。世界と同じように……もしかして、竜也も多世界に惹かれていたのかも」
「なるほど……彼の似顔を一応描いたけどね、似たようなものだった。いや、でも変だな……死ぬ人間には見えなかったぞ」
「突発的な事故なのよ。防ぎようがない」
「でも、俺は運命が尽きる人間はだいたい分かるんだ。死んだあとには選択のしようがないから。世界は分裂しない。輪郭は細く、単純になる。でも彼はそうじゃなかった……どうしてかな」
「生きているの? どこかで生きているの?」
自分が感情的になろうとすると、逆にセーブしようとする理性が働いてくる。ふと、ここは仮想空間内で、今話している相手も、所詮コピーを元にした仮想人格じゃないかと考え始めた。本当に心があるのだろうか。いや、ないようには全く見えないのだが。
「死んだ者が生き返ることはない。近くの世界に行ければ、会えるのかもしれないがね。誰もそれができた人間はいない。分裂していった世界は、今の世界とは関わりがなくなるんだ。君の輪郭の強さが、君自身ではなく彼によるものだとしたら……うん、分からないな。彼の方から君に会いに来るのかな……」
早苗は絵の意味するところが気になっている。
「山吹妃紗の絵……竜也は知っていたのかしら……」
自分の運命を。予感のようなものが、竜也をあの絵に見入らせたとしたら。でも、死ぬとは思えない輪郭とは、どういうことだろう。
カラスは、輪郭以上のことは分からないようだった。別に予知能力があるというわけでもない。早苗はカラスと別れ、テラを終了させた。もう宇宙船の中で一人とは思えなかった。クリストファーが言っていた。本物と同じような人間とは、きっとカラスのような者だろう。他にもそんな人間がいるなら、そう悪くはない。
そのクリストファーから指示が来た。計画続行の意志は受け入れる。精神面は定期的に検査するので、ちゃんと受けてほしい。精神面で異常が認められたら、速やかに帰還してもらう。ヤヨイ観測以外の数々のプログラムは一人でも行える範囲で変更をかける。早苗一人ではない。地球の仲間も常に見守っていると考えてほしい。
早苗はほっとした。これで任務を続けられる。
コーネルは予定通り加速を開始した。光速の六パーセントへの加速。出発した時と同じように、一旦回転を止めて船内の重力を無くす。反水素エンジンをフル稼働させ、加速を始めると加速方向が上になる。しばらくはこの加速が続く。船を守るマグネティックセイルが、星間雲を切り裂いていく。
メールのやりとりにかかる時間も、日に日に延びていった。最終的に光速の六パーセントになれば、メールが一往復している間にも、さらに距離が離れていき、かかる時間もそれだけ増える。早苗は正直なところ、加速が怖くもあった。地球から遙か離れた宇宙空間にたった一人でいて、さらなる速さで離れていこうとするのだから。
ただ、本当に一人ではなかった。テラにおけるカラスとの出逢いは、仮想のシステム内で動く人間のコピーということをほとんど意識しないほど自然だった。かといって、相手はあくまでテラというシステムの中にいる、人格をコピーした存在であり、本物の人間ではない。それは意識しておかなければならないが、孤独に耐えかねて、彼を必要以上に頼ってしまう不安も感じていないと言えば嘘になる。彼だけではなく、テラの中には何人も、そんな人がいるだろう。現実とシステムを逆転させたくはない。誘惑には耐えなければならない。
佐伯からは、計画続行決定後、クリストファーと同じような内容の簡単なメールが来ただけだった。早苗が訊いた万界散華や曼荼羅についても、何の返事もなかった。しかし数日経って、今度はプライベートで長いメールが来た。そして早苗はその内容に驚かされた。
『竜也さんの死は悔やまれますが、ただ、私達の認識ではまだ生きていると言えるし、生きた彼に再会する可能性も持っているのです』
佐伯はいきなりカラスと同じようなことを書いていた。しかも再会する可能性などと書いてある。『私達』とは何だろう。万界散華のことだろうか。思えばカラスの言っていたことが、万界散華開祖の父の一人である二重ラセンから得たものなら。同じことを言う可能性はある。話は多世界の一つとか、そんなことになるはずだ。でもそれなら、生きた彼に会う可能性などないはずだ。
『竜也さんがまだ生きている世界は、どこかの選択で分裂したまま、高次元に実在しています。それは高次元のわずかな座標値の違いに過ぎないのです。そして、信じられないかもしれませんが、私はある程度、高次元の別座標を把握できます。元々人間は、いや、あらゆる生命は脳を通じ、現在の環境に適応して進化してきました。現在の環境とは量子の世界であるため、脳は量子レベルで情報処理を行うよう進化していったのです。だから量子の世界である十一次元を把握することも、本来は不可能ではないはずです。ただ生命の自然淘汰の中で、高次元を顕在的に把握しなかった者が、生き残ったに過ぎないのです。その理由は恐らく、現在の次元のみを認識して活動した方が、生存率が高かったのでしょう。しかし人間は科学を発展させ、現在は高次元の存在までも発見し、理解しました。それが前世紀でのできごとです。今世紀になり、その理解から高次元そのものの情報を把握するように、私達は進化しつつあるのです。これは、身体的には大きな変化ではありません。意識の変容に過ぎないのですが、人間のあり方としては大きな進化と呼べるものとなるでしょう。私には、高次元において、竜也さんがまだ生きていると分かるのです』
早苗はため息をつく。やはり、結局はカラスが言っていたことと同じなのだ。進化したとか言って相手に特別な能力があったとしても、自分にその能力が無ければ意味がない。自分は高次元を把握する能力なんて持っていない。だから、佐伯の言葉も空虚な話に過ぎない。慰めようとしているのか、あるいはこんな状態の自分に付け入ろうとしているようにも見えて腹も立つ。しかし続きを読むと、何か異様な感じがしてきた。
『私のこの能力は万界散華によりもたらされました。一時万界散華に反発していたのは、あなたも知るところです。ただその時は、当時の教団の禁欲的な共同生活ばかりが目に付き、自由のない宗教に映っていたのです。この点は現在の教団でもあまり変わりませんが、本来万界散華はもっと人の能力と可能性を広げ、利己性を抑制し、より調和のとれた世界を目指すものです。そしてその能力は、あの曼荼羅により得ることができると言われています。曼荼羅は万界散華の象徴のようなビジュアルイメージですが、あのパターンの実体は、ごく単純な、トリメロースと呼ばれるセルオートマトンです。そこにある特定の配列を投入すると、それは二のべき乗に分裂していき、飽和したあと、最後には全てが消滅します。生命の誕生から死、世界の分岐と消滅を最も単純なパターンで示し、高次元を含めた現世界の認識へと人の能力を拡張させることができるのです。もちろん、曼荼羅を見た全ての人間がその力を得るわけではありません。曼荼羅は世界の実相に近いものであっても、イコールではないためです』
早苗は汗を拭う。セルオートマトンとは何か、聞いたことがあるような気はするが、よく分からない。あとで調べてみよう。しかし、既に予感はしている。
『そしてあなたの指摘の通り、ヤヨイが曼荼羅である可能性があります。それも作られたプログラムではない、真の宇宙のシステムです。なぜ宇宙空間に曼荼羅が存在するか、それは私達にも分かりませんが、あなたがヤヨイの実体を目の前で見ることで、その理由が分かるはずです。あなたは高次元の把握が可能になるはずです』
やはり佐伯は知っていて黙っていたのだ。でもなぜ黙っている必要があったのだろう。
『本当はこの可能性の話はしないつもりでした。私には本来の重要な目的があったのです。それは知っての通り超光速通信の鍵となるであろう量子消滅現象です。現在の距離では、相当大きなエネルギーをかけないと消滅させられませんが、近々軌道上の超大型加速器を使う準備があり、それで消滅は可能と思われます』
地球にある量子と、コーネルに搭載している量子は絡み合った関係にあり、片方を加速器で消滅させると、もう片方が同時に消滅する現象。これで超光速で情報が伝わるはずだったが、距離が離れるに従い必要なエネルギーが増大している。超大型加速器なら消滅が可能かもしれない。
『知っての通り、多くの科学者が因果律の崩壊を理由に、超光速通信の可能性を否定しています。今回の実験も、結果がある程度出ているにも関わらず、それは誤差の範囲や観測ミスとして信用できないという意見が少なくありません。しかしこの計画は、遂行される必要があります。動かしようのない結果をつかむ必要があるのです。この実験計画について正確に明かしますと、万界散華が関わっています。当初、この実験ユニットはコーネルに採用される予定はなかったのですが、私達の体系を確立するために必要不可欠として、持てる限りの手段で採用にこぎつけたのです。超光速通信の鍵となる消滅現象ですが、支持者はその伝達速度は無限、つまり消滅が同時に起こるとする意見が多くを占めています。その理由としては、完全に同時の現象であれば因果律を壊すことがないからです。しかし、もし消滅が同時ではなく、速度が光より速い有限の場合、相対性理論により、過去への情報伝達を可能にします。それゆえ、原因の前に結果が判明するという因果律を壊す結果となります。しかし、まさにその可能性こそ私達が望んでいることです。なぜなら、過去に情報を送っても因果律を壊さない唯一のあり方が、多世界だからです。多世界の証を私達は探しているのです。ある結果が未来から過去に送られ、その原因が取り除かれたとしても、それはそこから別の世界が分裂したに過ぎないので、その結果のある未来が消えるわけではないのです。例えば私が、結婚前の私の両親に子供を産まないように指示を出し、それが実践されたとしても、私が消えることはありません。私の指示を受け取るというのは、数多くの選択の一つ、分裂した多世界の一つに過ぎないからです』
確かに、超光速通信は、その実現不可能性により、一時下火だった。量子消滅現象により、再燃したが、その背後に万界散華もあったとは。
佐伯からはプロジェクトメンバーに共有されるオフィシャルなメールも来ていて、それには超大型加速器による量子消滅実験のスケジュールが添付されていた。船内の時計を完全に合わせることが必要で、地球とコーネルの相対速度を計算し、さらに相対性理論による時間の歪みを補正しなければならない。実験までに数ヶ月を要したが、日に日にメールのやりとりに時間がかかるようになってくるので、あまり余裕がある感じではなかった。
早苗はテラのライブラリで、セルオートマトンを調べてみた。図書館の建物に入ると、本を手に取って読むことはできないが、情報検索画面が出てきて、大抵のことは調べることができる。文章や映像、動画まで使った解説が表示される。セルオートマトンは二十世紀の、コンピュータが初期の頃からある計算モデルで、有名なのは「ライフゲーム」という生命シミュレーションだった。生命を単純なドットで表現し、周囲の生命の数によって次のステップでの生き死にが決まる。ステップが進むことで生命数が変化していく。見ていると単純ながら面白い。このライフゲームのサンプルがいくつか紹介されていた。立体になっているものや、二種類の生命体を使ったもの。設定する条件によって展開に個性が生まれるようだった。その中で、早苗は思わぬものを見つけた。
そのライフゲームのサンプルは「トリメロース」と名付けられていた。三種類の生命体を使ったシミュレーションだという。佐伯からのメールにあった、万界散華の曼荼羅がその名前だったはずだ。早苗の胸が高鳴る。サンプルとして置いてあるとは思わなかった。ライフゲームの条件が既に設定されているようなので、思い切って開いてみた。黒い正方形の画面に、三色でできた微生物のようなものがうごめき始める。確かに曼荼羅と似ている。あの時佐伯と一緒に見たもののようであり、あるいはヤヨイの画像の印象そのままでもあった。作者名も書いてあり「緑川郁生」という日本人だった。この作者の経歴などを調べてみたが、何の情報もなかった。研究者などではないらしい。
トリメロースをしばらく見ていたが、うごめいてはいても決まったパターンで大きな変化はなく、何か分裂が起こっているわけではないようだった。佐伯のメールでは、曼荼羅はある特定の配列を投入すると分裂が始まる、と書いてあった。これもそんなことが起こるのだろうか。でも、特定の配列が何か分からなければ、何もできないし、そもそもこのサンプルは、特定の配列を入れられるようにはできていない。自然にそういうことも起こるだろうか。早苗はかなり長いこと画面を見ていたが、パターンに変化は見られなかった。早苗はやがてサンプルを閉じてしまった。
テラでは、また上野に行ってカラスに会った。やはり人恋しい。ただ、カラスの方はそんな早苗にも大して関心がなさそうだった。相手側からは自分がよく見えないようだし、さらに記憶も十分ではなかった。
「ねえ、竜也とはどんな話をしたの? 画家を探していただけ?」
「竜也って誰だ?」
「私の前に、会ったっていう人がいたでしょう? 私と同じような姿で」
「ん、そういえばそんな気がするが、もうよく覚えてないな」
恐らくは、人格がコピーされた時点での記憶はしっかり持っているが、それ以降の、テラの環境内にいる時のできごとについては、記憶を保つのが難しいらしい。
「君は未来から来たんだって? 今何やっているんだ?」
カラスの表情にあまり変化はないが、多少は興味がありそうな口調だ。早苗は答える。
「宇宙船に乗っているの。太陽系を出ている。今は一人よ。宇宙空間に浮かんでいるヤヨイって呼ばれている謎の移動体を調べにいく」
「ヤヨイ? まるで日本人の名前みたいだな」
「日本人が見つけたわけじゃないけど、なぜかそんな名前よ。確かヤヨイって画家がいるらしくて、観測機で撮った写真の見かけが、その人の絵に似てたとか」
カラスはしばらく考えた。
「草間彌生かな……」
「分からない……私、画家には詳しくないの」
「どんな見かけだ?」
「円形で、複雑な曲線のまだら模様だって分かっているけど……」
「じゃあきっとそうだな。草間彌生って画家だ。まさにそういう絵を描くよ」
「でも名付けた当時は違ったわ」
早苗は少し考え込んだ。確かヤヨイと名付けられた時点では、ただ変光するだけの存在だったはずだ。まだら模様だなんて分かったのはつい先日、無人観測機が撮影した映像が来てからだ。でも名付けた人は、あれはヤヨイの絵だと言い張っていた。
「何を考えているんだ?」
「予知能力でもあったのかな……」
それを聞くと、カラスは鼻で笑った。
「俺の力も予知だって言われることはある。俺の見る輪郭は、起こり得る可能性が少し多い世界の姿らしいがね。ラセンが言ったことだからよく分からん」
「あなたは二重ラセンと友達だったの?」
「まあね。この世界にはいないけどな。いや、君のように何度か来たことはあるが、懐かしいよ。小難しいことを言う奴だったが、音楽は天才的だった。そうだ、君が言ったことを思い出したぞ。あいつの子が教祖だって? あいつはそんな話一言もしなかったぞ」
ラセンには興味を示す。やはり親しかった人への興味の方が強いのか。早苗は少し寂しくなったが、自分もラセンという人には興味がある。
「万界散華っていう仏教系の教団なの。佐伯万里という人が教祖だけど、ラセンはその父親の一人。父親が二人みたいよ」
「それは聞いた。でも母親は誰なんだ?」
「分からないわ」
「いないのか? もしかして未来世界は男二人から子供ができるのか? あるいはクローンとか」
「人間のクローンは禁止されているわ。男二人の遺伝子からは……難しいと思う。確かライブラリの情報では、拾った子みたい」
「拾う? 子供はそう簡単に落ちてないぞ」
「それ以上は分からない。地球のクラウドは使えないし、誰かに聞くことも難しいわね」
「そうか……」
カラスはそれ以上のことは聞いてこなかった。
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