4.

 竜也には黙っているが、いわゆる夜の生活の意味を、時々早苗はどうしても考えてしまう。卵管は手術で塞いであるので、妊娠することはない。この仕事に就いてから、子供を残さないことに決めているし、竜也もそれは納得済みだった。ただ、自分の卵子はいくつか冷凍保存してあるので、自分の子供を残すことは、百パーセント不可能な話ではないし、そのことは自分にとっては大事なことだと思っている。たとえこうして、宇宙に長い旅に出たとしても、地球には自分の卵子が眠っていて、来るかは分からない目覚めを待っている。竜也との夜の営みは比較的定期的だったが、そのたびに自分の気分が変動している。本能を開放するのだからこれでいいのだという自分であったり、自分はいったい今何をしているのかと自分を問い詰める自分であったり。精神的な安定は低くないはずだし、外宇宙にまで出ようという人間なので訓練もされている。何も問題はない。自分は大丈夫だ。そう自分に言い聞かせ、落ち着くことは可能なのだが、またこんなことになったのかという、軽い失望が何度も続く。本能の意味など考えてもしかたないはずだが、時々ぼんやりと、特に行為のあとなどに考えている。今も、やや汗ばんで、裸のまま二人はベッドに横たわって寄り添っている。寝室は簡素で、薄暗くて、床に固定されたキングサイズのベッドがあり、寝具は汚れることのない特殊素材を使っている。

「愛してる?」

「うん、愛してる」

 確かめるわけでもなく、早苗はそう訊いて、そして同じ答えを得る。いつもと同じだったが、何かが引っかかる。漠然と不安だった。例によって自分は本能の意味を考えているのかと思ったが、そうではないようだった。じっと竜也の横顔を見つめる。竜也も早苗の視線に気づいた。

「どうした? まだ言い足りない?」

 早苗の方を向いて微笑するが、その瞬間、竜也の微笑が二重に見えた。確かに見えた。二つの微笑だ。早苗を愛おしむ微笑と、早苗をごまかそうとする微笑。いや、気のせいだと自分で否定する。

「別に……」

 早苗は顔を竜也の体に押しつけた。早苗は今のできごとから、意外なものを連想していた。二重スリット実験……光源から放たれ二重スリットを通った光は干渉波となってスクリーンに映し出される。これは光が波動だからだ。しかし、光子一粒一粒を二重スリットに向けて撃ち出しても。その粒が干渉模様を描き出す。一つの粒がどちらのスリットを通ろうとも、干渉するものはないはずなのに。どちらのスリットを通ったか、観察すると干渉は起きない。光の粒は、二つのスリットを同時に通り、自分自身と干渉している。あるいは、右のスリットを通った光子と左のスリットを通った光子とで、世界が二つに分裂しているという、いわゆるコペンハーゲン解釈か、多世界解釈か、その結論は未だ出ていない。

 そして、竜也の微笑がそれを連想させた。その微笑が愛情のスリットとごまかしのスリットを同時に通るのだ。

 早苗は竜也にキスをする。竜也もそれに答える。思考も言葉もない世界の方が居心地がいい。宇宙の任務も何もかも、どこかに置いてきてしまえばいい。早苗は起き上がり、ベッドから抜け出る。

「どこに行くんだ?」

「瞑想してくる」

 瞑想で自分をコントロールするようになったのは、あのイベント以降かもしれない。音楽や映像にシンクロできると感じた時、自分自身を何かにゆだねて、心を快復させることを知ったのだ。たとえば、窓から見える宇宙。

 早苗は通路を通り、回転していない無重力のエリアに行く。宇宙を見て、そのまま何も考えない。自分は快復するはずだ。こんな宇宙のただ中で、二人きりなのだから、争いなどできない。争いの火種を抱え込みたくないし。それは可能なことだ。


 コーネルは順調に航行を続けている。

ヘリオポーズは、かつては衝撃面だと思われていた。太陽圏の果て。太陽風が外宇宙の星間物質にせき止められる境界面。しかし、星間物質の濃度は薄く、太陽風も微弱で、秒速千二百キロという今のコーネルの速度でも衝撃面にはならない。コーネルは太陽圏を抜け、局所恒星間雲の中に入る。いよいよ光速の六パーセントまでの本格的な加速が始まり、ヤヨイへと向かう。人工重力用の回転が止められ、重力は再び向きを変えて、進行方向が上となる。

 この地点で地球までの通信時間は片道十四時間。メールを一回やりとりするのに丸一日以上かかってしまうが、まだ一日と少ししか、かからないともいえる。ヤヨイに近づく頃には、片道で数ヶ月もかかるようになるのだ。

 佐伯に再び曼陀羅のことを訊いてみたが、あまり収穫はない。

『簡単に言うと、あらゆるものは無数の中の一つであり、その一つが無数に存在するという意味です』

 そんなことが書いてあったが、早苗が知りたいのは、なぜヤヨイが曼荼羅と同じに見えたのかということだった。佐伯に訊きたいことが伝わらない。何とももどかしい。佐伯はヤヨイそのものにはあまり興味がないようで、ディスカッションにも参加していなかった。

 本当なら、超光速通信の実験にも関わっているため、佐伯とはもう少しコミュニケーションができるはずだった。

 出発以来、超光速通信の実験は繰り返していたが、あまり収穫もなく今に至っている。超光速通信に使用するのは、絡み合う関係にある二つの量子。二つのうちの一つをコーネルが持っている。そしてもう一つは佐伯のいる地球基地にある。量子にはスピンと呼ばれる回転の要素があるが、絡み合う関係にある量子は、その要素は持っていても、方向が定まっていない。ここで、絡み合う関係にある二つの量子の一つの観測すると、そのスピンの方向が決まる。そしてその瞬間に、もう一つの量子のスピン方向が、その逆方向と決まる。この決定は「量子テレポーテーション」と呼ばれ、量子がどんなに離れていても一瞬で、超光速で伝わるものである。

 これまでは、この現象を通信に使うのは不可能とされていた。どちらかが観測した瞬間に絡み合いは消滅するので、継続した信号を伝えることはできない。先に観測した方が相手にそのことを伝え、後に観測して結果を知ることで、量子テレポーテーションが起こったことを実証することはできるが、結局その場合、通常の通信を行って伝えなければならないので、光の速度を超えた通信にはならないのだ。

 ところが、片方の量子をある特定の量子と加速器で反応させることで、絡み合った量子いずれもが消滅する、という現象が確認された。観測すれば確定して絡み合いは消滅するが、観測以前にいずれをも消滅させることができれば、相手側は量子の消滅を把握すればよい。相手側の消滅については、直接量子を観測する必要はなかった。消滅することで量子がエネルギーに変わるため、その場のエネルギーの変化を見ればよかった。その結果、消滅したことが分かる。

 変化を伝えることができれば、通信に使用することも可能になるはずだ。この発見で、これまで不可能とされた超光速通信が実現できるのではと考えられた。もっとも、相対性理論を引き合いに、あくまで光速を越える情報伝達は不可能として、結果を信用しないか、超光速の伝達とは別の現象とみる向きも少なくない。また、何かが伝達する以上、同時刻ではなく、わずかでも時間がかかるのではという推測も出ている。

 近距離の宇宙空間を使った実験で結果は申し分なかった。消滅は同時であり、もちろん光よりも早く、速度は無限大だった。実験結果を認めない者も多かったが、この成功を受けて、遠距離実験装置がコーネルのユニットの一つに組み込まれることになった。現象が明確でないままユニットに加えるのには反対の意見もあったが、何かの権力に押し切られるように加えられてしまった。

 実験では地球上で絡み合った量子の一つを消滅させれば、その瞬間にコーネルにある一つが消滅するはずだった。消滅用の量子は複数用意してある。

 ところが今のところ、最初の一つしか消滅させることができないでいる。コーネルが火星軌道にいるあたりで、第一回目の実験が行われたが、地球側の加速器を想定値で用いても、最初は量子が消滅しなかった。絡み合った量子の距離が離れると、消滅に必要なエネルギーが急激に増えるらしい。結局、当初想定の十倍以上のエネルギーをかけてやっと消滅させることができた。その結果、地球上での消滅時刻と、船内で消滅が確認された時刻では、船内の方が早かった。これは超光速以上のマイナスであり、時間を遡って情報が伝わっていることになる。原因の前に結果が出てしまった。これこそが超光速だという意見もあったが、船内の測定時刻に誤りがあったのではという意見の方が多かった。船内時刻はコーネルの移動速度をもとに、相対性理論で補正をかけているが、その補正が間違えているという意見が多数を占めた。

 次の実験に期待したが、二度目以降はもう消滅させられないでいる。必要なエネルギーは指数関数的に増大している。距離が十倍広がると、必要なエネルギーは百倍は必要らしい。すでに太陽圏の外側まで来ている以上、消滅させるエネルギーをかけることは、かなり厳しい状態だった。

 もう一つ奇妙な現象として、量子が消滅するのだから、物質をエネルギーに変換した、E=mc2分のエネルギーが発生しないとおかしい。確かに消滅の際にエネルギーは発生するのだが、想定値の十分の一ぐらいしかなかった。ほとんどのエネルギーはどこに行ったのか。

「この点については推測ですが……」

 佐伯がメールで伝えてきた。

「量子は消滅したのではなく、誘導されて高次元の別座標に移動して見えなくなっただけかもしれません。この世界が三次元ではなく、実際は十一次元あることは知られています」

 超弦理論に従えばその次元になることは、前世紀から言われていて、常識として早苗も知っている。高次元は軌道上の超大型加速器により発見はできているが、実体が分からない部分が多い。

「距離が離れるほど、エネルギーが必要なのは、言うなればモーメントのようなものかもしれません。遠隔で影響を起こすには、距離に応じたエネルギーが必要なのです。もし高次元が細かく観測できれば、この問題も解けるのではないかと思います」

 それにしても、佐伯の丁寧な言葉遣いと、必要以上のことを何も伝えてこない態度は、味気がないというか、何か違和感があった。昔の、教団と対立して、早苗とつき合っていた頃のイメージが抜けないので、そう感じるだけかもしれないが、それにしては何か二人の間に、わざわざ立てなくてもいい壁を立てている気がする。いや、もっと意図的に、何かを伝えないでいようとしていないだろうか。 


「いよいよ外宇宙だ。よい旅を祈る」

 クリストファーからそんな内容のメールが二人に来たのは、実際にヘリオポーズを抜けてから十四時間後だった。時間的にはちょうどヘリオポーズを抜けた時に地球からメールを発信して、それが十四時間経って着いたことになる。

 コーネルは太陽圏を抜けた。細かいガスと塵が漂う星間雲の中を進み始めている。これから光速の六パーセントまでの加速を開始するに当たり、周辺環境に問題はなく、予定通りマグネティックセイルの起動を始めた。本来、宇宙船が太陽風を受けて進むための帆の一種だが、ここではコーネル本体、特に反水素を格納しているリングを守りながら、星間雲を切り裂いて進むためのシールドとして機能させる。コーネルの先端から、長さ百メートル近いロッドが花のつぼみのような形状で出ているが、これが磁場を発生する装置となっている。

 早苗と竜也でマグネティックセイルを起動したが、磁場は正常に展開しなかった。竜也はモニターを険しい目で見ている。

「外部の磁場が想定よりも強いみたいだな。いや、でも問題ないレベルのはずだが」

「局所的に乱れているんじゃない?」

 異常な磁場が太陽圏外にあって、局所的に変化していることは、誰もが知っている。磁場が塊となって存在していることも、川のように流れていることもある。しばらく待てば収まると思われたが、安定的に異常値を出していて、あまり変化がなかった。

「どうも原因は外部じゃない。ロッドの一本が正常に動いていないようだ」

 この磁場が展開しないまま加速すると、星間物質が直接コーネルに衝突する危険性がある。本体の強度的には問題ないのだが、万一リングに異常な干渉を起こすと、反水素が反応してコーネルごと一瞬にして消滅することになる。

 接続実験などを繰り返し、問題となっているロッドの、一部のユニットを交換する必要があると判明した。交換用のユニットは持っている。

 遠隔で作業できるメンテナンス用のロボットを向かわせようと試みた。しかし、このロボットはコーネルの壁面は自由に動けるのだが、交換部分はロッドの先端に近い。ロッドは細くてつかまりようもなく、ロボットが到達できない。

「僕が行こう」

 コーネルは船外での作業も想定されていて、宇宙服も備えている。一人乗り用のポッドも装備しているが、機動性のいい宇宙服が発達した現在ではあまり使われることはない。

 マグネティックセイルを一旦停止させた。竜也は宇宙服に着替え、交換用のユニットを抱えると、エアロックから船外に出た。コーネルの側面を走るスライドワイヤーをつかみ、先頭部まで移動した。先頭部は半球形になっていて、そこから磁場発生装置であるロッドが十二本、昆虫の触角のように生えている。

 早苗は船外を映すモニターで、竜也を見守っていた。太陽圏の外の宇宙空間で人類が作業をするなんて、百年前は考えもしなかったろう。現在の宇宙空間の磁場は弱くはないが、機器を狂わせるほどではない。有害な宇宙線も宇宙服で十分遮断できるレベルだった。急に強くなるとも思えない。

「ロッドを登っていける?」

 無線でコンタクトをとる。

「木登りは得意だったよ」

 実際は登るわけではなく、ロッドに沿って移動していく。ロッドはスライドワイヤーを備えていないので、宇宙服の推進装置を噴射して進む。何かあった場合のために、ロッドの根元と竜也はワイヤーでつながっている。竜也はゆっくり進み始めた。早苗はカメラのズームを調整しながら、モニターを見守っている。

「今どのくらいだ?」

「順調よ。半分ぐらい行ったわ」

 ロッドは直径十センチの円筒で、長さが約百メートル近く。離れて見ると、まるで細い糸で作ったつぼみ状の工芸品のようだ。

「もうすぐ先端よ」

「了解。大丈夫だ。ここからも合流部が見えている」

 ロッドは先端部で十二本が再び合流しているが、そこで接続されているわけではなく、それぞれわずかな隙間を持ち、独立している。竜也は噴射を調整し、問題のロッドの先端部近くに着いた。ユニットの交換を行う。難しい作業ではない。早苗は数分間、モニターを見つめながら黙っていた。

 ふと、佐伯からのメールを思い出した。クリストファーからのメールとほぼ時を同じくして、早苗にだけ来たメールがある。

「何が起きても、自分達の力を信じることです。未来は可能性の数だけ存在しています。成功する未来は確実にあり、それを獲得するため進んでいくことです」

 なぜこんな時に思い出すのだろうと、早苗は思った。何が起きても、というほどのことは起こっていないのに。いや、そもそも、なぜあんなタイミングで佐伯がメールを送ってきたのだろう。太陽圏を出るのが一つの区切りだからだろうか。 

「終了した。確認してくれ」

 竜也の声が聞こえた。

「了解……位置正常。導通も問題なし。いつでも起動できる。大丈夫よ。戻ってきて」

 竜也は来た時と同じように噴射しながらゆっくり戻り始めた。ロッドは正常になったが、セイルを起動させるのは竜也が戻ったあとだ。しばらく待っているしかない。また佐伯のメールを思い出しそうになるが、意識から追い出す。今は関係ない。

 次の瞬間、竜也の呻く声が聞こえた。同時に、船内に警報が鳴った。早苗は血の気が引いたが、冷静さは失わなかった。

「どうしたの?」

「宇宙服が……」

 そのまま声が途切れた。モニターを見る。竜也は移動していたが、噴射はしていない。手足も動いていない。慣性で漂っているだけだ。意識を失った。救出に行かなければ。

 同時に船内の警報は、数ヶ所の破損。メンテナンスロボットを起動させると、自動的に問題箇所に行って修復を行う。こちらはあまり問題ではないようだ。

 早苗も宇宙服に着替えた。宇宙空間に漂っているのはガスだけではない。まだ観測されていないが、太陽圏を球形に大きく囲んでいる構造があるという。それは彗星の生まれる場所『オールトの雲』。微小な氷の粒が、時に太陽系を目指してやってきて、それは彗星になる。氷の粒に当たる確率は極めて低いがゼロではない。コーネルの速度は、既に秒速約千二百キロ。微小な粒でもぶつかれば恐ろしい破壊力となる。早苗は感情を殺した。宇宙飛行士なら当然だ。エアロックから外に出る。スライドワイヤーは既に竜也が使っているので、船の先頭までは噴射して移動した。そこからロッドに沿って、竜也の所まで移動する。竜也はゆっくりとこっちに向かってきていたが、もはや意識的ではなく、向きも移動方向とは関係ない方を向いていた。早苗は竜也を受け止め、その体を抱えてロッドの根元まで戻る。竜也とロッドの根元とをつないでいるワイヤーを外し、今度はスライドワイヤーを使ってエアロックまで運んでいった。エアロックから中に入れ、人工重力帯の処置室に入り、医療システムを作動させつつ宇宙服を脱がせたが、宇宙服の中にいたものは、既にほとんど人間の原形をとどめていなかった。宇宙服に穴があいた結果、中の気圧を保つことができなくなり、肉体内部の圧力が自分自身を破壊してしまった。予想も覚悟もしていたはずだったが、嘔吐感がこみ上げ、感情が混乱してパニックが起きかける。吸引式のダスターに嘔吐して。頭を抱えたまま、しばらく収拾のつかなくなった感情に流され、涙と嗚咽にまみれた。竜也はもう生きていない。太陽圏の外、地球から遙か離れた場所で一人になってしまった。計画はもちろん続行できない。

 何時間か分からないほど長いことうずくまり、涙も涸れ、喉も渇き、空腹感を自覚して喘いだ。竜也の亡骸はそのままに、自分の宇宙服を脱ぎ捨て、居住空間に行き食事をした。味など分からないのだが、とにかく空腹だった。あらかた食べてしまうと、頭が働き始めた。クリストファーに報告をしなければならない。報告が着くまで十四時間、返事が来るのはそれから少なくとも十四時間以上。地球に帰るためのプログラミングをしなければならない。それにしても、今この船はどうなっているのだろう。竜也が彗星のかけらに襲われた時、この船も数ヶ所破損して、メンテナンスロボットを向かわせたのだが。

 早苗は制御室に向かった。コンソールで確認すると、ロボットは全ての作業を終えていた。この船に異常はない。切ってあったマグネティックセイルを起動させる。今度は正常に展開した。コーネルからまっすぐ前方に、つぼみの形状になって展開する磁場。光速の六パーセントで星間雲を切り裂いていくためのナイフだ。この船はヤヨイに向かって進んでいける。しかし、一人では行けない。この先二十年もたった一人では、あまりに孤独すぎる。

 報告をすると帰還命令が来るだろう。元々、二人では人数があまりに少ないのではという意見もあったが、人が一人死ぬような事故は起こらないと考えていた。今度は四人以上にはなるだろう。船の大きさも、装備も強化しなければならない。備蓄も増やさなければならない。貴重な反水素の燃料ももっと必要になる。そんな船はいつできるのだろうか。コーネルだって、決して小さい船ではないのに。一年後、十年後、五十年後……そうこうしているうちにヤヨイは地球から遠ざかっていくので、有人の計画そのものが成り立つかも分からない。でも、もう自分には関係ない。竜也を失った以上、自分の役目はここで終わる。早苗はため息をついた。報告書を打ち込む手がなかなか進まない。竜也の遺体を処理した。もう冷静だった。乗組員が死ぬことは全く想定されてはいないわけではなく、遺体を包むための袋が用意されていた。袋ごと宇宙空間に放出すると、長期間で完全に分解され、星間雲と混ざって消えてしまう。いわゆる宇宙の塵となるのだ。この袋は自分の分もあるのがおかしい。自分が死んだ場合は、もう誰も処理できないのに。

 突然メールが来た。ディスカッショングループからヤヨイの最新画像だという。早苗は何気なく開いてみた。そしてその画像を見た時、あまりのことに体が固まった。そのヤヨイには模様がなかった。それは普通の星のように、光る球体となっていた。ただの変化だけなら驚かなかっただろうし、ヤヨイは変光しているのも分かっている。ディスカッションは混乱していた。これまでと同様の変光の範囲内だという人もいれば、何か大きな変化の前兆だという人もいる。早苗には、その映像はあることを思い出させた。あの万界散華のイベントで、曼荼羅が変化していって、模様が増殖していったあと、最後には光る球体になってそれから急に全てが消滅した。増殖が飽和して、一気に消滅する。きっとヤヨイも同じように、光が消滅するだろう。誕生から消滅という一サイクルがある。曼荼羅はヤヨイを示している。それは自分の直感に過ぎないとしても、もう確信していた。そして、佐伯はきっと何かを隠している。自分の知らない何かを知っているのだ。

 早苗の気持ちが変化してきた。たとえ一人でも行かなければ。一人でも大丈夫という意味ではなく、自分が行かなければならないからだ。そしてこの船は、その力を持っている。ヤヨイはこのあと消滅するのだろうか。いや、光は消えるかもしれないけれど、存在は消滅しないと思われた。これまでも変光のサイクルを繰り返しているからだ。

 クリストファーに出す報告書を作り直した。マグネティックセイルの修理と事故のこと、竜也を失ったこと、そしてそれでも計画を続行する意志があること。この船は一人でも十分航行させられる。戻って再度船を造り、計画し直すには時間がかかりすぎ、ヤヨイは手に届かない遠くへ去ってしまうだろう。

 報告書を送ってしまうと、あとは待つだけだった。どう判断が下されるか分からないが、戻ってこいという指示だとしても、従うつもりはなかった。ただ、コーネルは遠隔でもプログラムを書き換えられるから、強制的に帰還させることは不可能ではない。

 佐伯にもメールを出さなければならない。何か理由があってこの計画に近づき、参加するようになったに違いないのだ。佐伯にも竜也の死を伝えた。感情的な書き方にならないように注意した。今の恋人を失ったから、かつての恋人に戻ろうなどという気は全くない。そんな風に取られたら困る。

「あなたは万界散華を理解するようになったのでしょう? イベントで見た曼荼羅と同じ現象がヤヨイで起きたとしたら、いったいどういう意味だと思う?」

 こう書いたところで、前と同じく偶然とか関係ないなどという答えが返ってくるだけかもしれない。ただ、今回は違うような気がする。竜也を失った自分に近づいてくるから? いや、もしかして……竜也が死ぬことを知っていたのでは? まさか……まさかそれはないだろう。

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