3.

 反水素エンジンの性能は計画通り素晴らしい加速を見せた。静止軌道上の数ヶ所の工場で生まれた貴重な反水素は、このコーネルのために集積され、宇宙船を囲む細いリング内に封じ込められている。リング内は磁場が強固に形成され、中の反水素を自由に誘導できる。反水素を少しずつ誘導して取り出し、通常の水素と反応させて生まれる対消滅の莫大なエネルギーが、コーネルの推進力となる。リング内の反水素は、あらゆる通常物質と反応しエネルギーとなるので、リング内の磁場が少しでも狂ったらそれだけで大爆発を起こし、一瞬にしてコーネルごと消滅させてしまうだろう。そのため、磁場の形成には何重ものバックアップ装置を用意していた。また、リング周囲の磁場の影響が、リング内に及ばないようにする工夫も必要だった。

 コーネルの太陽圏内での最高速度は光速の0.5パーセント。本格的な加速は約五ヶ月後、太陽圏の縁、太陽風の影響がなくなるヘリオポーズを抜けてからということになる。宇宙線や星間物質の分布がよほど想定外でない限り、ここから光速の六パーセントまでの加速が始まる。有人の宇宙船で、この速度を達成したことはない。

 コーネルは太陽系内を順調に航行していた。ソーラーセイルの旅客船が行き来する現代では、太陽系内の移動も珍しくはない。早苗も幾度も経験していて、木星軌道の手前に広がる小惑星帯などは見慣れた景色だった。しかし、反水素エンジンのコーネルは速度が全く違い、ソーラーセイルの宇宙船の最高速度を軽く超えてくる。加速度は通常1Gに調整されており、加速中は回転による人工重力を止め、進行方向が上になるような状態で過ごす。こうすれば体の血液も自然なバランスを保つことができる。この加速は約三十二時間続く。

 加速中、あるいは加速が終わって太陽系内を移動中、二人の仕事は意外なほど多かった。速度や加速度による空間のゆがみの測定や、宇宙線の変化の測定、星の観測など、決まったスケジュールの作業と依頼任務の遂行、さらに日々データが送られてくるヤヨイの姿から得られる情報を整理して理解しなければならない。今のところ、ヤヨイが危険な物体であるという情報はない。しかし、画像からさらに奇妙なパターンが読みとられた。ある囲まれた模様があると、それと相似形の模様が何ヶ所も見つかるというものだった。いわゆるフラクタルに近いが、全体に統一感があるわけでもない。スペクトルからは一般的な星の構成要素が確認された。ヤヨイは星団ではないかという説が出たが、それにしては密集しすぎている。ヤヨイの大きさは推定で太陽の約七倍しかない。その範囲に数十の星が存在することはあり得ない。ヤヨイの手前に何か重い星があり、重力レンズ効果で光が分散しているのではないかという説もあったが、超軽量観測機によればそんな天体は存在していない。

 それにしても、ますますあの時の映像に似てきたと早苗は思う。少し気が引けたが、佐伯にメッセージを送ってみた。

『今のヤヨイの映像は、万界散華のイベントに出てきた球体に似てない? 何か関係あると思う?』

 メッセージが届くまでに、既に一時間近くかかるほど地球から離れてしまっている。返事が来たのは三時間以上経ってからだった。

『曼陀羅には意味がありますが、ヤヨイとは関係ないでしょう。科学的な調査なので、宗教的な観点からは離れた方がよいと思います』

 音楽の中、浮遊していたあの球体は、そういえば曼陀羅と呼ばれていた。仏教で言うそれとは意味が少し違うようだが、それでも万界散華自体は一応仏教系なので、いわゆる曼陀羅と関係がないわけではないようだ。球面で動く模様や分裂する生命のことなど、佐伯に説明された気もするがやはり思い出せない。気になるので万界散華をあらためて調べようとしたが、情報検索しようにも地球へのアクセスに一時間かかるところでは、地球のネットクラウドは使えないも同じだった。佐伯に質問をするのが手っ取り早いが、過去の恋人と何度もプライベートなメッセージをやりとりするのは嫌だった。ましてあの時代に行ったイベントについてだから、変な勘違いをされても困る。

 ここで早苗は思いつく。テラを使えるかもしれない。テラの情報は膨大で、図書館に行けば本まで読めると言われている。早苗はコーネルの中を移動した。今は加速中ではないので、湾曲している床を歩いていく。そういえば竜也はどこで仕事していたろうか。仕事中は別々の部屋にいることも多い。テラの部屋に入ろうとすると、ロックがかかっていた。中に誰かがいるとロックがかかる。竜也がテラを使っているのだ。どちらかというと娯楽装置の印象が強いので、仕事中に何をやっているのかと一瞬思うが、自分の方も仕事中にテラを使おうとしていることに違いない。グラスでコールしてみた。コールでは応答しなかったが、しばらくして扉が開いて竜也が出てきた。

「どうした?」

「どうした……って、あなたこそテラで何してたの?」

「ああ、噂の人間を探していたんだ。つまり……常に最新の情報を持っている人。どうも佐伯さんの話が気になってね。今地球からのタイムラグが一時間ぐらいある。その人と接触して一時間以内の地球の情報を持っていたら、ネットワークを通じた通常のデータ更新ではあり得ない。つまり佐伯さんの言ったように、実際の脳情報にアクセスしているかもしれないんだ」

 早苗は脳情報にアクセスの概念がよくつかめない。地球のネットワークにも遠くてアクセスできないのに、脳情報にはすぐにアクセスできるというのだろうか。光速以上に伝わるのか、あるいは情報そのものが空間を越えたものか。佐伯の説が多分後者だろうということは何となく分かる。

「その人間には会えたの?」

「いや、まだ見つからない」

「でもそれ、ミッションじゃないでしょ?」

「もちろん。あ、僕は今休憩時間だよ」

「そうだっけ……」

 仕事と休憩は、二人で時間を合わせていた気がするが、何となく合わせていたというだけで、別々の仕事をしていれば休憩時間も変わってはくる。

「で、君は?」

 竜也が訊いてくるが、気のせいか目つきが少し怖い。じゃましてしまったのだろうか。

「テラを調べごとに使えないかと思って……昔見た宗教の飾り物が、ヤヨイに似てるのよ」

「ああ、万界散華か……」

 かつて早苗がイベントに行った過去は竜也も知っているが、佐伯と一緒だったとはまさか思っていないだろう。

「確かに、ネット検索ができないんで、テラの方が情報が得られるかもしれないな……」

 そう言って、竜也はテラをすぐに使わせてくれた。部屋の扉を開けて入ると薄暗く短い通路がある。その突き当たりに今度はまたやや重い扉がある。それを開けて中に入ると、球形の空間で、透明な床と、中央に椅子があるだけの部屋の中に入る。周囲も上も、そして足下まで全てがスクリーンで継ぎ目も見えない。椅子と自分だけが浮いているように見える。早苗はグラスをテラ専用のものにつけ替えて椅子に座った。手元のコントロールパネルでテラを起動。生体認証が承認され、仮想環境に入る。行きたい場所は言葉で伝えればいい。

「万界散華総本部」

 早苗がそう言うと、目の前に地球が投影され、一気に日本へ降りていった。さらに東京郊外のある場所に降り立つ。映像は立体的で解像度も高く、本物と変わりない。左右の眼球位置を読みとり、専用グラスを通じて左右別の映像が見えるので、立体視が可能となる。前にテラを使ったのは数年前だが、知らない間に高精細になり進歩している。

 そこは平面状の広い敷地内に建つ、モニュメントのような曲面が多い建物の前だった。しかし見覚えはない。本部を建て替えたらしい。自分が佐伯と来た時は、曲面は使っていなかったが、装飾は多かった。今の建物は高さ三十メートルほどあるだろうか。建物内に入ろうと、手元のカーソルを操作したが、進むことはできなかった。データがあれば中に入れるはずだが、外観データしかないらしい。早苗は周囲を見回す。人が何人も歩いているが、よく見ると歩き方も一人一人似たようなもので、個性が感じられない。人工知能が歩いているだけで、多分会話も機械的だろう。クリストファーは本物そっくりだと言ったが、どこを見てたのだろうか。あるいは場所によりもっと個性的な人が集まっているところがあるのかもしれない。試しに、近くを歩いている男性に声をかけてみる。

「すいません」

 男性は気づいて立ち止まり、こちらを向いた。

「何でしょうか?」

 自分を見ているように見えるが、実際はどうだか分からない。

「この建物、何だか知ってますか?」

 男性は言われた通り建物を見た。

「分かりませんね……不思議な建物ですね。巻き貝みたいだ」

 割と自然な反応なので、早苗はやや驚く。かなり性能のいい人工知能だ。

「万界散華はご存じですか?」

「知りません。食べ物ですか?」

「宗教です」

「キリスト教ですか?」

「ええと、仏教に近いです」

「そうですか。あなたは有名な仏教のお寺には行ったことがありますか?」

 質問されるとは思わなかった。行ったことはないし、日本にどんな寺があったか、とっさには思い出せない。

「ええと……すいません、時間がないので失礼します」

「ごきげんよう」

 男性は別れ際ににっこり笑った。誰とでもああいう笑顔で別れるのだろう。男性は再び歩き出した。確かに性能はいいようだが、何だか底が浅い感じがする。誰に話しかけてもこんなものだろう。会話を続けようとしているので、暇つぶしにはいいのかもしれない。

 早苗は建物の方を調べることにした。建物周囲を移動する。中には入れないようだし、建物の後ろ側は暗くて形状も分からなかった。道路側からスキャンしたデータしかないらしい。都市の中心部や観光地などは、あらゆる方向と、建物の中までのスキャンデータを持っていて細かく作り込まれているが、重要でない場所はこの程度のデータしか持っていないようだ。時々、彫刻のように動かない人がいる。半身だったり、足だけだったりする。建物をスキャンした際に写り込んだのだ。テラのシステムを作る際、人物は極力消去してその部分を補完するはずだが、消去しきれないところもある。量子コンピュータを駆使するテラにも限界があった。

 もう戻ろうと思った時、建物の一部に球体を見つけた。手をかざしその部分を拡大する。

「ヤヨイだ……」

 早苗はつぶやいた。球体に刻まれたまだらの複雑な模様。これもある部分の模様と、相似形の模様がいくつも見られる。佐伯は関係ないだろうと言ったが、直感には何となく自信がある。何か関係があるのは間違いない。曼陀羅と呼ばれていたが、どんな意味を持つのか知らなければ。でも、あの様子では佐伯は教えてくれそうもないし、いっそコミュニティで話題にしてみるか。それよりライブラリでも見た方がいいかもしれない。

 時間もないので、早苗はテラを終了させる。


 食事は必ず一緒に食べるようにしている。普段は大量にストックされているテリーヌのような宇宙食が多い。形や食感の変化は少ないが、味は多彩でなかなか満足できる。ストックされている宇宙食はテリーヌ状以外にも何種類もあって、普通の食事もあるし、世界の代表的な料理もあり、豪華な食事もしようと思えばできる。食事は栄養補給であると同時に、大事な息抜きでもある。

 今日はテリーヌ状のものだった。いずれリサイクル機能が本格化すると、排泄物や廃棄物からこの手のものが再生産される。捨てたものからそんなものができるのかと思うが、分子レベルまで分解して再構成すればそう難しくはないらしい。ただ、味などは画一的で、早苗も何度か食べたことがあるが、決しておいしいというものではないし、何より生理的な抵抗がないではない。そんなもの絶対に食べないという人も少なくない。早苗はそこまで抵抗はないが、竜也の方がどうもその傾向が強い。いずれにしても再生産されたものは非常用とでもしておき、極力ストックされている普通の宇宙食を有効に使った方が精神的にもよさそうだ。リサイクル装置は最新の性能を持っていて、布状のものや紙状のものも作れる。それらは日常の生活に使われる。

「万界散華の建物でヤヨイのようなものを見たわ。曼陀羅って呼ばれていたの」

「テラの話か?」

「うん」

 ナイフとフォークを使って、二人とも少しずつ口に運んでいる。濃厚で栄養価も高いのだが、ボリュームが少ない。慣れると胃の方が合わせてくれるらしいが、二人ともなかなか慣れない。

「曼陀羅って、あの仏教の絵か? それが立体化されているのか?」

「仏様の絵とかは描いてなかったけど。複雑で有機的な模様。確かに無限に増殖していく仏教の曼陀羅と同じかと言われればそんな気もするわ。あなたも見てみたら?」

「宗教ものに興味はないな。僕は宗教とは距離を置いているよ。混乱する」

 佐伯も宗教的な観点からは離れろと言うし、これは日本人固有だろうか。欧米の科学者ではキリスト教徒も珍しくはない。

 あの曼陀羅がどういう意味を持つか、佐伯なら知っているはずだが、前に訊いた限りでは教えてくれそうもない。もっと頼み込めばいいのだろうか。

「他に何か分かったのか?」

「万界散華がどんな宗教だったか忘れちゃって……今度はテラのライブラリを見てみる」

 そう言いつつも早苗はいくつか思いだしていた。佐伯と見たイベントでの教祖、つまり佐伯の父親はあまり印象がよくなかった。何か知的なところがなくてギラギラしていた。それより教祖の祖父である開祖の方が印象的だった。開祖の講演の映像などは残っていて、今も使われている。佐伯万里(ばんり)という名前だった。神秘的というより、知的な印象を受けた。彼には父親が二人いた。二人のうち一人は聖人で、一人は音楽家だという。二人の父の肖像画が並んでいた。イベントで使われている音楽は全てその音楽家が息子のために作ったという。名前は確か二重ラセンと言った。変わった名前だったから覚えている。

 そうだ、あの音楽は不思議なものだった。印象的なので記憶に残っている。瞑想を促すようなものだったが、もっと深い吸引力があった。口ずさめないような複雑な旋律で、まるであの曼陀羅がそのまま音楽になったようだった。

 竜也にいろいろ話そうと思ったが、まだ佐伯の名前を出す気分ではない。いずれ分かるだろうし、それがプロジェクトの佐伯と関係あるとは思われないだろうけど。そもそも、万界散華の曼陀羅とヤヨイが関係あるというのは、自分の直感でしかない。

 グラスにメールが来ているサインが出ていた。二時間前に出されて、今やっと到着した。開いてみると、ヤヨイに関する最新のニュースだったが、内容は意外なものだった。通常、ヤヨイの変光と重力波の変動がシンクロしているが、明らかな誤差が見られるという。ヤヨイは外見がまだらのようなパターンを持つものと判明しているため、変光といっても全体を平均化した値でしかない。重力波の測定値と誤差があっても不思議ではないのだが、それでも無視できない誤差があるという。

「どういうことかしら?」

「分からん。重力波の検出装置は敏感だからな。同じような方向に別の変光移動体があれば反応してしまうだろう」

 確かに静止軌道上に建造された検出装置は敏感だった。様々な方向に向けると、そのたびにラジオの電波のように超新星爆発の波動を得ることができる。

「でも、無視できないって、なんか不安になるわね」

 そう言うと、竜也は黙ってうなずいた。

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