2.

 エレベーターは一週間かけて地球の静止軌道上のTSS(ターミナル宇宙ステーション)に着く予定だ。グラスだけあれば一応仕事ができるが、やはり研究室や施設の大型画面やしっかりしたキーボードの方が使い心地がいい。グラスを使った目の前に浮き出る仮想キーボードはどうにも使いづらい。TSSには、今回のプロジェクトの拠点の一つがある。

 新しい画像は、既に研究者達の間で議論になっていた。未知の物質だという人もいれば、単なる画像処理プログラムのミスだという人もいる。別の宇宙を見ている穴だという人もいる。自然物には見えないので、異星人からのメッセージだという人もいる。あるいは異星人の巨大な宇宙船だという人まで現れた。極軽量観測機により、いくつかの恒星の惑星に、生命らしき存在を確認できてはいるが、高度文明ではなさそうで、いずれも恐竜以前の原始地球というレベルだった。もし、ヤヨイが巨大な宇宙船なら、初めての高度文明との接触ということになるが、それには否定的な意見が多い。

 エレベーターが巨大なリング状のTSSに着いた時、これで一息つけるという気分だった。早苗にとっては最も慣れているのが、この遠心力が生み出す人工重力の環境だった。TSS内のプロジェクト専用室に着くと、リーダーのクリストファーを始めとするスタッフ数名が二人を待っていた。クリストファーの隣には少年とも青年ともつかない、美しく若い男がいた。確かアドリアンという名前で、いつも傍らにいる。仕事上、専属の助手なのだが、恋人だという噂もある。

「君達に知らせがある。いきなりで悪いんだが、メンバーの変更がある」

 クリストファーが唐突にそんなことを言う。メールでもそんな話はなかった。

「こんな直前になって? 誰が変わるって?」

「ロイが家庭の都合でどうしても故郷に戻ることになった。代わりに来るのは日本人だ。いいだろ。民族の仲間が増える」

「僕達はもう日本人じゃないがね」

「誰かしら? 私達の知ってる人?」

「宇宙の専門家じゃないが、コミュニケーション能力が高い。ヨシヒサ・サエキという男だ」

 その名前を聞いて、早苗の顔から血の気が引いてくる。まさか、あの彼のはずがない。同姓同名に違いない。

「聞かないな。早苗、知ってるか?」

 竜也が何気なく訊いてくるが、返答に戸惑う。

「ええと、同じ名前の知り合いがいるけど……多分違う人ね。何の専門家?」

「科学と宗教学だ。本人の実家が宗教団体をやっているらしい。でも彼はそこから抜け出てきて、しばらく実業家をやってた」

「ふうん、変わった経歴だな。どうして採用されたんだろう」

「僕が採用したわけじゃないが。理論的で明晰だそうだ」

 早苗の感情が駆け回っている。同姓同名ではなかった。経歴からして彼に違いない。でも彼は理論的でも明晰でもなかった。どちらかというと感情的だったはずだ。実業家をやっている間に性格でも変わったのだろうか。

「早苗、どうした? 気分でも悪いか? 顔色がよくない」

 竜也は察しがいいが、今は正直に言いたくない。

「う……うん、ちょっと。着いてすぐバタバタしてたし」

「サエキが来るのは三日後だ。来たらすぐ紹介するよ」

 早苗は自室で休むことにした。佐伯義恒……本当にここに来るのだろうか? しかもロイの代わりだなんて。宇宙に出ても彼が直接自分達とコンタクトを取る可能性がある。ロイは通信担当だった。

 早苗は呼吸法を用いて呼吸を整える。いかなる状況でもセルフ・コントロールができるのは自分の長所のはずだ。仕事で来るのだから、仕事として接すればいい。過去は過去だ。

 佐伯はヤヨイのあの画像を見たのだろうか? いや、あれは補正してできたばかりのはずだ。今見たところで、プロジェクトに今すぐ関わって、ここに来るなんてありえない。でも、あのヤヨイの画像は似ていた。ほぼ同じと言ってもいい。佐伯に連れられて行った新興宗教「万界散華」のイベント。佐伯は教祖の息子だったが、反発していてほぼ縁を切っていた。だからあのイベントへの参加は潜入のようなものだった。この宗教を潰すために君に見せておきたいと言われた。早苗はそんな佐伯の態度に惹かれていた。二人とも若かった。結局佐伯は自分の仕事を見つけたため、親の教団を潰すような行動は取らなかった。

 イベントで見せられた立体映像。瞑想的な音楽とともに無限に模様が分裂する球状の万華鏡。あれはまるでヤヨイの姿だ。うごめく模様。そこに命が生まれ、分裂していく。分裂は一つが二つに二つが四つに……早苗は気づく。竜也が見ていた絵と同じだ。何か引っかかると思っていたが、これだったのか。生命は可能性の数だけ無限の分裂を繰り返し、それだけの世界が生まれている。しかし、全ては重なり、全てはつながりを持っている……竜也が見ていた樹の枝も、そんなことを表していたのかもしれない。分裂して生きていく全ての生命を幸福にするには、網の目のように愛をはりめぐらせよ……愛などと言う言葉を佐伯はバカにしていたが、決して悪くはないと早苗は感じていた。それでも佐伯に惹かれていたので、その宗教に手を出すようなことはなかった。

 しかし、これらは皆過ぎ去った話だ。佐伯が来たところで、お互い一人のプロジェクトメンバーでしかない。佐伯がこの仕事で採用された以上、向こうだってそのつもりのはずだ……でも、予感めいたものがあり、呼吸がなかなか整わない。いい予感ではない。自分がいると知っていて、ただのメンバーとして来るはずがないという予感。


 結局寝ていても落ち着かず、TSSの回転中心軸にある無重力エリアの展望室に行った。地球が見える。早苗は深呼吸をした。ため息のようでもあった。ここから見る地球は、地球から見た月よりも遙かに大きいが、やはり宇宙に寂しく浮かぶ、あまり大きくもない球体だった。一月足らずののち、ここからさらに自分達は遠くに去っていく。

 地球から離れれば離れるほど、人類の宇宙に対しての無力さや、頼りなさが感じられてくる。人間は宇宙空間では弱い。この施設からも、少しでも外に出ようものなら、空気がないのはもちろん、人体を破壊するほどの宇宙線にさらされる。地球から離れて、自分達は何をしに行くのだろうか。どれだけ、何をしたところで、それが大宇宙に対する自分達のあり方を変えることなど、少しもないのではないか。

「やっぱりここにいたのか」

 竜也が漂うように来た。

「探してたなら、グラスでコールすればいいのに」

「自分の勘を試した」

 竜也は早苗を抱き寄せた。早苗も身を預ける。自分には今、竜也がいる。佐伯が来ようが、そんなもの揺らがない。いや、そう思うこと自体、揺らいでいるのかと思い、自分の竜也に腕を回した。

「ここに来る佐伯っていう人、多分私の知り合いで間違いない」

「なんだ、そうか。どんな仕事してたんだ?」

「仕事はしてないわ」

 早苗の言い方で、竜也も察しがついたようだった。

「つきあってた?」

「若い頃ね」

 竜也は笑った。早苗も微笑する。

「そりゃやりにくいね。まあ、でも向こうだってもう自分の人生があるんだろう。気まずいかもしれないが、お互いもう大人だろう」

「だといいけど」

「まさか未練があるのか?」

「それはないわ。少なくとも私の方には」

「幼稚な真似をしたら、すぐにプロジェクトメンバーから外される……大丈夫だ」

 気のせいか、竜也が自分に言い聞かせているようにも感じる。

「それより、コーネルはここから見えなかったっけ? 僕達の船は」

 TSSから十数キロ離れ、同じ軌道上に宇宙船『コーネル』が浮かんでいるはずだ。自分達を遙か遠くに、ヤヨイまで運んでいく船。二人ともまだ立体映像でしか見たことがない。中心となる反水素エンジンと、制御装置、食料や燃料の貯蔵庫、バッテリー、リサイクル装置、これらが密集してユニットになっている。それとは別に回転による人工重力の居住空間がある。二十以上の部屋があり、七割は研究および実験用施設、三割は生活空間になってる。一室に仮想空間の体験ができるシステム『テラ』があり、疑似的ながら可能な限り『地球』を体験できるようになっている。世界各地の大自然や有名都市、中には実際に仮想人格の住民がいて、自由に会話ができる場所もある。膨大な記憶容量と十分な制御速度を持った量子コンピュータの開発で実現したこの装置は、何十年も前から研究と開発が続けられ、今では太陽系の各地に同じ装置が置いてあり、故郷を懐かしむ人や、地球を体験したい人達に利用されている。早苗も何年か前に使ったことはあり、悪くない体験ではあったが、やはり本物とは言い難い。今はもっと進んでいるのかもしれないが、あまり使う気にはなれないと思った。そもそもこの装置を積んでいる意味がよく分からない。娯楽設備のつもりだろうか。もっとも、竜也はこの装置の搭載を喜んでいた。長い年月宇宙を旅すると、時に地球が懐かしくなり、使いたくなるに違いないと思っているらしい。

 コーネルの先端からは、マグネティックセイルの磁場を発生させる細長いロッドが十二本出ている。太陽圏を抜けてから使用するものだ。細いので目立たないが、長さは百メートルほどで、コーネル全体よりも長い。十二本はそれぞれ一度外側に膨らんで伸びていて、先端部は一ヶ所に集まっている。全体としては花のつぼみのように見える。

 そして、コーネル本体をさらに巨大な細いリングが囲んでいる。この最外周のリングは燃料である反水素を保存しておくチューブで、中の完全真空空間で磁場を形成している。反水素はチューブ内を運動していて、必要な分、分岐したチューブからエンジンに誘導され、通常の水素と反応して、対消滅による莫大なエネルギーを生み出し、それが推力となる。

「見えないみたいね」

「まあ、搭載している反水素が間違って反応したら、数キロぐらいの距離じゃ安全じゃないからな」

「早く旅立ちたい」

「僕もだ。こんな中途半端な場所に留まっているのはよくないよ」

 早苗は、地球から迫りつつある何かを感じている。佐伯のことかもしれない。

「もう部屋に戻りましょう」

 早苗はそう言ったが、竜也は窓の外の、何もない空間を見続けていた。

「何か見えるの?」

「素朴な疑問だが、宇宙の果てはどうなっているのかな」

「水平線の果てがないのと同じ。有限であっても果てがないのが、大昔からの定説よね」

 そしてこの有限な宇宙は今自分達がいる一つだけではない。物理定数の違う無数の宇宙が生まれては消えている。膨張しない宇宙、光だけの宇宙、ブラックホールだけの宇宙など。様々に生まれた宇宙の中で、たまたま今の条件で生まれたこの宇宙に星が生まれ、銀河が生まれ、そして生命そして人類が生まれた。

「何かを感じたことはないか? その……遙か彼方から。何だろう……力のようなもの」

 竜也がそんなことを言い出すのは意外だった。

「人間が感じ取れるものは、何もないはずよ」

 重力は遙か彼方からも到達するが、力としては弱すぎる。


 最初のミーティングが終わって、早苗はややほっとした。佐伯の態度は完全にビジネスライクなものだった。もう十年以上前の話なので、当然といえば当然かと、心の中で苦笑した。佐伯は早苗と知り合いであったことは話したが、それ以上のことは何も言わなかった。

 佐伯は相応に年を取り、眼光もかつて見ていた鋭さがなく、穏やかなものだった。話し方も冷静で、理論的というのも分かる。メールアドレスも分かるはずだが、特にプライベートに何かメッセージが来るわけでもなかった。

 たまたま佐伯と二人きりになった時に、早苗は日本語で訊いてみた。ミーティングでは全ては英語だった。

「どのくらい覚えているの? かつてのこと」

 佐伯は特に表情も変えないが、何を言っているかは伝わったようだ。

「私がですか? あなたと同じくらいでしょう。過去は過去です。あまり思い出していると、仕事に差し障りますよ」

 一人称は『俺』だったはずだが、ずいぶん変わったものだ。微笑を交えたこんな言い方で、逆に諭されているみたいだ。早苗は安心したが、心のどこかで、まだわずかな不安を抱え、それが実は不安だけでなく、何かを期待していることに自分でも薄々気づいていた。この状況で何も起きないのでは、自分の存在が取るに足らないものだったように感じられてしまう。しかし期待することは間違いだと、自分に言い聞かせている。とにかく、早く離れてしまいたい。

 佐伯は超光速通信の試験に携わっていて、通常の通信と併せてコーネルの二人とコミュニケーションを取る役目もある。コーネルは地球から離れるに連れ、光速の通常通信ではだんだん時間がかかるようになってくる。ヤヨイは0.6光年の彼方。通常通信では片道七ヶ月以上かかる距離だ。こうなるとコミュニケーションといっても会話ではなく、大昔の船便を使った海外との手紙のやりとりのようになる。

 量子の性質を使った超光速通信はまだ実現していない。せめて二値の信号が送れれば、それだけでかなりのことができるようになる。コーネルには超光速通信ユニットが積まれるが、正常に作動するかは不明だった。

 コーネルには様々な実験装置も積まれる。ほとんどは地球からの制御となるが、人の手を必要とするものもあり、船内での二人のスケジュールはかなり細かく決まっていた。ただヤヨイに行くだけが目的ではない。史上初めて、人類が太陽圏を抜ける旅でもある。


 早苗と竜也がコーネルに乗り込んだのは、それから一ヶ月後だった。クリストファーや佐伯を含め数名で、TSSからボートで移動した。コーネルは既に回転による人工重力が作動していて、船内に乗り込むと普通に歩くことができる。全員乗り込んでも十分な広さだった。

「こりゃ快適だな。十人ぐらいのチームでも大丈夫そうじゃないか」

 竜也が言うと、クリストファーが鼻で笑った。

「食料や空気の消費にリサイクルユニットが追いつかない。港に寄りながら航海する船じゃないからな」

 確かにリサイクルユニットの効率は、まだ十分とはいえなかった。長期間である以上、なるべく少ない人数で行くしかない。とはいえ、早苗もさすがに広さと人数のバランスにはやや不安をおぼえる。

「なんか寂しくなりそう」

「二人なら乗り越えていけるさ、そうだろ?」

 用意していたかのようにクリストファーが言う。

「それに、『テラ』もあるしな」

 コーネルは住民まで再現した仮想地球環境システムを搭載している。全面スクリーンになっている一室がそれに割り当てられている。

「あれには期待していないわ。しょせん人工知能でしょ」

「今は本物そっくりだ。人と自然な会話もできる。まあスキンシップはできないがね」

「コンピュータと会話する気はないわ」

「中には実在の人間の脳情報をコピーしたヤツもいる。そいつに出くわすと面白いぞ。感情も持っているしね。生きている人間と変わりがない」

 クリストファーはテラを何度も使っているらしい。

「その人……人っていうか分からないけど、自分が生きているっていう自覚があるのかしら?」

「あるんじゃないか? そうだ、佐伯はどう思う? 宗教学の観点から。人間をもとにした人間と話すのは」

「私は宗教学者じゃありませんよ。ただ、実家の教団では脳情報などというものは存在していないと教えているし、私もある程度そう思いますね」

「脳情報が存在しないって?」

「本当に情報がある場所はもっと別の次元、三次元の人間一人当たり無限の領域を持った次元です。例えば情報が二次元で紙に書いてあるとしますね、三次元から見れば二次元の紙を同じ場所にいくらでも積み重ねることができます。それと同じで、情報を四次元以上で蓄積すれば、三次元しか把握できない私達の情報など一人の人間でいくらでも所有できるんです。正確には、私達の世界は時間軸を入れて四次元ですがね」

「三次元の我々が、別次元に情報を蓄積するなんてできないんじゃないか?」

「普通はできません。ただ、量子のレベルまで縮小すると、この世界は十一次元あります。生命というものが量子のレベルを含めて進化、つまり自然淘汰してきたとすれば、私達は知らないうちに高次元を理解あるいは利用してきた可能性はあるはずです」

 脳にどのように情報が蓄積されているかは、まだ解明されていない。また記憶すべき情報を取捨選択するしくみも分かっていない。ただ、脳細胞の数を全て記憶に使ったところで足りないのは分かっている。

「それとテラは何が関係あるんだ?」

「コピーだと思っていた情報というのは、実は蓄積された本物の脳情報じゃないかと思っています」

 ここで、今まで黙っていた竜也が会話に入った。竜也はたまにテラを使っている。

「そういえば不思議な話があって、テラの住民で、なぜか現実世界とリンクしている人がいるらしい。最近のできごととか、仮想空間では知り得ないことを、なぜか知っている」

「そういうデータなんじゃないか? 最新データは常に更新されるし、新しいことを知っている人が追加されていてもおかしくないな」

「いや、同じ人に何度か会っても、常に新しいことを知っていたりするらしい。まるで現実のことを知っているかのように」

「竜也さんの話が本当なら、その人物はモデルとなった現実の人物の脳情報を参照にしている可能性がありますね。脳情報は別次元に保存されている、という教団の説と一致します」

 早苗は唖然としていた。粗暴で自分の教団など唾棄していた佐伯が、いつの間にこんな理解を進めていたのだろう。佐伯を見ている早苗に気づいたのか、佐伯は早苗の方を見て、にっこり笑った。その笑顔も見たことがない。教団に洗脳でもされたのだろうか。

 どのみち、自分はテラなど使う気にはなれないと思っている。

 コーネルに二人を残し、去っていく時間がきた。

「じゃあ、現実に会う機会はもうないかもしれないが、成功を祈る」

 クリストファーがそう言って二人と握手して抱擁した。クリストファーの隣にいるアドリアンとも、無言で握手を交わす。褐色の肌が印象的で、きれいな瞳をしているが、何かしゃべったのは聞いたことがない。他の人ともそれぞれ握手と抱擁を交わした。佐伯は握手の際、早苗と目を会わせ、また微笑した。

「ご無事で帰還を祈ります」

 それだけを言った。あとは通信で話すことにはなるが、現実で顔を見るのは最後かもしれない。今の彼なら恋人として愛せるだろうか、などという考えが一瞬よぎったが、それに動揺することはなかった。何をどうしようが、もう本当の別れに違いない。

 コーネルの窓からボートを見送り、本当に二人だけになった。急に寂しくなった気がした。本当にこんな場所に二十年近くもいられるのだろうか。竜也を見ると、竜也も同じようなことを考えていたらしい。目が会う。

「まあ、慣れるだろう」

 そう言って竜也は微笑した。

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