第三部 創発

1.

 一瞬の振動の後、上昇が始まった。すぐに建物を抜け、窓の外では人工島の陸地が視界の下の方に去っていく。そして人工島の周りを囲んでいる青い海が見え始める。赤道直下の濃い青空の色を反射した海だ。

 宇賀神早苗は、シートに座ったまま、窓の外をぼんやりと見ていた。軌道エレベーターには何度も乗っているので、この景色も初めてではなく、新鮮とも言えない。ただ、もう二度とこの体験をすることはないかもしれない。地球を離れ、太陽系を離れ、今度戻ってくるのは、何十年も先かもしれない。あるいは帰ってこないのかもしれない。その思うと何とも言えない、切ないような、寂しいような思いがこみ上げてくる。

 人生で宇宙で過ごしている時間の方が多く、自分の生活圏はもう宇宙空間だと思っていたので、こうした気持ちになるのは不思議なものだと思った。生まれ育った大地。生命の全てを生み出した偉大な存在。人間はそう簡単に、地球を心から追い出すことはできないようだ。

 エレベーターは上昇とともに加速を続け、時速二百キロになると、そのままの速度を保ち、さらに上昇を続けてひたすら地球を離れていく。窓からは湾曲した水平線が見え始め、やがて空の色は黒色に限りなく近づき、重力も失われて、体が浮いてくる。

 向かい合わせになっている前の席に、夫の宇賀神竜也が座っていて、やはり窓の外を見ていた。

「どう?」

 早苗が訊く。竜也は窓の外から早苗に視線を向ける。

「どうって?」

「何か感慨のようなもの」

「うん、やっぱり寂しいもんだな。わけの分からない偉大さが、今日はひときわ感じるよ」

「そうね……宇宙空間には、こんな広大な生活圏はないしね」

 夫婦だから、だいたい考えていることは分かるし、近いとも思う。あるいは、近いから今回の計画に選ばれたのだろうか。

 竜也が、目頭を押さえた。早苗は笑いがこみ上げた。

「やだ、泣いてるの?」

「違うよ。搭乗口にあったろ。あの絵をずっと見ていて、なんか目が疲れた」

「ああ、あなた、あれをずっと見てたわね」

 ロビーの壁に大きな絵が飾ってあった。始めは模様のついた壁の一部かと思ったが、油彩の絵画だった。群青の背景に、白く煙るように浮かぶ樹々が無数に描かれていた。見ると樹の一本一本がまた細かく枝分かれする微細なもので、枝など目に見えるかどうかの細さで描いてある。樹の幹が不思議で、まるで人の肌のように白くなめらかで、そこに血が通っているかのように、薄い血管のような赤い筋も見えた。微細に描かれた樹が、何百本、何千本も描かれている。いったいどれくらいの時間をかけて描かれたのか、見当もつかない。ちょっと不気味な絵だということと、今時の画家も大変だとしか早苗は思わなかった。

「あの絵の作者、日本人なんだな」

「へえ、そうなんだ。有名な人かしら」

「山吹妃紗って名前だった。絵のタイトルが『幸福に生きよ』ってものだったな。さっき調べたけど、百年ぐらい前の画家で、結構有名で、ニューヨークで個展をしたこともあるって」

「ふうん」

 夫とは感覚が近いと思っているが、早苗は絵に関心はない。いや、竜也もあまりないはずだが。あれはそんなに魅力的な絵だったろうか。「幸福に生きよ」というタイトルも何だかありきたりだと思った。樹の一本一本を、人間一人一人になぞらえて、みんなで大きく成長しようということだろうか。

 それより日本という国の名前をひさしぶりに聞いた気がする。早苗も竜也も、生まれたのは日本だし、両親も日本にいる。かつての先進国で、豊かな技術立国だった。今でもどうにか、機械部品の製造などで成り立ってはいるが、もう先進国と思っている人はいない。早苗が子供の頃、既に日本は移民だらけで、貧富の差は激しく、発展途上国並のスラム街もできていた。裕福層を中心に、国外脱出が盛んだった。早苗も竜也も割と豊かな家に生まれ、独身時代から米国で宇宙開発の仕事に携わっていた。二人とも米国の永住権も持っていたし、結婚後には国籍も変えてしまった。

「まだ目がくらくらする……」

「何をそんなに注目していたの?」

「あの樹は、一見雑然と描かれているけど、よく見ると樹の枝は一本二本四本八本と、ちょうど倍々になって分かれていくんだ。どの樹もそうなんだよ。それに気づいて見続けていたら、目がおかしくなった」

「やだ……そんなことで」

 早苗はまた笑おうとしたが、何かが引っかかった。

「樹の形は一本一本違うんだけど、どんな形の樹でもそういう枝の法則を持っているんだな。あれは何かを意味しているんじゃないか」

「そうね……なんかその話、どこかで聞いた気がする。生物学の授業? ……違うね。なんだろう」

 その時、視角の隅に水色のサインが光った。竜也も同じらしく目を合わせる。

「来たか?」

「ええ、多分ヤヨイの新しい画像よ」

 早苗も竜也も眼球を一定の規則に従って動かす。この動きにより、グラス(眼鏡型端末)の表面に必要な情報が表示され、目の前十数センチに情報が浮かんでいるように見える。二人が見たのは、研究機関から届いているメールと、それに添付されている複数の画像だった。画像はサムネイルになっているので、一つ一つ選んで拡大してみる。

「前と同じだな……補正でこの程度か」

 画像処理は改善されているはずだが、どの画像も毎回見ているのと同じように不鮮明だった。球形の光だが、光は一様ではなく、明るいところや暗いところがあるまだら模様だった。

「観測機は光速の半分で通過しているから、これが限界のようね」

「四枚目を見てるか? このスペクトルは初めてじゃないか?」

「確かに。新しい物質が混じっているみたいね。色々な物質が現れては消えているんだわ」

 その発見は半世紀前になる。今まで観測装置のノイズだと思われていたごく薄い光点。しかしそれが宇宙空間を移動している何かだと判明した。わずかな明るさを持ち、その明るさは変動している。それ自身が回転しながら移動する変光星のようなものかと思われたが、さらに奇妙な性質が明らかになった。光の変動に合わせて、地球で観測される重力波が変動していた。恒星ほどの質量を持ち、その質量までも変動しているとしか思えない星だったが。こうなると星といえるのか分からず、未確認移動体とされた。

 移動体は、全天で十数個見つかっている。そしてその移動体の一つが、地球のごく近くに存在していた。ごく近くといっても、0.6光年は離れている。

 そこで、数々の発見をした極軽量無人観測機を移動体に向かわせることになった。無人観測機は数グラムの質量しかないが、観測装置と通信装置と薄いセイルを持っている。宇宙空間上に浮かぶ巨大装置から放たれる大出力ビームをセイルに当てて、推進力を発生させる。光で加速するため、理論上は光の速度まで出せるが、実際は光速の半分程度までが限界であった。それでも通常のロケットの速度に比べ桁違いに速い。一ヶ所につき数十の無人観測機を向かわせ。それぞれがターゲットの付近を通過する際に、写真などを撮り、観測結果を送ってくる。観測機は定期的に移動体に向かって撃ち出されるため、観測結果は現在でも定期的に送られてきている。一つの無人観測機は、一回の観測結果を送るとエネルギーがなくなってしまうが、すぐにターゲットを通過してしまうので、問題にはならない。ただ、宇宙のゴミは増えてしまう。

 最初の観測機の撃ち出しから、観測結果が送られてくるまで約二年を要したが、その間に有人観測船を向かわせる計画が始まっていた。太陽系を抜け、太陽圏を抜ける恒星間航行は長いこと研究段階であり、実現は難しいと思われていた。しかし反物質の生産工場が稼働してからは飛躍的に技術が進んでいった。無人の実験機であれば太陽系の縁まで行ったこともある。当然、移動体まではそれよりも遙かに遠い。また、移動体の実体に不明点が多い以上、危険も伴うことになる。

 しかし十分な観測結果が来るまで待てないのは、移動体が次第に地球から遠ざかっているためでもある。有人観測船は反物質のエンジンを使用するが、それでも現在の技術で出せる速度は光速の六パーセント程度と推定された。0.6光年の目的地に到達するまで十年かかる。うまく往復できても、地球に戻ってくるには二十年。人の一生の中では少なくない年月をかけたプロジェクトとなる。

 最初の観測機から初めての移動体の映像が届けられ、それを見たある研究者が、これは「ヤヨイ」だと言った。その名前の芸術家の作品に似ていると直感したためと言われている。以来、この移動体はヤヨイと呼ばれ、正式にもそう名付けられた。

 有人観測船の計画から実施まで十年を要した。生命維持に必要な物資のほとんどをリサイクル装置でまかなうとしても、二十年分の生活ができる物資を積み込むのは容易ではない。観測船の乗務員は二名とし、人選は慎重に行われた。宇宙での活動経験があり、夫婦で、子供がいない、および作る計画がないこと。最終的に選ばれたのが、日系の宇賀神竜也、早苗夫妻だった。遙か昔の戦争を引き合いに出され、カミカゼのようだと言われた。

 横の窓から地球が見えなくなった。地球は足下の方向に見えるはずだが、その方向を見るにはエレベーター本体の端まで行かなければならない。エレベーター本体はいくつもの個室や共同スペースなどが組み合わされ、一つの建物のようになっている。

「地球を見に行かない?」

 早苗が訊く。

「あとで行くよ。見えなくはならないだろ。それより、運動してくる」

「もう行くの?」

「今ならすいてるはずだ」

 既に重力がなく、シートベルトを外すと体ごと浮き上がってしまう。竜也はトレーニングルームに出かけた。無重力に長いこといると筋肉が衰えるので、その分鍛えなければならないが、竜也はとにかく衰える前にひたすら鍛えておくタイプだった。早苗は毎日鏡で体型をチェックしつつ、まだ大丈夫と思っている。それより遠ざかる地球を見てみたい。もしかすると、生きているうちに帰ってこないかもしれない。ヤヨイを往復した後では結構な年齢になってしまう。

 SFで見るような冷凍睡眠の実現には間に合わなかった。技術的に難しい。冷凍中に体を透過する宇宙線が人体を少しずつ破壊してしまう。生命活動が活発なら細胞は代謝され、宇宙線での破壊程度ならすぐに修復される。しかし冷凍していると、代謝活動もほぼ止まっているので、壊されても修復できない。宇宙船の外壁をどう工夫しても、宇宙線は完全には遮断できない。方法としては、解凍して生命活動を再開する以外に直す術がない。定期的に解凍すればいいのだが、計算上そのペースが意外と頻繁で、結局、現時点で冷凍睡眠は長期間の宇宙旅行には向かない技術とされている。

 早苗はエレベーターの端に行こうと、シートベルトを緩めかけたが、グラスにまたメール到着のサインが出た。追加写真らしい。メール開いてみるとまたヤヨイの画像が添付されていたが、今度は一枚だった。その画像を見て驚く。その画像は、今まででは最も鮮明だった。全体が円形で、その中が不規則なまだら模様になっているが、色の境界が閉じた曲線になっているものがいくつも見られた。曲線の縁は明確で、一つ一つ独立している。まるで顕微鏡から見た微生物のようだった。球形の表面にある模様なら、縁に近づくほど形が歪むはずだが、そうなってはいない。そこだけ穴があいて、どこか別の次元の景色を見ているようでもある。とにかく、とても宇宙空間に浮かぶ自然物には見えない。しかし人工物にも見えない。

 早苗はふと感じた。これは、いつか、どこかで見たことがある。あれは球形だった。うごめいていた。でも受ける印象がほとんど同じだ。そして、いつどこで見たのかを概ね思い出した。でも、あれは……早苗は否定していた。あの人が、吐き捨てるように言ったっけ。あの彼のことは、今は思い出さない方がいいし、思い出したくもない。結局別れてしまったのだし、お互いにとって通過点でしかなかったはずだ。この画像を彼と結びつけるのは間違っている。そうは分かっていても、自分の心を左右する記憶は、呼び出されるとなかなか消せない。この画像を見る度に思い出してしまうのだろうか。それは本意じゃない。

 エレベーターの端に行く気がなくなり、窓の外に広がる暗黒を見ていた。その向こうに、あのヤヨイの模様が浮かんでいるようだ。心細くなり、グラスから竜也にメッセージを送ってみる。しばらくして竜也が戻ってきた。運動の直後なのか、少し汗ばんでいる。

「どうした?」

「見たでしょ? ヤヨイの新しい画像」

「うん、何か凄いことになってるな。あの正体を確認しにいくのが僕達だ。仮説はある程度考えておかないとな」

 早苗はそれには答えず、シートベルトを外すと、竜也の方に漂っていき、抱きついた。

「どうしたんだ?」

 竜也もそれに答え、腕を回してくる。

「なんとなく」

 一回キスをした。

「もう心細くなったのか?」

「まあそんなところね」

 早苗は微笑する。誰かに触れていると、特にそれが愛する人だと、とりあえず思い出したくないことは、思い出さずに済むような気がする。

 別れた彼のことは、竜也は何も知らないし、知る必要もない。

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