9.
妃紗の描く絵が変わっていった。今まで、無数の枝に分裂する樹々を描いていたが、それらはガラスのように無機的だった。そこに血が流れ始めた。月に一度血を吐く自分の体は、自分にとって面倒な伴侶のような気がしていたが、今自分の心は、その体に手をさしのべ、一体となろうとしていた。描く樹の枝には、樹液ではなく血液が流れていく。愛の光はただ灯るのではなく、枝にある血液だまりの中から生まれてきて、そうして光るのだ。絵は三百号だから三メートル×二メートルもある大きなもの。そこに描けるだけの樹々を描くので、ほとんど気が遠くなるような作業だった。それでも妃紗の筆は止まることがなかった。心臓の鼓動とともにキャンバスに流し込んでいくのは、自分の血液の分流のようなもの。生きている限り止まることはないのだ。
寝る場所と絵を描く場所しかない、物置のような妃紗の家でありアトリエでもある場所。妃紗はもう上野に行く必要はなかった。カラスは時々訪れてきて、妃紗を抱いて帰った。自分の生活リズムは不規則で、描きたい時に描いて、食べたいときに食べ、寝たい時に寝た。最近は、思いついたら極力シャワーを浴びるようにしている。カラスがいつ訪ねてくるか分からないからだ。
抱かれるのに慣れてくると、人並みにその時を待ち望んでいるのに気づく。カラスは事前に電話もない。もっともカラスは携帯も持っていない。抱き合ったあと、カラスは妃紗の姿を描くこともあったし、そのまま帰ってしまうこともあった。妃紗が絵を描くのを見ていて、いつの間にかいなくなっていることもあった。妃紗は幸せだと思っていたが、どこか不安だった。二人で出歩くこともほとんどないので、普通のカップルとも違った。カラスが来ている時、妃紗は絵を描く手を止めて、どこかに行こうと誘うことがあるが、カラスはいつも遠回しに断った。結局彼も男なので、自分を抱ければそれでいいだけだと思えてきた。
そんなある日に、リルカが訪ねてきた。妃紗は絵を描き通しで、今が昼だか夜だかもよく分かっていない。もちろん、明るい暗いで昼夜は分かるのだが、実感がないのだ。
「散らかってるけど……思ったより不潔じゃないね」
「どういう意味?」
妃紗は脚立に乗って、キャンバスの高いところを描いている。それを見上げるように、リルカは床にあぐらをかいて座っていた。
「そこらじゅうに食べ残しが散乱して腐ってるのかと思った。あたしんち、今そうだからさ」
「私も前はそうだった」
「心変わりしたんだ」
「ん、まあね」
リルカは買ってきた炭酸飲料のキャップを開け、飲み始めた。そして妃紗の描きかけの絵を眺める。
「しっかし大きな絵だよねえ……あんた絶対に有名になるよ」
リルカは感心するように言う。そういえば有名になるだとか、考えたことがなかった。
「そうかな……リルカは有名になりたい?」
「んーそうだな、名声を望むってわけじゃないけどさ、あたしという存在を世界に訴えたいってのはあるね。この絵も同じじゃない? この絵からあんたを感じることができる。世界に対する叫びが聞こえるようだよ」
あまりそんなつもりはなかった。いや、でも思えば、この絵を見るだろう誰かにぶつけたいという思いもないではない。妃紗は脚立から降りる。少し休んでリルカと話そうと思った。
「まだまだできそうもないよ……永遠に終わらないかも」
ため息をつき、リルカの前に座った。リルカの差し出す炭酸飲料を少し飲む。喉が焼けるように強いので、少しむせてしまう。
「そういえばさ、最近風呂も入ってるみたいじゃん。感心しちゃった。顔もちゃんと洗ってるね」
「前はそんなにひどかったの?」
「自分じゃ分からんかったのか」
「うん、まあ……」
ふとカラスのことを考える。今度はいつ来てくれるのだろう。何しろ連絡も取れないので、上野にいなければどこにいるか分からない。
リルカがじっと自分を見つめているので、慌てて目をそらしてしまった。
「ねえ、もしかして、好きな人でもできた?」
「え、えっ? いや……別に……」
思いの動揺してしまう。
「隠さなくてもいいじゃん。顔で分かるよ」
「別に……隠してなんて……」
「応援してあげるよ。将来有名な画家になる子だって……あたし料理とかできないから、教えてあげらんないけど、メイクならちょっと自信あるよ」
そう言ってリルカは笑った。
「もう、つき合ってるんだ……」
「なんだ……誰? あたしの知ってる人?」
「うん……カラス」
「嘘……」
リルカの顔から笑顔が消え、怒ったような顔になる。
「どうして……」
「どうしてって……そうなっちゃったから」
リルカがなぜそんな顔になるのか分からない。いや、一つだけ思いつく理由がある。
「もしかして……リルカも好きだったの?」
それにはしばらく答えなかった。妃紗も答えを待っていた。
「……あたしも、今カラスとつき合ってんだけど」
「えっ……嘘……」
妃紗の顔から血の気が引いてしまう。リルカが怒った顔になるわけだが、妃紗は信じられない。
「でも、もう壊れそうなんだ。やっぱりそうか……そんな気はしてたんだよ」
「やっぱりって……」
「最近やたら輪郭のことをあれこれ言うんだ。いつも言ってはいるけど、最近は俺の輪郭も崩れているとか、自分の輪郭のことまで言うんだよ。でもあたしは知っている。単純な話、他に好きな子ができたんだよ……それが、あんただなんて……」
妃紗は怖くなった。これは明らかに憎まれる。リルカの勢いでは、自分はひとたまりもない。そのつもりはなくても体が震えてくる。
「そんな……あの……ずっとつき合ってたの? 私は、何も聞いてないよ……」
「そりゃそうでしょ……言わないよ。男なんてうまいことやるもんだよ。あいつは最初、あたしに言ったんだよ。お前の腕に流れる血が、お前の輪郭だと。そう、あたしは嬉しかった。だってあたしもそう思ってたもの。赤い血が流れるその時、あたしの命は吹き出して。この世で深く深呼吸する。この世に確かなものなんてない。ただ一つ、あたしの腕から流れる血の訴え! それだけがあたしの姿。あたしの輪郭なんだよ。それをちゃんと言い当ててくれた。だから、それからつき合いだしたんだ」
カラスは妃紗の絵をたたえるため、カリエールの絵を引き合いに出した。リルカにも同じようなことを言っていたなんて。
「私も輪郭の話をされた。私の絵はカリエールだって」
「何? それ」
「画家の名前なんだけど。でも、それからわたしもつき合い始めた」
自分はカラスの言葉に魅了されていた……妃紗は思った。思えば、自分の位置を決めてくれたのは、草間彌生でも薫子でもカリエールでもない、カラスだった。
要するに、自分を抱くためだけの口先だけの話なのかと思うと失望する。でも……本当にそれだけなのか? それだけとは思えない。考えが頭の中を渦巻く。自分は、自分という世界はこの先分裂していく。カラスを信じる自分と、信じない自分。どちらも確実に存在するだろう。しかし、自分のこの先の意識は、どちらか一つしか認識できない。
前に二重ラセンは何て言ったろう。分裂していった全ての自分を救うのは利他的な行動であり、それが愛なのだと。でも今の状況は、言うなればこの先カラスを愛するか愛さないかの分裂となる。愛さないのだからそこに愛などない。かつて愛していたという過去の記録しかなくなる。
いや、違う。愛があるとすれば、自分を愛するということだ。自分を愛するために、人を愛することをやめるのだ。しかしこれは利他的ではない。愛の光が灯るとも思えない。
いずれにしても、これは選んだということになるのか? 多世界なら間違いなくどちらも起こることであるし、それは妃紗が幼いことから描いてきたことだ。
でも、どちらも起こるというなら、選ぶということに何の意味があるのだろう。選ぶという行為に意味がない限り、選ぼうという意識にも何の意味もないのではないか?
急に心の中に、暗いものが広がってくる。暗黒の、何もない世界のようなもの。
「ねえ、今何を考えてるの?」
長いこと妃紗が黙っていたので、しびれを切らしリルカか訊く。
「……この世が多世界なら……私は何を選ぼうとしているんだろう……カラスを信じるか信じないか……」
リルカはそれを聞いて鼻で笑った。
「下らない! 下らないよ! ラセンに影響され過ぎ! 自分が感じたままの方に行くしかないじゃない。それを選ぶならそっちこそが正しい道だと思って生きるしかないんだよ。別の方に行った自分を思うこともないし、そもそも存在しているかも分からない。そんなもの人生から捨ててしまえ!」
いきなり激しい剣幕になったので、妃紗は泣きそうになる。自分の愛している母など、どの世界にも存在しない気がしてきた、母が自分を愛さないことを選んだのなら、選ばれなかった側は存在しない……
「嫌だ……だって、それだと、自分は……母に捨てられたままなんだ……それは嫌なんだよ!」
しばらくリルカも黙っていたが、やがて静かに言った。
「そうか……あんたの病、分かったよ。多世界がどうこうじゃない。母親に愛されなかったってのが元凶なんだ。それが全てを生み出しているんだよ。傷を覆うかさぶたみたいなものかな……」
「やめて……」
自分のつかんだ世界観が壊れそうで、恐ろしくなる。
「多世界なんてない!」
「やめてったら!」
妃紗とリルカはにらみ合った。妃紗の目から、涙がこぼれていた。しばらくして、リルカは目を伏せる。
「……ごめん……言い過ぎた……っていうか、心底否定もできない。あんたの目が怖い……」
「目の問題なの?」
「いや……それだけじゃないよ」
そう言ってリルカは、再び妃紗の絵を見上げた。
「あんたの絵を見た時の何て言うかな……力強さ……信じたものの強さ……多分あたしよりもずっとずっと強い……」
「何を言いたいの? 思い込みが激しいってこと?」
リルカは弱く苦笑した。
「そうかもしれない」
リルカはため息を一つつく。
「でもね、多世界の話が嘘とも決められない。それがあるならって思うこともあるよ。特にこんな時……そう、こんなことはしょっちゅうあるんだよ。でも、あたしが何かを選んで、その結果がどうあれ、多世界というものがあるのなら、幸福なあたしがどこかの世界にいるってことかもしれないって」
「え?」
急に話を肯定されたようで混乱する。
「ねえ、今ここにいるあたし達はまだ何も手に入れていないけれど、あたし達二人とも手にすることは約束されている。そういうことじゃない?」
「……分からない。そうだといいかも」
「あたし、思い出したことがあるんだ。どこかで聞いた。確か、有名な哲学者の言葉だよ。とても簡単な言葉……『幸福に生きよ』。ただその一言」
「それが……哲学者の言葉?」
哲学というもの自体よく分からないが、その一言はいくら何でも単純過ぎると思う。しかし、リルカは続ける。
「幸福か不幸かは、現実が今どうなっているかは関係ないの。現実はなるようにしかならないもの。現実で得たものから幸福が得られても、それは現実によって手放さざるを得ないこともある。だから本当の幸福は、現実を外から見た時に得られたものだという。そして幸福に生きた者だけが、人生の意味を獲得する。人生の意味は、獲得されなければならない……あたしは幸福に生きよなんていう意味がさっぱり分からなかった。でもあんたやラセンの言う、多世界の話が本当なら、あたしたちは幸福に生きられる。幸福な自分がどこかに確実に存在する、それゆえ幸福なのだと」
リルカは絵から目を離し、妃紗の方を見てはいたが、目の焦点は、自分よりもずっと遠くを見ているようだった。
「それで……幸福に生きよ?」
「そう、生きるってことは、幸福であること」
リルカはそう言って立ち上がった。
「絵が完成したら教えて。この絵は、きっと世界を変えるよ」
「そうなの?」
「この絵に描かれていることは、全ての人が、全て幸福であることだよ。きっと……」
自分ではそうは思っていなかったが、言われてみるとそんな気もする。思わずリルカを見つめた。
「あたしも、幸福を選ぶ」
そう言って、リルカは微笑を投げた。
二重ラセンは糸原の研究室に呼び出されていた。
座っているラセンの前には、モニターがあるが、そこに映っているのはゲームの画面でよく出てくるような、丸顔に目と鼻と口を付けただけの、ごく単純な顔のイメージだった。これがカラスの顔だと言われてもゲームキャラにしか見えない。似顔ですらない。モニターがつながっている筺体は内部がむき出して、中の基板や部品同士をつないでいる配線が入り乱れているのが見える。まるで生き物の内臓だ。内臓の隙間から、ラセンの口元までマイクが一つ延びている。
「んーじゃあ何かしゃべってくれい」
糸原がいつもの軽い調子で言う。彼は少し離れた場所で、別のモニターを見ている。そのモニターは、顔以外にいくつも内部情報が表示されているらしい。
「何をしゃべれって?」
「カラス君と話が弾みそうなやつ」
「あいつの好みは分からん」
「いいから何か言えや。黙ってちゃ反応もせん。そこの赤いボタン押してからしゃべって」
ラセンは言われた通り、まずボタンを押した。
「カラス、僕だ。二重ラセンだ」
「……もっと何か言え」
「君は今、山吹妃紗と付き合っているのか?」
「おい、お前バカか?」
糸原がすかさず半笑いで言う。自分に向かってバカとか言う人間はめったにいない。ラセンは気を悪くしてボタンから手を離す。
「何だって?」
「こいつは現在のヤツの分身じゃねえよ。仮想人格はそのデータを収集した時点の記憶以上は持ってねえの。分かってんだろ科学者。何の反応もしないじゃ……ん、ちょっとしてるな」
見ると目が少し変わってて、時々向かい合う矢印みたいになっている。
「これはどういう反応なんだ?」
「割と嬉しいとかそういうことだな」
「嬉しいのか……」
「収集した時点で付き合っていたのかな?」
「それはないはずだが」
「じゃあ他に何か言え」
ラセンは再びボタンを押す。
「君の言ってた輪郭は多世界のことだ。先日その仕組みを発見した。生命であれ世界であれ、二値の分裂を無限に繰り返すと、無限の果てに消滅する。これは数式で説明できる」
「反応なし。難しすぎるだろ」
「……愛とは、多世界を感じ取ることだ。多世界を感じ取り、その利他的な行為が愛に他ならない」
「反応あり! ……っていうかこれ怒ってるらしい。小難しい話はやめろよ」
「……お前、いつも小汚い格好してるな。あと夏でも黒づくめで暑いんじゃないか? あまりがまんしてると病気になるぞ」
画面の顔は怒っているままだが、マンガのようなので可愛らしくもある。その時、スピーカーから声のようなものが返ってきた。
「オア……オアエ……ソ、ネ……イムホ……」
「何だって?」
画面の表情は怒っているところから、何か笑っているような顔になった。
「オア……エオホ……カ、ラセン……」
「お、名前を言った……が、オーバーヒート気味だ。いかんな。どっかで無限ループに入ったかもしれん」
糸原がモニターを見ながら言う。自分を知っているカラスの脳内データを元にした仮想人格だが、自分の名前を言われるのは薄気味悪い。自分を認識したということだ。表情は笑顔のようなものから、すぐに恐れのようなものに変わる。
「ココココ……コロサレ……レレレ……」
それを聞き、ラセンはやや動揺する。
「殺される? 殺されるって言ってるのか?」
「やはり恐怖なんかなあ……そういう存在の仕方は。思考だけで何も見えないだろうしな」
糸原がぶつぶつ言う。予想通りなんだろうか。
「ラセン、ラセン……ラララララセン……」
「すまん、危ないんでもう切る」
画面から顔が消えて。声も消えた。ラセンの前には暗い画面があるだけだった。本当は会話ができるはずなのだが、とてもうまくいったとは言い難い。それにいきなり切ったのでは、殺されると言った直後に殺したようなものじゃないだろうか。ラセンは糸原の方を見る。
「失敗なのか?」
「思考領域を改良してまたやろう。もう少し環境に対し鈍くした方がいいかもな。今日はもう無理だ」
「人権問題にならないか? こういうの」
「あくまでコンピュータにデータをぶち込んでプログラムを動かしただけだ」
「本格的に人格を持ったら、生きていると言えるんじゃないか」
「そん時はそん時だ。心配するな」
「で、また僕が来ないといけないのか?」
「ああ、よく知っているヤツの方がいい。声により記憶にダイレクトにアクセスできる。本当は匂いの方がいいんだが、嗅覚は複雑でよく分からん。まあ領域を強化したらまた来てもらうよ。さしあたって今日は飲みに行こうぜ」
しかし、ラセンが仮想人格のカラスと話す機会はもうなかった。この後、糸原の研究費使い込みが発覚し、研究室は閉鎖となる。
妃紗は抜け殻のようになって、床に横たわっていた。元々昼も夜もないような生活。あれから、あの時から何日経つのか、分からなくなっていた……あの時、それは上野にいたカラスが、狂女に刺されたという知らせ。狂女とは、もちろんリルカだった。背後から、胸を深く刺され、命はとりとめたが、意識不明の重体。意識が戻ったという連絡はまだない。
カラスの人間関係が割り出され、妃紗も事情を訊かれた。ありのままを答えるしかなかった。事件は複雑ではない。カラスが二股をかけていたことを知ったリルカが、感情的になってカラスを刺した。つまり、妃紗が黙っていれば、こんなことにはならなかった。いや、リルカはもう壊れかけとか言っていたし、察しもついていたみたいだから、妃紗が黙っていても同じだったかもしれない。
それよりも、妃紗を落ち込ませたのは別のことだった。リルカは妃紗を訪れた時、多世界に理解を示していたはずだった。そして幸福に生きることを選んだはずだった。その答えが、こんな衝動的で、感情的な事件を起こすことだったんだろうか? リルカは結局多世界なんて信じてもいないし考えてもいない、自分の感情に飲まれてしまった。そう考えれば話は楽だった。しかし妃紗は、そうではないような気がしていた。リルカは多世界を理解し、幸福に生きるために、カラスを刺したのだと。自分という世界が抱えている、多世界の最大数を幸福に導くには、利他的な愛ではなく、利己的な行動が数を呼ぶのだと、そう言われている気がしていた。また、それは妃紗が抱えていた違和感に対する答えでもあった。多世界と利他性を結びつけたのはラセンだった。それは恋人の事故から生まれた、一見、美しい理屈ではあった。ライフゲームのパターンも見て感じられた、愛でつながる多世界は、自分を愛していたであろう別世界の母親と自分を結びつけた。しかし、妃紗はどこかで引っかかっていた。そんなにきれいなものかと。そして、その答えを持ってきてしまったリルカを恐れた。利己性の強さは、生命が本来持っている強さと感じられた。世界はどうあれ、生命は利己的な力で先に進んでいく。
人付き合いの経験が少ない妃紗は、リルカが頭の悪い、愚かな人間だと断定できる力もなかった。だから彼女の行動に何か意味を見つけだそうとして、引きずられるように、リルカの行動を自分の思い描く世界に当てはめていた。そして、勝手に落ち込んでいた。
自分が軽率にもカラスと付き合っていると言ったばかりに。リルカに火をつけてしまった。それは、自分の絵のせいであるような気もしていた。あの時、リルカは自分の絵を見て、否定はできないと言ったっけ。だから、リルカは、この多世界を分かって、そして行動したはずなのだ。
絵を描く気力はもうなかった。自分の抱えた世界像が、愛する者を傷つけてしまったから。自分が幼い頃から見ていた幻は、どこか壊れた脳が見せた幻に違いない。全ては間違っていた。
虚しくなり、バカバカしくなり、妃紗は絵を傷つけようと、パレットナイフをキャンバスに突き立てたが、破れたのは下の方の一部だけだった。何より、自分にもうその体力すら失われていた。絵の具で汚した布地など、破いてどうするのか。
空腹だった。お金もなかった。カラスも来ないので誰も来なかった。電話にも出なかった。そもそも電話など滅多に来ない。水を飲んでは床に横たわった。このまま死ぬのだろうと思ったが、喉が渇くと水だけはせっせと飲みに行くもので、体はどうも死にたくないらしい。愚かな体だ。愚かだから望まないのに子供を授かる準備なんかを毎月しているのだ。
分裂していく多世界の中には、死に旅立つ自分もあるだろう。それはだんだん増えていき、やがて自分の番が来るだろう。自分はもう選択しない。選択は選ばれなかった世界を、自分という世界から捨ててしまう行為だ。何も捨てたくない。だから選択しないことが、最も多くの多世界を生み出すのだ。そして今、自分は、自分のために何もしないのだ。それは自分を愛することだ。自分のために愛の光が、灯っていやしないだろうか。
何度目かの眠りが訪れる。今度の眠りこそ、自分を死に分裂させ、最後の愛の光を、自分のために灯すように。毎回祈っている。祈りはいつかは叶えられるだろう。
手が温かい。左手が。誰かが握っている。部屋には誰もいないはずだから、ここはもう死んだ後の世界だろう。それにしては妙に現実的な感覚だ。体が動く、床の上ではなかった。目を開けた。見たことのない天井。どこかの部屋だ。
「目が開いた! 妃紗? 妃紗? 私が分かる? こっち向ける?」
その声! 妃紗は声の方を見る。信じられない。やはり自分は死んだのだろうか。
「薫子?」
「うん」
その人はうなずいた。最後に会ったのはもう何年前だろう。でも、あまり変わっていない。自分の手を握っていたのは薫子だった。
「どうして……? 私死んだの?」
薫子は微笑した。
「死んでないよ。ここは病院だよ。私は少し前からあなたを探してた。ギャラリーの人に家を訊いて、行ってみたんだけど、明かりが点いているのに誰もいないみたい。でもおかしいんで、ギャラリーの人にもう一度訊いてみたら、そういえば何日も顔を見てなくて、連絡も取れないって。だから合い鍵使って入ったんだ」
「合い鍵? なんでそんなもの……」
「ギャラリーの人が大家さんでしょ……で、そこで……」
薫子は急に涙ぐんだ。
「見つけたんだよ……どうして、そんな……死んでるんじゃないかって……心配したんだよ。生きててよかった」
薫子はそう言って、何度も涙を拭った。自分が生きててよかったなんて、言ってくれる人もいるんだ……妃紗はまだぼんやりしていた。ただ、時間が経つにつれ、自分の気持ちがはっきりしてくる。薫子の手の温かさが伝わる。
「そうそう、お父さんお母さんも来てるんだよ。今呼んでくる」
そう言って手を離そうとするのを、手を握って止めた。
「待って……薫子……」
「何?」
「ずっと……逢いたかったよ」
「私、電話番号とか、何も変わってないよ」
そうか、自分が一方的に逃げたんだった。薫子から、彼氏ができたとかいう話を聞いてから。
「そうだった……ごめんなさい」
「謝ることでもないけど」
そう言って薫子は微笑した。
「もう少し、このままでいて」
薫子はうなずいた。薫子を見つめる。思い出すのは、いつもあの中学時代のこと。自分の樹の、自分が選んできた枝に、温かく灯る光が、あそこにはある。妃紗は安心する。親よりも。親も来ているのか……母親はどうせ、自分を心配したふりをするだけだろう。父親の手前。そして今の父親とは、血もつながっていない。父親は優しいだろう。でも所詮は他人だ。
妃紗はいつしか祈っていた。今の安らぎが、別れていった他の世界の自分を救うように。
自分という一つの樹は、生きるとともに、枝別れてしていく。そこになるべく多くの、愛の光を灯すのが、生きる目的。
でもそうして育った樹は、どうなるのだろう。空から襲ってくる槍の幻……それは決して優しくも明るくもない。育った樹は死と同時に刈り取られてしまうのだろうか? 二重ラセンは、数学的に説明できるとか言ってたけれど。
いや、それだけでは終わらないと、妃紗は直感している。槍から守ってくれるように、空を覆う、巨大な一本の樹がある。その樹がある限り。あれは何だろう。どこに生まれた樹だろう。その枝、そして夜空を覆う星のように、空一面に灯る光。
あの光のありか……それはきっと遠い遠い、宇宙の果てだ。
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