8.
二重ラセンのメールに返事を出し、ワタルが入院している病院の近くにある喫茶店で会うことになった。ラセンは喫茶店に入って来た妃紗を見て、一瞬顔をしかめた。そういえば上野に行った時の、妙に派手な服のままだった。
「あのう……すいません、こんな格好で」
「格好はどうでもいいんだ……」
ラセンの顔色はやはりよくない。
「彼は……大丈夫なんですか」
「小康状態だね。まあ、命があって何よりだよ。注意力も弱い人間だしね」
そして、ラセンはカバンから何かを出した。タブレットだった。
「見てほしいものがある」
「はい……」
何だろうか、彼氏の写真だろうか。しかしラセンの操作でタブレットの画面に出てきたものは。何かのゲーム画面のようなものだった。ドット絵で、赤い目を持つ黄色い人魂みたいなものがうようよと動いていた。こんなものをこんな時に見せるなんて、ラセンは何かストレスでおかしくなったのかと思った。
「何ですか……これ?」
ラセンは黙って、指先で画面の一部に触れた。そこに何かが生まれたのが分かった。生きている、と妃紗は直感的に思った。それは意志を持ったかのように動いていき、人魂みたいなものにぶつかると、二つに分裂した。そしてそれぞれがまた動き、四つ、八つ……やがてそれは画面を埋め尽くし、そして一気に消滅した。画面が真っ暗になる。
「これが何か分かるか?」
妃紗は何もない画面を見つめ続け、なかなか言葉が出なかった。心の中にもやもやとしている何かと結びついていく。ラセンは黙って待っていた。やがて、妃紗はうなずき、口を開いた。
「私達です。その……私達の姿……私達のすべてです」
自分でも意外な言葉が出た……すべて? でも、ラセンは微笑していた。
「そうか……よかった。分かったんだな」
幼い頃から自分が幻で見てきたもの。それらと同じ感触……景色でも印象でもない、感触としか呼べないものが、目の前に繰り広げられた。それは自分が心酔した草間彌生の絵であり、さっきカラスに教えてもらったカリエールの絵でもある。タブレットの画面で展開されたものは、ものすごく単純化しているので、芯のようなものだ。
「これは、アニメーションですか?」
ラセンは軽くうなずいた。
「ライフゲームというセルオートマトンの一種。トリメロースという名前がついている。コンピュータが今の画面の状態を、あるルールに従って計算し、次の画面を作る。プログラムで計算しながら次々と映し出している世界だ。非常に単純なルールだけできているが、動きは複雑になる。これまで、ここに生命は生まれなかった。しかし、生まれ、分裂して消滅するパターンが見つかった。この特別なパターンは、今は亡きあるエンジニアが偶然見つけたものだ」
言葉が難しくて妃紗にはよく分からないが、何か見つけられた、ということは分かる。
「そして……これが世界の実相だ」
妃紗はまたうなずいた。それは納得できる。自分が思うところを言葉にする。
「小さい頃から見てきて、絵も描いてきました。命は一本の樹のようなもので、それを描く時は、この姿です。生まれて、分裂して、そして消滅する」
「分裂は常に二分割だが、その数は無限だ。しかし無限が飽和すると……ん、まあ無限が飽和って言い方も変だが、とにかく無限の果てに消滅するように世界はできている。その計算式も存在している。計算式があるということは、この世界、つまり現在の数学が支配する世界に生きている限り、逃れられないってことだ。命は分裂していくが、場のルールが生み出すものだ。つまり、世界と命は同じものだ」
断定するようにラセンは言うが、妃紗には分からないことがあった。
「なぜ、こんな時に……わざわざこれを見せようと」
ラセンはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「そうだな……ワタルを失いそうになって……僕は悟ったんだ。分裂した世界のいずれかに、ワタルを失った自分がいることを」
妃紗はうなずく。それは母親に愛された、自分がどこかにいるのと同じことだ。
「ワタルを失った彼は救われなければならない。そしてワタルが事故にあわなかった世界の自分に、僕が救われたいとも思っている……」
「それは無理です」
思わず言葉が出た。母親に愛された自分は、どこかにいるけれども、それはいるというだけで、自分が救われるには、愛された実感がなさ過ぎる。それを得ることは不可能だとも分かっていた。
「そうだ。確かに分裂した世界同士は、連絡を取り合うことができない。しかし、世界全体を理解すれば、それが可能かもしれない。でも僕が思ったことは、残念ながら世界の理解とは、無限を理解しなければならないということだ」
「無限を理解する?」
無限を理解すれば、自分は得られなかった母の愛を得られるというのだろうか? そもそも無限を理解する、という意味はよく分からない。
「そう、しかし人間には無限の理解は不可能だ。でも、ただ一つ……」
ラセンは苦笑する。この言葉を自分が人に言う時が来るとは。
「愛だけが、無限とつながっている」
「え?」
さすがに妃紗の目も点になった。理科系の二重ラセンらしからぬ言葉に違いない。
「君は以前、僕に愛は無限だと言った。それからずっと考えていたんだ。無限と愛が結びつくかどうか。そして分裂した多世界に対して何が起きて、何が行えるのか」
「私……そんなこと言いましたっけ?」
ただ、言ったような気もする。確かに自分の描く樹の枝は無数の分裂であり、そこに灯るのは愛の光である。だから愛は無限と言った気はする。
しかし、妃紗自身は母の愛が得られなかったのだから、そう言ったところで。光の灯らない枝は、光の灯らない枝のままだ。ラセンは話を続ける。
「世界は始め、何もないところから生まれた。次元すらないところから泡のように。それは可能性の数だけ分裂する世界だ。正確には何かが起こるか起こらないかの二値で分裂していく。この分裂は無限に達したとたんに消滅する。言うなれば死だ。先も言ったがこれには数式がある。この世界を支配する、たった一つの数式だ。生命も同様に分裂していく存在だが、どういうわけか最も知能の高い我々人類をもってしても、無限を理解できていない。つまり分裂を解き明かせない。しかし分裂するものであることを、我々は感じていて、分かり始めている。科学で言う多世界解釈がそうであり、君やカラスの絵がそうであり、トリメロースでのエデンの園配列を見た反応がそうだ。もし分裂が起こらない世界だったら、選択したものが全てとなる。しかし、それでは世界も生命も、その存在があまりに刹那的で耐えられない……いや、耐えられないのは多世界に住む我々が分裂しない世界を想像するから耐えられないのであって、始めから分裂しなければ、残ったものが世界の全てになる。つまり、あらゆるものが利己的に振る舞い、それで問題は起きないだろう。しかし、そこには愛がない。愛と呼ばれる振る舞いが利他的であるのは、その意識が多世界を感じ取っているからだ。起こり得るあらゆる可能性を含めた全存在が生き残るには、争いや戦いよりも共生のほうが望ましい。なぜなら争った場合、勝った自分と負けた自分が必ず存在してしまうからだ。負けた自分は別世界の誰とも連絡を取ることはできず、救われることもない。だから無限の分裂を高い可能性で救えるのは、利他的な行為……つまり愛しかない」
ラセンはここまで一気に話した。妃紗には理解できないところが多かったが、自分の人生を中心に考えるしかない。多世界の共生が愛だと言われてもピンとこない。
「私は母に愛されなかった……それは共生でも何でもない。それは母が多世界を知らないからですか? あと、私だって争うことはあります。多世界を知ってたとしても……全て共生を選ぶわけではないでしょう」
「それは……僕にも全部は分からない。ただ、愛という現象は存在している。存在しない場合もあるし、愛を選ばない場合もあるけれども、少なくとも、それは多世界による利他性がもたらすと思う。我々の感覚として、愛は利己主義ではないものだ。しかしそれは……逆なんだ。多世界への分裂と、その死がもたらされる無限という感覚が利己主義を否定し、利他的な感覚を生むのだ。つまり利他的なものと無限というものが合わさったものが愛というものの正体だ。そして神も愛に満ちた存在だと言われるのは、神は無限の力を所有しており、人類に対し利他的であるよう要求するからだ」
逆……確かにラセンは逆という言葉をよく使う。
「……うまく言えませんが、私も、もっと大きな何かを感じ取っていたかもしれない。私は、たくさんの樹の他に、空を包む大きな樹を一つ描いているんです。私は母に愛されなかった。分裂した世界のどこかに、私という子供を愛する母がいる。でも、どの母の愛がどんなに強くても、分裂した世界にいる私には届いてこない……だから、私を生かしているものは……もっと大きな……」
「さっきの話の通りだけど、それはいわゆる神の感覚では?」
「……分かりません。そうかもしれない。少なくとも、それは何か、宇宙を包むような大きな何かです。あと、そもそも私達は、生かされているだけの気もします。私が見ていたもう一つの幻は、分裂の果てに消滅するのではなく、空から来た何かに奪い去られるのです」
大抵幻覚では、槍のような何かだった。それらに突き刺され、地上にへばりついた生き物が連れ去られていった。生き物は今はいないが、槍はまだ天空にあって、自分達を狙っている。
「待てよ、確か前にもそんな話を聞いたっけ……灯した愛が何かに回収されるとか……それは分裂の果ての-1と同じなんだろうか……」
「それは……分かりませんが……」
この話を、どう自分の把握した世界の姿と結びつけるか、二重ラセンは考える。ただ同時に、妃紗は世界の実相を見ているわけではなく、単なる夢の世界の話をしているだけという気もしてきた。いや単なる夢というか、幼い頃からの心理状態が生んだ幻覚のようなものだ。
あの数式には…… ……消滅は存在するが、そこに奪われるというものはない。いや……必ず「-1」に収束するのだから、その強引さは奪われると言ってもいいのではないか。奪われる? いや、この場合は消されるのであって、奪われるというのなら、奪う誰かがいるはずだし、奪われた先に、奪われたものが、どこかに蓄えられるなり消費されるなりするはずだ。
二重ラセンはこれ以上考えが浮かばない。妃紗に会うまでは全てが分かっていたような気がしたが、二、三の疑問で簡単に崩されてしまう。解くことができない。
そして妃紗は、解きたいとは思っていなかった。救われたいと思っていた。解ければ救われるものではないことも分かっていた。自分はただ絵を描くしかないのだと、妃紗はあらためて思っていた。
生理でもないのに下腹部が重苦しい。二重ラセンと別れたあと、妃紗は再び上野に戻った。カラスはいつもの場所にいたが、店を広げることもなく地面に座ったまま妃紗を待っていた。それから二人で一駅ぐらい歩いて、ホテルに連れ込まれた。小ぎれいな連れ込みホテルが並ぶ界隈でも、そこは昔からあるような素っ気ない建物で、ひどく安かったし、部屋はカビの臭いがした。しかしそんなのはどうでもいいことだと妃紗は思っていたし、カラスもそれを分かっていた。ただ、妃紗は男に抱かれた経験がなかった。初めてで体が緊張してしまい、どうしても受け入れられない。カラスは優しかったが、内心の苛立ちが伝わってくるのが分かった。結局一度も交わることもなく、時間が決められた部屋をあとにした。しばらくは二人とも無言で、ホテル街をのろのろと歩いた。
「……ごめんなさい」
「別にいい……始めからうまくいく奴はいない」
そうして妃紗の方を見た。
「君の輪郭は正直だ。俺はそれだけでいい」
「どこかに……うまくできた私がいるのかな」
「どこか? 何の話だ?」
「多世界。ラセンさんはその話ばかりしてた」
「そういうことか……そういう意味じゃ、いないな」
「いないの?」
その答えは少し意外だ。多世界にはあらゆる可能性があるのでは?
「いたら、俺が嫉妬するからな」
今、愛の光が灯っているのか、そうでないのか分からない。ただ、下腹部が重いと思った。
「俺には今、君がカリエールの絵の中にいるように見える。この場の色は抱き合いたい男女の欲望だ。君の輪郭はそこに溶けるが、埋没はしない」
そしてカラスは、ポケットから小さい鏡を出して、自分を見た。
「俺の輪郭は……あんまりきれいじゃない」
「そうなの?」
「男の輪郭はだいたいそうだ」
よく分からない。単に欲求不満が顔に出ているというだけのような気もして、妃紗は肩身が狭くなる。高校の美術部で、もっと不真面目にやっていれば、あの頃に済ませておくことができたかもしれない。
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