7.

 二重ラセンは、一つのメモを見続けている。この世界がセルオートマトンだとして、生命はエデンの園配列としてもたらさる。それは「起こるか起こらないか」という二値の分裂を繰り返し、「無限」の多世界へと分裂していく。そこで何が起こるのか、世界とは何か? その全体とは……単純な数式で説明できた。直感的には、無限の蓄積は無限大に大きくなるはずである。しかし無限というものの性質は、いとも簡単に自分達の直感を越えてしまう。二値の分裂を繰り返した果て、そこには明らかな死があったのだ。


 S=1+2+4+8+……∞

 S=1+2×(1+2+4+8+……∞)

 S=1+2×S

 S-2×S=1

-S=1

 S=-1

 1+2+4+8+……∞=-1


 「1」として誕生した生命は、二値の分裂を無限に蓄積し、その果てに「-1」を獲得する。つまり死がもたらされ、この世界から消滅する。

 エデンの園配列が、トリメロースの世界に「1」として誕生した場合も、生命のように分裂を繰り返し、画面を埋め尽くしたら「-1」として消滅した。それは漸近線に近づいていく関数が、無限の果てにそれを獲得し、その先に何も存在しなくなるのと似ている。トリメロースは無限の分裂ではないが、有限な世界の中で飽和して、これ以上増えない限界でもある。

 いや、限界と無限は違うのではないか。これは一致しているように見えるだけだ。数式だってただの数学のお遊びだ。そもそもプラスの無限の蓄積がマイナスになるはずがない。実際とは違うものだ。普通の感覚では受け入れられない。しかし、この手のお遊びとしか思えないこの無限数列の処理が、科学の世界で使われている例がある。それは物質の究極の形とされる超弦理論だ。超弦理論を解くためには、次の数式が使われる。


 1+2+3+4+5+……∞=-1/12


 先と同様に、これも数学的には繰り込みを使って証明できる式である。超弦理論においては、物質の最小単位である弦の振動が、1から順に無限に増えていった場合、そのエネルギーはどのくらいになるのか、という計算で使われる。マイナスと算出することで、この世界が十一次元であることが導き出される。

 超弦理論がそうであるように、無限は実のところ自分達の世界に深く関わってきている。「1」が二値の無限分裂の果てに「-1」を獲得する。数学はこの世界のシステムでもある。しかし無限を理解できない我々には、最終的にはこの世界のシステムが理解できないのだ。かつて無限を解き明かそうとしたカントールも、ゲーデルも、正気を失って死んでいった。無限に仕掛けられたものは、人間の理解を超えていて、近づくものを容赦なく狂気へ落とすのだ。

 そして、愛は無限という使い古された言い方に、二重ラセンは何かのひっかかりを覚えていた。愛は人間の思考が生み出した幻想ではなく、あるいは動物が持っている本能でもなく、無限という人間の理解できない仕掛けの一種ではないか。愛とは何かを知った時、多くの物語で主人公達は心を震わせ、感動の涙を流す。あるいはその深さ、底知れなさに畏敬の念を覚える。しかし、実は全くそんなものではなくて、完全に決められたシステムの一部ではないだろうか。それはライフゲームのパターンのように、場に厳格に決められたルールから生まれてくる。そのパターンやルールが、理解できない無限と密接に関係しているため、人間には愛というものが、無限と同じように神秘のように感じられるに過ぎない。愛だけではない、命の誕生から死も、無限に関係するシステムの一種だ。

 そしてそのシステムの一つが、無限の多世界へと分裂するこの世界における、生命の誕生から死を表したこの式だ。


 1+2+4+8+……∞=-1


 何か胸騒ぎがする。

 はじめはこの数式を見て興奮したせいかと思ったが、そうではなく、何か異様に不安なのだ。どこかで何かが起こっている。夜の九時。もしやと思って、ワタルの家に電話をかけてみる。ワタルは携帯を持っていない。電話はいつまでも呼び出し音を立てたまま繋がらなかった。この時間だと彼は銭湯に行っている頃だ。ワタルの勤め先にも電話をかけてみる。こんな時間だが、印刷工場は不夜城みたいなもので、交代で働いている。ワタルのことを訊いてみた。

「ああ、ちょうど今連絡があったんですけどね、彼、交通事故に遭ったらしいですよ」

 冷静な二重ラセンも、さすがに冷たい汗が吹き出て、受話器を持つ手が震えてきた。病院の名前を聞き出す。銭湯からの帰りに、乗用車にはねられた。容態はよく分からないらしい。二重ラセンは急いで家を飛び出し、病院へ向かった。

 移動中に、携帯にワタルの親から電話がかかってきた。足の骨折はしているが、命には別状は無い。二重ラセンはやや安心する。親は真っ先に自分に連絡してきてくれた。ワタルを弟のように可愛がってくれる親しい友人という位置づけだった。

 病院では面会することはできず、シートで待たされた。ワタルの両親ももう来ていた。シートに座ったまま、頭の中がぐるぐる回っている。まだ冷たい汗をかいている。ある考えにとらわれた。世界はその時、ワタルが車にはねられた世界と、はねられなかった世界に分裂した。そして、はねられた世界は、ワタルが死んだ世界と、命をとりとめた世界に分裂した。自分はここにいるが、ここではない世界にいる自分も存在しているはずだ。ワタルが死んだ世界にいる自分……いや、想像したくない。

 やがて、面会ができると言われたが、ワタルは眠っているとのことだった。病室に入ってみると、ワタルは思いのほか安らかな顔で眠っていた。二重ラセンはここで初めて安堵した。傍らの椅子に座り、ワタルの手を握ってため息をついた。ワタルの両親は、そんな彼を黙って見守っていた。

 しかし、まだめまいの中にいるような気分だ。リルカはいつも多世界の考えを笑い飛ばした。自分はただ一人の自分でしかない。そんなリルカを、科学に疎いというか、感情的な人間、もっと言えば魂を持つ人間ならではの考えだと、微笑ましく見ていたものだ。しかし今は、自分を正気に保つためにはリルカのように考えなければならないと思い知っている。すぐ隣に、ワタルが死んだ世界があるとか。いや、ワタルがはねられなかった世界もあるのだが、そのプラスとマイナスが相殺できるかというとそうでもない。とにかく分裂する世界など受け入れたくないのだ。

 しかし、受け入れられないのは、自分が人間だからであり、それは真実とは違う。量子力学の世界では、よくあることだ。光の粒子は二つのスリットを同時に通る、そんな直感に反したことが実際に起きているではないか。真実と人間の感情は分けなければならない。そもそも、人間は無限を理解できないから、無限を含んで構築されている世界を理解することはできない。できないがやろうとしている。いや、できていたつもりではあった。自分は真実を理解して生きていたつもりだった。

 どうしたらいい……二重ラセンが考えていたことは、山吹妃紗のことだった。カラスよりも強く、直感的に多世界をつかんでいる人間だ。妃紗に会わなければならない。


 国立西洋美術館の常設展には、人はまばらだったが、無人というわけでもない。隣にはカラスがいた。誘ったのは妃紗の方だった。ちゃんとシャワーも浴びて、買ったばかりの服を着た。上野のいつもの場所にカラスは店を広げていて、あいかわらず椅子でうつむいて客を待っていたが。近づいてくる妃紗にはすぐに気づいて顔を上げた。

「なんだその格好? 学園祭か?」

 いきなりそんな言葉を浴びせられて驚く。自分では普通だと思っていたのだが、かなり派手だったらしい。ただ、それに返答することもできず、妃紗は思い切って声をかける。

「あのう、よろしければ一緒に絵を見ませんか?」

 一気に言ってしまい、何となく上気してしまう。自分から異性を誘ったことなどないからだ。この格好でこんな言葉では断られるかもと覚悟はしている。

「いいよ」

 カラスはあっさりそう言って、おもむろに片づけ始めた。

 実際、こうするしかないと妃紗は思っていた。好きになったのだろうか。よく分からないが、こうするしかないという、それだけの思いだった。まるで自分が絵を描いている時と同じ。その道を進む以外、何も考えられない。

「あ、ありがとう……」

 妃紗は緊張しつつ声を出す。

「どこの絵を見るんだ?」

「ええと……西洋美術館かな」

「なんだ、あそこか。まあ、今はロクな企画やってないしな。常設展で十分だろう」

 カラスの荷物は相当多かった。そういえば、荷物のことなど何も考えず誘ってしまった。

「あの……それ、重いですよね。少し、持ちますか?」

「いつも持ってるから平気だ」

 そういって荷物を抱え、背負い、割と早足で歩き始める。

 入り口ではそれぞれ常設展のチケットを買った。誘った以上、自分がチケット代など出さなければとか考えたが、考えるうちにカラスが先に行ってしまう。カラスはクロークに荷物を全部預けて身軽になった。

「コインロッカーはこっちだ」

 カラスに案内される。ずいぶん来慣れている様子だ。対して妃紗は、美大にいたこともあるのに、数えるほどしか来たことがなかった。何を見ても草間彌生と比較してしまい、草間以上の画家は見あたらないので、見るのにはあまり興味がなかった。

 それでもカラスを誘ったのは、他に口実を思いつかなかったからだ。リルカのライブに一緒に行ってもいいのだが、近々スケジュールはないし、何より、リルカにじゃまされるのは嫌だ。二人だけになれるところで会いたかった。

「さて……何を見るって?」

「ええと……あの、一通り」

「なんだ、見せたいものでもあるんじゃないのか?」

「いえ……そういうのは別になくて……」

 カラスが帰るとか言い出したらどうしようかと、妃紗はややうろたえる。

「じゃあ、俺にはある」

「え?」

 カラスは歩き出した。妃紗はついて行く。意外なことを言い出したと思うと同時に、何となく安心するし、期待もした。カラスが自分に見せたい絵とは、どんなものだろう。

 キリスト教絵画などがあるコルビュジェ設計の建物を抜けて、天井の高い新館に入る。モネやルノワールなど印象派の絵が並んでいるが、カラスはそれも過ぎていく。

「どこまで行くの?」

「もう少しだ」

 印象派のあと、新印象主義やナビ派やらフォーヴやら十九世紀以降の様々な絵画様式が展開されるが、カラスが立ち止まった絵は、そのどれとも違った。キャンバスは一面の暗褐色で、周囲が特に暗い。中央に淡く、うねるような曲線で母子像が描かれている。母も子もそして背景も溶け合っているかのようだ。背景も人物が一体化しているような不思議な雰囲気を持っている。

「誰の絵?」

「知らないのか? カリエールだ。十九世紀後半のフランスの画家」

 そういえば、名前は聞いたことがある。

「なんか、夢の中みたい……」

「俺が見ている現実に一番近い。俺が油彩を描くとしたらこんな感じだ」

「現実? どういうこと?」

「俺の現実では、あらゆるものは選択の数だけ違う輪郭を持って見える。でも選択は無限だ。無限の色を重ねると何になる?」

「……灰色?」

「そう、カリエールにもそれが見えたはずだ。でも選択してきた時の経過は表現できない。カリエールはそれを暗褐色でやった。いわゆるセピア色だ。この色は人の心にノスタルジーを引き起こさせる。無限の中に浮かぶ確かなものだけをカリエールは描いた。母子の愛だ」

「へえ……」

 愛と言われれば、確かに不思議とそんな絵だ。

「もう一つ。カリエールは、まだ幼かった自分の子供を亡くしている。その時からこういう絵を描き始めた。カリエールは知ってしまったんだ」

「何を?」

「自分の選択した中に、子供が生きていた世界が存在することを。君が一生懸命樹の枝を描いているのと同じだ。君の無限の樹の枝は、カリエールの無限のノスタルジーの重ね合わせに相当する。カリエールと君は同じだ」

「同じ……?」

 母に愛された世界が存在するから、無限の樹の枝を描いた自分……子供が生きた世界が存在するから、無限のセピア色を重ねたカリエール。自分の世界に灯る愛の光。カリエールの世界に浮かぶ母子の愛……確かにそうかもしれない。

 それでも、この画家と自分が同じとはとても思えない。でもカラスが言うのならその通りなのかもしれない。そして気づく。この絵がカラスの現実と同じなら、自分の絵もカラスの現実に近いのでは……妃紗は思わずカラスを見る。カラスも自分を見ていて、目を合わせると微笑した。なんか身震いがして、言葉が出なくなる。

「あ、あの……」

「やっと俺の、本当の相手ができた」

 そう言うとカラスは、いきなり妃紗を抱き寄せた。全くそういう経験もない妃紗は、されるがままにしかならない。期待してないこともなかったが、こうも展開が急なのかと戸惑う。程なく、妃紗は物陰に連れて行かれ、唇を奪われた。さすがに混乱が口に出てしまう。

「あ、あの、ええと、このような……ことって」

「期待してたんじゃないのか?」

 カラスは不敵に笑った。妃紗は言葉がうまく出ない。

「なくもない……んですけど、その、あの」

「心配しなくていい。別に嫌がることはしない」

「う、うん……はい……」

 一体何を言えばいいのか分からない。その時、携帯が振動した。メールの着信だった。間が持たないので、携帯を出して見てみる。

「なんだ、携帯なんか持ってるのか」

 ややがっかりしたような目で見る。今は持っているほうが普通だが、カラスは持っていない。メールは二重ラセンからだった。なぜ自分のアドレスが分かったのかと思ったが、そういえば名刺を渡してあった。メールの内容を見て驚く。恋人が自動車事故に巻き込まれた。できれば、すぐに会いたいなどと書いてある。妃紗は一瞬カラスを見る。

「あの、ラセンさんの彼氏が……」

「なんだって?」

 カラスもやや驚く。妃紗はメール文面を見せた。カラスはじっと読んでいる。

「君に会いたい? あいつは女に慰めてもらおうって人間じゃないけどな」

「会わない方が……いいかな……」

 カラスは妃紗を見つめる。

「いや……会え。なんか大事な話だ」

「一緒に来ますか?」

「俺は行かない方がいい。そのかわり」

「そのかわり?」

「終わったらまた上野に来てほしい。いつものところにいる」

 妃紗はうなずいた。

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