6.
部屋には夕日が差し込んでいる。二重ラセンは自宅のパソコンで、緑川のトリメロースを開いては、乾が解き明かしたパターンを何度も配置して見ている。「エデンの園配列」というそのパターンは、まるで配置した瞬間に命を持ったかのように動き出すが、何度配置しても何度も同じようになるので、法則に縛られていると言えばそうなる。また、その法則はこのパターンが持っているのではなく、場が持っているに過ぎない。乾にしろ、糸原にしろ、このパターンを見て騒ぐようなことはなかった。
ワタルがさっきから、床に寝そべって地球儀を見ている。ラセンが編曲と打ち込みをしたミュージシャンからもらったものだ。ただの地球儀ではない。箱の上に光る地球が浮いて、ゆっくり回っている。恐らく箱の中と地球儀そのもに磁石が組み込んであり、その反発力を使ってうまく浮くようにバランスを取っているらしい。自転のしくみはよく分からない。箱の中の磁石が回っているのかもしれない。
「ワタル君、それ楽しい?」
そう言うと、ワタルはうなずいた。二重ラセンは微笑む。ラセンが自然に笑顔が出せるのは、彼に対してだけだ。他の人相手には、一瞬、ここで笑っていいのかなどと思ってしまい、大抵は作り笑いだ。
「いつまでも、見ていたい。終わりが、ないからね」
「そうだね。地球は丸いもんね」
大昔、地球が丸いと知らなかった頃、大地の広さは無限であった。でも実際はそうではなく、有限だが果てがないのだ。自分達が無限だと思っていたものは、実は有限で、果てがないというだけだったのだ。
もしや愛もそうなのか? 愛は無限などと言っている、その愛も。いや、しかし有限だが果てのない愛なんてあるのか? いやいや、こんなことはただの言葉遊びだ。言葉こそが真実を創っていく源泉だという人もいるが、これはやはり違うだろう。
携帯電話が鳴った。糸原からだ。
「なに?」
「乾が会いたいってよ。今から」
「今から? 何か見つけたのか?」
「んでしょうな」
また例の店で会うことにして、電話を切る。
「ワタル君、僕はまた出かけるよ」
ワタルは地球儀から目を離し、うなずいた。
二人には二週間ぶりに会う。糸原は何も変わっていないが、乾は先日見た時より、だいぶ顔色が悪い。しばらくは糸原が勝手に話をする。
「例のカラス君データにセンサーをつないでね、コミュニケーションを取ろうとしてるのだが、あいつの反応がエキセントリックでね。いや、彼だからか、センサーのミスだか分からないんだけどね。脳回路のイエスとノーの神経だけオンにしてだな。アイドルの女の子の水着とかを見せたらノーだと。男ならよかったのかな。あいつはお前と同じ趣味か?」
下らない実験の上に下らない質問だと思った。
「センサーが悪いんじゃないか?」
カラスならアイドルなど興味はなさそうだが、あれこれ説明するのは面倒だ。
「あーやっぱりそうか。うん、俺もそう思う。視覚の電気信号化は難しいな。でも心配ない。今度聴覚でやってみるけど。女のさ、喘いでいる声とか聞かせたりしてな」
「そういう方面しか関心ないのか?」
「技術はだいたいにおいてそういう方面で発展する……ってなことは分かってるだろ」
「まあな……それより、彼は?」
ラセンは乾の方に目配せした。糸原も軽薄な感じを引っ込めた。
「見つけたと言うより、何か悩んでいるらしい……だろ?」
「ああ、まあ……ラセンさんに聞きたいんですが、あれを見て、何か感じませんでしたか?」
「あれ……って何のことだ?」
「先日私が持ってきた、エデンの園配列と思われるパターンです」
「こないだ、別に何も感じないって言ったのはそっちだったと思うが」
「そうですそうです。先日はそうでした。しかし私はその、何度も見ているうちに、違う印象が出てきたのです」
「違う印象? どんな?」
「うまくは言えませんが……」
そのまま視線を宙に固定して、しばらく動かない。
「乾さん……」
「あーはいはい、つまり何かこう、胸をかきむしられるというか、体の節々が痛くなるというか……」
先日とは逆だった。先日はパターンを見たラセンが緑川の報告通りだったのでやや興奮気味で、乾は特に関心もない様子だった。今は何か逆になっている。
「僕はあれを見ていると、展開が毎回同じような経過をたどるので。やっぱりこれは生命活動ではなく、場の法則に過ぎないんじゃないかなと思い始めたところなんだが……」
「ええ、ええ、生命活動ではないと私も思いますよ。私もね。しかし、生命に何かを与える何かだと思えているのです」
「何かを与える何か?」
言い方がずいぶん抽象的だ。ラセンは半笑いになる。
「はい、どうもその、私の元気が奪われているような気がするんです。あれ、最後に一気に消えますよね。あそこで、私の中の何かが持って行かれるんです。なんていうかな、すうっと魂を抜いていかれると言うか……」
どちらかというと無口そうな乾が一生懸命しゃべっているのが奇妙でもある。ラセンは糸原に目線を移す。
「君はどう? 君も見てんだろ?」
「うん、俺は別に見ても何とも思わん。俺の印象はこないだと同じ。ちょっと面白いセルオートマトンのパターンってとこかな」
「僕もそれで落ち着きつつあるが……乾さん、多分気のせいですよ」
そうは言ったものの、何か非常に嫌な感じがする。緑川があれを見て、その後死んでいる。ただ、緑川が見たのは一度だけだし、自分だって何度も見ているので、あのパターンが確実に何かをもたらしたとは思えない。
「そうそう気のせいだよ乾さん、ちっとは研究室を出て、デートでもしなきゃ」
「いやいや、相手がいないです」
困惑したのか、乾は小さい声になる。
「ラセン君、誰か紹介したら? そうだ君のほら、バンドのパートナー……誰だっけ、あれよくない?」
「リルカか? 普通の人間で付き合うのは無理だ。ステージ上で手首切るようなヤツだぞ」
「だってさ、どう?」
「いや……ちょっと……遠慮しときます」
実際のところ、乾は何を悩んでいるのだろうか、とラセンは思った。あのパターンを見てどうこうと言うのは、何か直接的でない気がする。
ここで糸原が立ち上がった。
「ちょっとベンジョ」
席を外したところで、ラセンは聞いてみる。
「乾さん、何かライフゲーム以外で悩んでませんか?」
そう言うと、乾は首を横に振る。
「いや、いやいやあれだけです。まあ、あれだけじゃないんだけど、皆さんには関係ないし、特に糸原さんには、あまり言いたくないし……」
「まじめな相談でも茶化すからね、あいつは」
「そう、そうそう。だから、いいんです。気にしないで」
ここでラセンは、直感的にある質問をぶつける。
「愛って何かとか、考えたことないですか? 愛情の愛ですよ」
乾が明らかに動揺する。
「い、いやその……どどどういう意味ですか? 私はその、そういう趣味ないけど……」
「趣味? ……ああ、別に乾さんを口説こうってんじゃないです。先日僕のライブに来たある人が、愛というものについていろいろ言ってきて、多世界への分裂と愛が関係があるって話。どうもそれが、あのエデンの園パターンを思い出させるんです」
乾はしばらく黙っていた。そして大きなため息をつく。
「そういうことか……」
「そういうこと?」
「最近、ある女性にふられまして……あ、いや糸原さんには言わないで。ま、気が滅入った時に、あんなの見てちゃダメなんでしょうね。あれと愛とが、関係あるかは分からないけど、妙に納得はできますよ」
乾はそこで、微苦笑ともいうような顔になった。笑うのは初めて見る。その気があれば口説いたかもしれないな、とラセンは思う。
あのパターンは妃紗に見せるべきだと思った。何かの反応は得られるはずだ。
リルカに連れられて行ったのは、リルカの家から数分のところにある、飲み屋というより安い食堂だった。春巻き、肉じゃが、シュウマイなどが並んでいて、リルカはライムのチューハイを流し込みながらかなりの勢いでそれらを食べている。妃紗はアルコールは飲まず、チャーハンを少しずつ食べている。普段あまり食べないので、急に大量に食べるなんてできない。
「遠慮なくもっと頼んでいいよ。ここ安いからさ」
「あ、うん……」
「絵はいつから描いてるの?」
そう訊くので、何となく幼い頃のことを断片的に話す。母に冷たくされたことは話したが、いじめられたことは話したくなかった。光が灯る樹の幻覚、地上を這う形のない生物を奪う、空から飛来する槍の幻覚、そしてそれをもとにした遠足の絵、そして先生に呼び出された時に目にした草間彌生の話をした。
「知ってる! 持ってるよ。カボチャが描いてあるTシャツ。草間彌生カッコいいよね。ちょっと気持ち悪いけど、すごい気に入ってるよ」
カボチャは黄色地に黒いドットが入った有名なものだろう。妃紗が想うのはあれではなく、もっと無数の形態が、無限を目指してひしめいている絵。それらは一つ一つ生きて、命のうごめきを見せている。カッコいいというものではない。もっと自分自身、いやこの世界そのもの、もっと言うと、この世界の仕組みと共鳴していると妃紗は感じている。ただ、分かってもらえるとは思わないので、リルカには黙っていた。
薫子の話はしなかった。宝物のように、心にしまってあった。今でも逢いたいと思うことがある。でも、それは昔に過ぎたことだ。
世界の分裂を、母親の再婚とともに実感したことを話す。誰にも話していなかったが、リルカとラセンがつながっている以上、話した方がいい気がしたのだ。母に愛されたはずの自分が、どこかに存在しているのだと。リルカはその話を黙って聞いていた。
「なるほど。幻覚とそれがつながって、多世界という考えになるわけだ。んふふふふ」
リルカは笑った。
「なんか気持ちは分かる。あたしと同じだね。でも、それじゃラセンの相手にはならないよ。彼はバキバキの理系だから、理屈が通らないと理解しようとしない。あたしは多世界は信じてないけど、似たような話は彼にしたんだ。あたしの腕を切った時に流れる血の話。血の赤い色を見ると、あたしの命が活性化する。そして血の流れは樹の枝のように分裂する。いくつも、いくつもあたしが生まれ、それらはみな、生きたい生きたいと叫ぶんだ。でもね、ラセンには鼻で笑われた。単に血を見ると生命を危機を感じ、どうにかしなくちゃと感じるのを、生命の活性化と思いこんでるだけだって。違うんだけどさ、あたしはうまく説明できない」
「手首とか切って……痛くないの?」
「痛いよ……でも、だから切ってる。でも、不思議なもので、血の色ってなんで赤なんだろうね。他の色だと、あんな高揚した気分にはならないと思うよ。まあ、ラセンに言わせると話は逆なんだけどね」
「逆?」
「血の色が赤いから高揚するんじゃなくて、それが血の色だから高揚するんだって。つまり、あたし達の血が青色だったら、青色で高揚すると」
「なるほど……」
「ラセンがよく言ってるんだけど、人間の多くの認識は、逆にできているんだって。逆に考えてみろってよく言うんだけど。まあ、あたしには無理だな。さっきの赤も納得いかない」
逆に……例えば、世界は分裂しているのではなく、分裂しているのが世界である? 愛が無限なのではなく、無限であるものが愛である?
「妃紗ちゃん、付き合っている人はいるの?」
「へ?」
「恋はしてないの?」
唐突な質問だった。そもそも誰かを好きになって悩んだことなんてない気がする。薫子に対し、そんな感情もないではなかったが、今はどうだろう。そもそも毎日絵を描いているだけで、付き合っている人といえばギャラリーの人ぐらい。ほとんど年輩ばかりだ。
「そういうの……ないな」
「ふーん、リアルな絵描きってそういうもんなのかな……」
リルカは独り言のように言う。
「そうではないと思うけど……ピカソなんて、結構派手に相手を変えて付き合ってたし」
「恋はくだらない……でも生きる力にはなる」
「血の色だけではなくて?」
「そう、あたしにはね、生きる力がたくさん、たくさん、たくさん必要! 理由は訊かないこと」
理由を訊くなと言われたら訊けない。病気でも持っているのだろうか、と思った。そして自分の生きる力は……妃紗は思った。とりあえず絵を描くことで生まれてくる。いや、絵に生かされている。無数の枝に分かれる無数の樹。無限を目指し描いているが、いつまで無限を目指すことができるだろう。本当にそれが無限であるなら、決して到達できない。そしていつか、到達できないことを悟り、力つきてしまうかもしれない。自分には絵しかないのが、ふと恐ろしくなった。
テーブルの上の料理がほとんどなくなった。二人は帰ることにした。別れ際、リルカは笑いながら言う。
「風呂入れよ」
そうして手を振って去っていった。
不思議な人だと妃紗は思った。ステージで見せたリストカットは、死へ向かう行為だ。でも、それ以外のところでは、死をこれほど感じさせない人もいない。もっとも、妃紗が知っている人の数なんて、わずかなものなので、誰と比べるということも、できようはずはない。
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