3.
妃紗は無惨な心持ちだった。自分の進んでいる枝に光はなかった。ただ一度、自分の人生に光を灯してくれた薫子のことを想ったが、それはあまりに一瞬だったし、もう過ぎたことだった。死にたいと思ったが、死ぬにしては自分は知りすぎた。他の枝には、今の自分と違う生き方をした自分がいる。今の自分が、愛を受け取り灯すはずだった光がないように、例えば薫子と出逢わなかった自分もいるのかもしれない。
いずれにしても、愛は実在し、愛が絶対基準である以上、その愛の光を、私という一本の樹に最大限に灯すため、私達は全ての可能性を生きようとするのだ。
妃紗は再び絵を描き始めた。はじめはクロッキー帳に、鉛筆でこすりつけるように。樹の一部、分裂していく枝、無数の枝、灯される光、無数の光……数限りないことをどう表現したらいいだろう。妃紗は気持ちだけをぶつけて描く。どう表現という問題ではない。それはもう、数限りなく描くしかないのだ。
弟に暴力を振るった事件で、新しい父は妃紗に怒ったものの、母よりは同情はしてくれた。母は一見優しくなったが、自分を見る目には全く愛情も感じられなかった。ただ、そのことは母自身も悩んでいたことで、ある日、父があらたまって自分の前に来て、こう言った。
「母さんは、君を愛せなくて苦しんでいる。母さん自身が苦しいんじゃなくて、君を愛せないと、僕からも愛されないことで苦しんでいる」
冷たい話だったが、父は苦しそうだった。妃紗は、何を今更という気持ちだ。
「正直僕も、君とどう接していいのか、未だに分からないところがある。だから、せめて君の好きなように、この家でいてもらいたいと思う」
目の前の男が苦しんでいようが悩んでいようが、正直どうでもよかった。ただ、母を黙らせるためにも、父と無駄な対立をしたくはなかった。
「私は、ちゃんと絵を描きたいです」
「そうか……僕もその方がいいと思うよ」
父は少し安心したようなため息をつく。この場で娘から罵倒されるとも思っていたのだろうか。
妃紗は自由に絵を描いていいことになり、油彩の道具を手に入れることもできた。父の理解で、母も絵に文句を言えなくなった。家に帰ると、妃紗は前にも増して食べることと描くことしかしなくなった。弟は怖いのか、妃紗の絵を見ようともせず、触ることもなかった。
無数の分裂を、無数の分裂として描かなければならない。焦りのような、切実さのような、妃紗の絵は詳細さを異様に増してきた。
それでも母は油彩を描くことにいい顔はしない。汚れるとか、時間の無駄とか言う。でも妃紗には分かっていた。母は私が画家になんかなってもらっては困るのだ。自分が否定し続けた娘が、名声など得ようものなら負けるのだ。母は私の才能に焦っている。そう、私は才能があるはずだ。それは他の何人かからの話で確信はある。
高校三年で地域の絵画展に応募し、最優秀賞を勝ち取った。その時に出した絵は、半年も夢中になって描いた、半透明な樹木の一部だ。キャンバスの一番下の中央から始まるガラスの幹、上へ上へと枝分かれしていく。それはまるで扇のようだ。所々、強い光を放つ。それは人生の中で、愛し愛された時に放つ光だ。樹は一つの人生だ。
受験の結果、公立の美大に入ることができた。理解ある父のおかげでもあった。母はいい顔をしなかった。東京に出てきて、一人で暮らすことになった。
美大では美術の勉強をちゃんとするつもりだったが、想像以上につまらない授業だった。それより、自分は勉強する気など全くないのだと思い知らされた。結局自分は親から離れたかっただけだ。授業に出ないで絵ばかり描いていたが、一人暮らしの六畳の部屋は思いの外狭い。すぐにキャンバスだらけになって、寝るスペースしかなくなり、空気がよどんだ。
近くのギャラリーの人が来て、絵を置いてくれることになった。何でも先日の地元の絵画展を見て、気に入って名前を覚えていたらしい。ギャラリーの近くに妃紗が住んでいたのは偶然だった。妃紗の絵はそのギャラリーに置かれることになった。全く売れないかと思っていたが、たまに買う人もいて、思わぬ収入になった。自分の今住んでいる部屋では、十分なスペースがないのだと言うと、ギャラリーのオーナーがアトリエを貸してくれた。倉庫のようなところで、環境はよくなかったが、とにかく大きなキャンバスを置いて、思う存分描けるのがよかった。妃紗は大学にもほとんど行かず、そのアトリエにこもっていた。食べることを忘れていることもあった。描いて、倒れるように寝て、また描いた。今度は樹が一本ではない。命はいくつもいくつもあるのだが、樹もいくつもいくつもある。樹々となり群生する。無数の枝分かれ、灯る光、そして全てを見守る巨大な樹。そこに灯る光は空を覆いつくし、まるで星のようだ。しかし美しいばかりの世界ではない。どこかで自分達全てを狙っている何か。遠くから飛来する槍。金属のように光るそれらが、空の闇の中に潜んでいる。見えるか見えないかぐらいに、妃紗は描く。見えるか見えないか、しかし数としては闇を埋めるほど無数だ。これは自分の幻覚の集大成だと思った。地上にはいつくばるような生き物はいなくなった。あれは自分だった。何も知らず、何も見えないで、うごめいでいただけの生き物。
空腹になると、近所のコンビニにパンなどを買いに行き、食べながらまた描いた。
できあがった絵はギャラリーで売るつもりが、オーナーの薦めである新人賞に応募することになった。大賞を取ることはなかったが、優秀賞を取り、上野にある民間の美術館で展示されることになった。
電車に乗っていると、周囲の人が妙に避けていくのが気になった。準備で出向いた時もこんな状態だった。あの時以来だ。内覧会もパーティも出るのを忘れた。ちょうど絵を描いていて、止まらなかったからだ。同じような無数の枝や光の絵をまだ描き続けている。
受付でも顔をしかめた対応をされた。まだその理由が分からなかった。自分の絵を確認した。結構注目はされている。あまりに精細だったからだ。でも妃紗は、まだ足りないと思っていた。ぼんやりと、自分の描きたいものは愛だと思っていた。それは自分が得た愛であり、得られなかった愛である。そして愛は実在し、愛は無数であり、愛は無限である。描いても描いても足りなかった。自分は病気なのかもしれない。でも自分には大いなる先輩がいる。草間彌生だ。自分と草間彌生は同じ考え、同じ想いで生きていると思った。それにしても自分が行く先々、人が避けていく。今もちょうど、若い男がこっちをじっと見ていたと思ったら、慌ててどこかに行ってしまった。
他の人も絵も見た。何も入ってこなかった。そこに切実なものを何も感じなかった。妃紗はふらふらと美術館を出て、上野の公園をさまよった。似顔絵描き達がいる。アルバイトでやってみてもいいかもと思った。今は絵の具代もバカにならないのだ。相場がいくらだか分からない。人の顔なんて薫子以来描いてないかもしれない。でも今なら描けるかもしれない。
暑苦しい黒い背広を着た、数名の男達とすれ違った。公園に似つかわしくない。どんな仕事をしてるのだろう。あるいはたまたま通りかかっただけか。少し行くと、一人の似顔絵描きが小さい折りたたみ椅子に座って腕を組んで眠っていた。背広とは違うが、こちらも黒ずくめで暑苦しい服だった。釣り鐘型の帽子を顔にかぶって下を向いていて、顔は見えない。似顔のサンプルを見ると、可もなく不可もない感じだ。ただ描線はしっかりしている。ちゃんと描けばもっとうまく描けるはずだ。中の一つの顔に、何となく見覚えがあった。誰だろう。芸能人だろうか。テレビなんかほとんど見たいのだが、それにしては普通すぎる顔立ちだ。妃紗はっと思いつく。ついさっき、美術館で見た顔だ。自分の方をじっと見ていて、足早に去っていった若い男だ。でもなぜここに彼の絵があるのだろう。何か理由がありそうだ。
「あのう……」
「まず風呂に入ってこい」
顔も上げず、いきなりそう言われた。
「え……あの……」
「臭いヤツの絵は描かない」
そういえば風呂って、いつから入っていなかったろうか。最後に体を洗ったのがいつかも思い出せない。人が避けていった理由が分かった。
「あ、すいません、じ、事情がいろいろあって……」
口ごもるように言うと、相手が顔を上げ、妃紗を見た。
「へえ……」
そう言って男はニヤニヤ笑う。
「……何ですか?」
「今日は妙な奴ばかり来る……さっきも輪郭がない奴やら、俺をコンピュータの中にコピーしようとしてる奴らが来て、そしてまた面白い奴が来たな」
「面白い……ですか? 私が、ですか?」
妃紗は汗が出た。そういえば、他人と会話するのも久しぶりのような気がする。言葉がぎこちない。
「臭いからですか?」
「それもあるが、外見じゃない。ずいぶんな輪郭を持っている。描いてほしいか?」
そういうつもりで立ち止まったわけではないが、何となくこの人に描かれたら面白い気がした。
「え……ええ、まあ」
「しかしさっきも言ったように。臭いヤツは描かん。シャワーでもいいから体洗ってこい。そしたら描いてやる」
「は、はい……すいません。また来ます」
そう言って、妃紗は立ち去ろうとした。
「待てよ。名前を教えろ」
何で命令調のかと一瞬腹が立ったが、こういう話し方しかできないのかもしれない。
「ええと私は……山吹妃紗っていいます。じゃあ、また」
「待てよ……どっかで聞いたぞ。いや、分かる。あそこの美術館に出てたヤツだ。絵描きだろ」
これには本気で驚いた。
「知ってるんですか? ……私を」
「どうしてこれが大賞じゃないのかって思ってたからな。テクニックは圧倒的だしな。そうか、臭いから落ちたんだな」
「そんな……」
「まあ冗談だ。そうそう。あの絵を見て思ったんだ。あれは樹じゃない。無限分裂だろ」
あっけなくそこまで言われ、また驚く。
「わ、分かるんですか?」
「何て言うか、俺の知り合いがそんなことばかり言ってるもんでね。会ってみるか? きっと刺激になるぞ」
「会わせてくれるんですか?」
何か理解者が出てくる気がした。
「まあ、俺はそいつが嫌いだがね……体洗ってまた来い」
「は、はい……あの、あなたの名前は?」
「カラスだ。だいたいここにいる」
妃紗はまた来ることを約束したが、割とすぐに忘れてしまい。思い出して、体を洗って上野にまた来たのは約二ヶ月後だった。
妃紗は、賞を取ったのをきっかけに、大学を辞めることにした。得るものが何もなかったからだ。久々に実家に帰り、親にこのことを話したら母は激怒した。父もいい顔はしなかったが、自分が賞を取ったことを報告すると、表情がやや和らいだ。あとで聞いたのだが、父は大学での美術教育にはあまりいい印象を持っていなかったらしい。母は自分が賞を取ろうが、自分には冷たかった。自分も母などどうでもいいと思った。
妃紗は画家になった。妃紗が描くものは、枝分かれする命であり、そこに灯る愛であり、そしてそれらを奪いに来る何かの影だった。それらはどこにあるのか?
きっとそれは、宇宙の果てだ。すごく遠いところだ。
妃紗は漠然と、そんなことを思っていた。
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