2.
初夏の学校帰り、ふと声をかけられた。
「山吹さん……」
辞めてしまった美術部の、デッサン会でモデルを勤めていた子だった。同じ学年の別のクラスで、名字は忘れたが、確か薫子という名前だ。妃紗は戸惑いつつ立ち止まる。
「何?」
「もう、戻ってこないの? 美術部」
「うん……絵も描いてない」
薫子は自分をじっと見つめていた。その瞳は深くて、何かを見通されるようだった。妃紗は思わず目をそらした。
「どうして?」
「……私、人が描けない。だからもうやめた」
そう言って、妃紗はそのまま去ろうとした。
「待って、ねえ、今は描けなくても、何度も描いたら……描けるようにならない?」
「え?」
薫子の言葉は意外だった。大抵自分が描けないとか言うとすぐ、描けるよとかうまいよとか、自分勝手なことを言う人ばかりだったからだ。
「何度もって……」
「私ね、あの時、自分を描いた絵を破られて、とても、とても悲しかったんだ。泣きそうになった。でも、きっとあなたが、自分の作品に納得していないだけなんだって思った。だから、だからよかったら、もう一度描いてほしい。一度でダメだったら、二度でも三度でも……」
そう言う薫子は、破られた時を思い出したのか、涙ぐんでいた。涙を手で拭った。妃紗は言い訳を探す。
「別に、他の子もみんな描いてたじゃない。私の絵よりうまいぐらいだよ。私の絵は死んでる……別に私の絵がなくても……」
「私は、あなたの絵をずっと見てた。小学校の時から知ってた。何度も地域代表になったでしょう? 私は憧れてたんだ」
「さっきも言ったけど、私は人が描けない」
「それなら私を描いて! 描けるようになるまで一緒にいるから」
面と向かって他人から要求された経験もあまりないので、断り切れず、それからは毎日、妃紗は薫子の家で、薫子のデッサンをすることになった。相手が自分を信じてくれていると思えば思うほど、描けないということが分かった。感情が込められない。見えているものを紙に写すだけだから、感情を込める必要などないのかもしれない。そうして描いている画家だっているだろう。でも、妃紗にとっては、それは死んでいるのと同じだった。思えば小学校の頃、母をそうして描いたのだ。絵の中で母を殺した。先生は上手だと褒めてくれた。母は褒めてはくれなかったが、けなすこともなかった。それでいい。もう他に誰も殺したくない。たとえ絵の中でも、特に自分を信じてくれている薫子を、殺すわけにはいかない。でも、それでは描けない。妃紗の手は震え、何日も線一本描けなかった。でも薫子は、それに対して何も言わなかった。時間が来ると、妃紗は帰り支度をし、薫子の家を出る。
「じゃあね」
「うん、明日も来てね」
会話はそれだけだった。妃紗の気持ちは重苦しく、もうやめたいと思った。でも、ここでやめてはいけないと思った。自分が人の絵を描けるようになるかどうかではない。薫子を悲しませたくなかったからだ。
描きさえすれば薫子は満足する。苦しむのはもう嫌だったから、ある日、逃げるように妃紗は描き始めた。それは今までと同じ描き方だったが、薫子の表情が明るくなるのが分かった。自分がとうとう描き始めたと思ったに違いない。でも、実際はそうではなかった。薫子の表情を理解しないように、妃紗はデッサンを手早く進めた。画用紙の中で薫子が死んでいく。苦しい。でももうやめたいのだから仕方がない。もうすぐ描き上がる。もうすぐ解放されるという時、書き上げたら薫子が本当に死んでしまうような気がして、そして自分のしていることが恐ろしい気がして。妃紗は以前と同じように、クロッキー帳のページをむしり取るとビリビリと破いてしまった。薫子の顔は見なかった。妃紗は叫んだ。
「もう嫌だ! 嫌だよ!」
妃紗は自分のカバンを抱えると、逃げるように薫子の家を出て走り出した。そのまま自分の家までずっと走った。あんな態度を取った以上、薫子はもう自分に話しかけてこないだろう。自分に何か期待なんかする方が間違えている。自分は普通に人と関われる人間ではない。
次の日、薫子のクラスを何となく覗いてみると、薫子の姿は見えなかった。壁に貼ってある書道の字から、薫子の名字が分かった。もしやと思って近くの人に訊いてみると、薫子は学校を休んでいた。妃紗はその場に崩れ落ちそうになった。自分が傷つけてしまったせいだ。その日一日、授業も頭に入らない。友達はいなかったから、誰かに話しかけられて混乱することはなかった。ただ、薫子のことを考えていた。せっかく明るくなった表情。期待させておいて、壊してしまうなんて。とりあえず、謝らなければ。
学校が終わって、薫子の家に行った。もう会ってくれないかもしれない。でも、自分のことはどうでもいい。薫子は今までのように学校に来てほしい。たかが自分のせいで来れなくなる必要なんてない。
ドアホンを押すと、薫子の母親に招かれた。最近毎日来ている仲のいい友達という認識。
「薫子、山吹さんが来たよ」
母親の声で、薫子の部屋に入れられた。薫子はベッドに寝ていたが、妃紗が来て、上半身を起こした。妃紗はややうつむいたまま、薫子の顔をまともに見ることもできない。
「昨日は……ごめんなさい……」
聞こえるか聞こえないかのような声しか出せない。返ってきたのは、意外にも明るい声。
「いいんだよ……こういうこと、一回ぐらいあるんじゃないかと思ってたよ」
妃紗は顔を上げた。薫子は微笑していた。
「怒ってないの……?」
薫子はうなずいた。
「でも……私のせいで、学校に来れなくなって」
「あー、ただの風邪なんだけど……山吹さんのせいじゃないよ」
妃紗の冷たくなった心が、溶けていく気がした。
「そうなんだ……」
「来てくれて嬉しい。ありがとう。もう来てくれないんじゃないかと思って」
薫子の言葉が、自分の心を溶かしていく。これは何だろう。薫子を見つめると、まるで輝いているかのようだ。
「私は、来たんだ。まだ……絵が描けてないもの。あなたの……」
妃紗はクロッキー帳と鉛筆を出した。そして、描き始めた。
「今なら、描けそうな気がする」
「そう? お願い」
ベッドの上で上半身を起こした薫子を描いていった。緊張はなかった。妃紗の願いは、ただ、今の、この瞬間の薫子をとどめておきたいことだった。そのために、自分が持てる力をせいいっぱい使って、表現していく。自分の描く世界の中で、一瞬は永遠となる。自分の力で、一瞬を永遠に変えてゆく。それはちょうど人生という樹の、枝のどこかに灯る光だ。妃紗はあの夢を思い出していた。私達という樹に灯る光。
そして、デッサンが描き上がった。今までのように見たままではなかった。輪郭を描く線は太く、そこにラフな陰影をつけていた。見たままを描くのが目的ではなく、一瞬を永遠にすることが目的だったから。
「できたよ……できた……」
妃紗は震えるような声で言う。
「見せて」
妃紗はベッドの傍らに行き、薫子に描き上がったデッサンを見せた。薫子の表情は優しく、安堵に満ちていた。
「ありがとう。これ、もらっていい?」
「もちろん、いいよ」
妃紗はクロッキー帳の一枚をそっと切り離し、薫子に渡した。薫子はまぶしそうにそれを見つめた。
「宝物にする。ずっと、私の大切な宝物」
薫子はそう言うと、傍らの妃紗に腕を伸ばし、そっと抱き寄せた。誰かの腕に抱かれるなんて、妃紗は母親にすらしてもらった記憶がない。まるで夢の中にでもいるように、薫子の温かさを感じた。それはほんの数秒だったが、薫子は妃紗を愛していて、妃紗も薫子を愛していた。
それが永遠というものにつながる何かのような気がして、しかしそれは一瞬で終わることを心のどこかで分かっていて、それゆえ永遠を願う切実な気持ちが、心を通り抜けていったから。
「さて、もう少し寝なくちゃ。明日学校行きたいしね。ありがと」
妃紗から腕を放した薫子は、笑いながらそう言って、布団にもぐった。
帰り道、空には星が出ていた。今日の日が、あの中のどれかの光になるんだ。妃紗はそんなことを思った。
永遠を望む、一瞬……妃紗は何かを思い出し、走り出した。そして自分の家に帰ると、草間彌生の画集を広げた。
「愛はとこしえ」
その作品はモノクロで、自由奔放な形状が無数に反復され、入り乱れている巨大な絵の連作だ。引き込まれる絵だったが、これがなぜ愛なのか、愛がなぜとこしえ……永遠なのか分からなかった。でも……妃紗は画集を手に震えた。愛は永遠ではないが、切実に永遠であろうとする、そのことなのだと。だから、この絵は愛だった。無限に増殖して展開され、永遠を獲得しようとする、そのことが愛であると。
描かなければと妃紗は思った。私も描かなければ……
中学二年になって間もなく、薫子は親の都合で関西の学校に転校していった。別れの日に、泣きじゃくる妃紗を薫子は肩を抱いて慰めた。その時、手紙のやりとりをしていこうと約束し合った。世の中はスマートフォンで常にコミュニケーションをするのが当たり前になっていたが、二人ともスマートフォンは持っていないし、時代に反発するように、二人とも手書き文字でのコミュニケーションを望んだ。妃紗が絵を描いていて、薫子がその絵を好きだというのもその理由にあった。文字を書く描線に、その人が宿るのだと信じて、確認し合った。妃紗も、薫子の柔らかくて優しい字体は、彼女そのものだと思えた。薫子も、妃紗の文字が好きだと言った。
薫子からの手紙は待ち遠しく、来た時は嬉しくて、何度も読み返した。手紙はいつでも期待に応えて、絵の混ざった長い文章で、薫子が転校先で何を考えていたかとか、どんな生活をしているとかがよく分かった。夏休みには必ず一度会おうと約束した。妃紗も自分のできごとを、絵を交えて書こうとするのだが、学校生活はつまらなく、新しい友達もできず、結局毎日絵を描いているだけだった。薫子を心配させるのも嫌なので、それなりに絵を描いて楽しい生活を送っているように装っていた。ただ、それもだんだん苦痛になってきた。逆に、薫子は転校先で楽しく生活しているようだった。薫子にはもう別の友達ができたのだ。どこかに遊びに行った話や、誰かと過ごした話が多くなった。自分は寂しかったが、そんなこと手紙に書けない。ふと、こんなことでいいのかと思ったりする。偽った姿を見せて、自分は何をしたいんだろう。それでも、つながっていることに意味があるんだと思っていた。
何度も見た幻覚の通り、自分という人間は一本の樹で、自分はその枝に光を灯すために生きていて、自分の人生は枝を進むようで、薫子とのあの日は枝の途中に灯る一つの光のようだ。ふと考える。なぜ枝なのだろう……なぜ一本の柱のではないのだろう。枝は幹からいくつも分かれている。そこに光が灯ることもあり、そうでないこともある。でも人生は一つの道で、決していくつもには分かれない。だから樹の幻覚と人生を結びつけるのはおかしいと思う。でも、気持ちがしっくりこない。
夏休みの一日、薫子と会うことができた。家族で数日、こちらに来ていると言う。妃紗にとっては待ちに待った日だった。久しぶりに薫子の姿を見た時はまぶしかった。以前よりも一層快活で、二人で近況などいろいろなことをしゃべったのだが、その中で、薫子が伏し目がちになって微笑しながら言った。
「実は私……つきあう人ができたんだ」
彼氏ができたと言う。妃紗には信じられなかった。誰かとどこかに行った話は、手紙に何度も書いてあったが、それはみんな、その彼氏とのことだった。
「優しくていい人だよ。将来……結婚しちゃうかも」
薫子はやや照れながら言うが、妃紗は打ちのめされるような気分だった。別に自分が、薫子を恋人のように思っていたわけではないけれど、少なくとも自分以上に薫子に愛される人間が、一人はいるということなのだ。だから薫子は、自分がこの世にいなくても、その一人が確かに隣にいて、薫子に愛されて薫子を支えるのだ。自分には、薫子以外誰もいないというのに……その事実は鈍くて深い痛みを伴い、妃紗の心に刻みつけられていく。
薫子は自分よりもずっと人付き合いが上手なのだ。だから自分と同じような、寂しい境遇になることを望んではいけないと、自分に言い聞かせた。自分は薫子の幸せを望まなければならない。
「幸せになれるといいね」
妃紗がどうにかそう言うと、薫子はうなずいた。
「うん、ありがとう」
それからは、手紙を書くのがますます苦痛になった。薫子からは特に変わらずに、まるで無邪気に妃紗の絵の成功を願っているかのような内容で来るけれど、妃紗はそれに対し、苦しみながらどうにか返事を書いているという有様だった。その返事の量も減っていく。
樹の幻覚も、あるいは形のない生き物の幻覚も、みんな嘘のような気がして、絵も描けなくなった。日々の授業だけはどうにかこなしていたが。絵に力もなくなり、描いても学校の代表に選ばれるようなこともなくなった。薫子との手紙も間が空き、最近は絵もぜんぜん描いていない、もう何も描けないなどと乱暴に書き、薫子に心配されても無視し続け、中学三年を迎える頃には手紙も途絶えてしまった。
中学を卒業し、妃紗は普通高校に進んだ。美術系の専門学校を希望したが、母には反対された。絵も描いていなかったし、どうにもならなかった。ただ、進学せずに働けなどとは言われなかった。母はもう、妃紗が無難で普通に育っていれば、どう生きようと関心などないのだと思った。
そして、それが本当に、自分に関心がないのだと思い知らされることが起こる。母が突然再婚した。相手の男とは勤め先で知り合い、やはり相手も妻と離婚していた。相手には小学生の息子がいた。妃紗は突然小学生の男の子の姉になってしまった。
新しい父はまじめだった。ただ妃紗に対して優しいかというとそうでもなく、冷淡で距離を置いていた。母は妃紗のことを、もう高校生だから放っといてもいいぐらいのことを新しい父に言っていた。でもあとで思えば、それだけが理由ではない。義理の娘とはいえ、血のつながっていない異性なので、性的対象になってしまうのが恐ろしかったのだ。娘を心配して、ではない。自分が嫉妬に狂うのが嫌だったのだ。新しい父は、母のその気持ちを察してか、妃紗を意識して避けていた。でも、それはそれで嫌だった。
母は弟に対しては、妃紗と対照的に優しく積極的だった。見たことのないような笑顔で、何かと可愛がった。妃紗には信じられなかった。母は一応妃紗にも優しくなったが、それが本心でないことは態度や目を見れば分かった。母は妃紗を見る度に、別れた夫、妃紗の本当の父親を思い出すのだ。そして憎しみだけが沸き上がってくるのだ。
弟ともうまくいかない。弟は乱暴だった。ちょうど女子をバカにする年頃で、高校生の姉なんてふざけるなという態度だった。妃紗の持ち物をいくつも壊されたりした。その度に注意したが聞く耳を持たない。父が注意するとその場は治まる。ただ、しばらく経つと、自分に対してまた嫌がらせが始まる。
ある日、弟に最も大切にしている草間彌生の画集を破られた。その時はさすがに本気になって怒って飛びかかった。抵抗する弟を蹴り上げ、本棚に叩きつけた。父も母も飛んできたが、画集の価値など分からない二人なので、怒られたのは妃紗の方だった。たかがこんな絵の本のことで、というような態度だった。母などはちょっとしたいたずらをした程度だと言って弟を優しく慰める始末。そして母が自分を見つめる目には、本気で憎んでいるということが明らかだった。この家に、自分の居場所はもうない。ここにいない方がいい。そう思うなり、忘れていた発作が起きた。床に倒れ、咳き込んで、呼吸困難の状態になった。しばらくは仮病だと思われたが、発作は本当のことだった。
母が弟に向ける優しい顔を、なぜ自分には向けてくれなかったのだろう。自らの体から産んだ子に、向けられないわけはないのに。母の顔が二重写しのように感じられる。自分に向けられるはずだった本当の顔が、仮面の下みたいに埋められているのではないか。それは時を越えて、今の母の顔を破って出てこないのか。今の母に失われたものなら、自分が生まれた時に、そこから引きはがされてしまったのかもしれない。
それは存在していたはずだ。確かに存在していたはずだ。本当の母の顔が、自分を認めてくれる、優しい母の顔が存在していたはずだ。しかしそれは奪われてしまった。誰に? 別れていった父に? 母自身に? いや、奪うことができる人間などいない。
存在しているはずのものが、自分の人生に存在していないのだから。だから、その存在しているはずのものを、受け取っている自分が、どこかにいるはずだ。どこに? 例えば、違う世界に……違う世界?
妃紗は叫んだ。幼い頃からの幻覚の意味が分かったからだ。私達は一本の樹として生きている。そして光を灯す枝と、灯さない枝がある。無数の枝によるその全てで、一本の樹を形成する。それが私達一人一人の姿だ。
人は、時を経るに従い、いくつもの枝に分かれるように、いくつもの世界に分かれて進むのだ。だから、自分の進む枝に、あるべきものがないことなど、ありふれたことなのだ。
母の本当の笑顔を、受け取る自分は、きっとどこか違う世界にいる。分かれていった違う枝に。なぜなら、私のためのその笑顔は存在しているに違いないからだ。そして、その枝にはきっと光が灯っている。
それは愛の光だ。
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