第二部 多世界

1.

 山吹妃紗は、幼い頃からひたすら目に映るあらゆるものを描き続けていた。家の中の本棚や机や皿や掃除機。絵本の中の、女の子や花や機関車。外に見える木や空の雲や遠くを行く飛行機。クレヨンを使ったり、色鉛筆であったり、ただの鉛筆であったり、ボールペンであったり。描くこと以外、楽しいことも何もなかったように思う。

 父は家にいないことが多かった。たまにいる時も酒を飲んで酔っていることがほとんどで、自分にやたら愛想笑いをし、時に抱きつこうとし、キスをしようとし、常に酒臭くいい印象がなかった。暴力的ではなかったが、母に向かっては怒鳴ったり、逆に土下座して泣いたりする。あとで知ったことだが、父には愛人がいて、愛人の家に転がり込んで一晩過ごすようなことを繰り返していた。母はそんな父を怒るでもなく、ほとんど無視していた。

 母は妃紗には厳しかった。叩いてしつけられた。遊びも制限された。おもちゃもほとんど買ってもらえない。テレビも見られず、今のようにパソコンもない。口答えをしようものなら激しく叩かれた。好き嫌いも、食事を残すのも許されず、半分泣きながら口に押し込んでいった。だから食事の時間はなおさら苦痛だった。あとになって思えば、母は母自身が嫌いだったらしい。父のせいだった。あんな父を選んだことで、自分で自分を嫌になっていたのだ。妃紗には自分のようになってほしくないから、賢さと強さを身につけさせようと思い、それで厳しく当たったのだ。でも、子供の心にそんなことは分からないし、賢くも強くもならなかった。幼い妃紗は笑顔を忘れて育っていった。幼稚園では誰とも話ができず、遊ぶこともできず、ただ決められたことをして過ごしていた。母が幼稚園の先生に何度も呼び出されたが、そのたびに母の方が相手を罵倒する始末だった。そのうち、先生も妃紗に構ってくれなくなった。母が怖いのだ。

 母は、お絵かきはまじめな遊びだと認識していたので、妃紗は好きなだけ絵を描くことができた。画用紙もスケッチブックも好きなだけ買ってもらえた。だからそれだけが楽しみで、それだけが自分がちゃんと生きている感じがする時間だった。絵を描いている時だけ。あの恐ろしい母から解放される。妃紗は朝から晩まで描いた。ひたすら描いた。目の前にあるものを、目に映るままに、紙に描いていった。物の形がある。色がある。明るいところと暗いところがある。紙に色をこすりつけ、そこに近づけていく。さっき描いたものより、今描いたもの。今描いたものよりも次描いたもの。描けば描くほど上達した。それは自分でも驚くようなもので、密かな喜びでもあった。絵を描いた紙は何百枚もたまった。母は絵に感心しつつも、あまりに量が多いので、たまったものはほとんど妃紗に何も訊かずに捨ててしまった。だから本当に大事な絵は隠しておいた。

 妃紗は小学校に行くようになったが、あいかわらず友達ができない。この頃、父と母は離婚した。妃紗は母について行った。母は厳しかったが、何もしてくれない父よりはましだと思った。妃紗はこの頃から時々発作を起こすようになった。発作の時は呼吸困難になった。医者には過換気症候群と診断されたが、精神的なものだったので。薬を使ってもあまり効かなかった。学校は時々休んだ。母ははじめ無理にでも行かせようとしたが、発作がさらにひどくなるので、だんだん諦めてきた。それと同時に、母自身も病んできて、病院に通うようになった。そして妃紗の前でよく泣くようになった。妃紗を生まなければよかったとも言った。妃紗は心を閉ざしていた。

 妃紗は絵が抜群にうまかったが、図工の成績は決してよくはなかった。というのも、工作は苦手だったし、自分の好きなことしかやろうとしなかったから。小学校二年の頃、妃紗は同級生にいじめられるようになった。もともと口下手だし、親しい友達もいない。勉強もあまりできない。女の子達から口汚くののしられ、身なりが汚いことと、勉強ができないことをバカにされた。そういえば母も、ほとんど服を買ってくれない。妃紗は休み時間にも絵を描いていたが、男の子達に取り上げられた。この時はさすがに怒って追いかけたが、追いつくはずもなく、しまいに床に倒れて発作を起こした。これは学校で問題になり、男の子達も相当怒られた。以来、男の子には相手にされなくなったが、女の子達の悪口はあいかわらず続いた。

 いじめと前後して、妃紗は時々幻覚のようなものを見るようになった。それは樹々の並ぶ風景で、樹の一本一本は細かく枝分かれをしている。そして枝の先にところどころ、光が灯っていた。あの光が自分や、あるいは人々に必要なものだと、幻覚を見る度に妃紗は思った。他にも、樹の代わりに地面にへばりついているような、形のない生き物みたいな幻覚も見た。それは呼吸しているかのようにゆっくり動いていたが、途中で空から降りてきた槍のようなものに突き刺され、空へと回収されてしまう。突き刺された時、激しく光ることもあった。あの槍は光を奪い取ろうとしているのだ。樹の幻覚はなんとなく安心できたが、地面にへばりつくものの幻覚はひたすら怖かった。突き刺されるということばかりではなく、自分が本当はあんな姿だと思えてしかたない。なぜあんな地面にしがみついている必要があるのだろう。

 妃紗はその幻覚の絵を描いた。小学三年生になっていた。図工の絵の課題で、課題をほとんど無視して描いてしまった。課題は遠足だったが、リュックを背負った子供達の行列は描いたものの、歩いている場所は森でも山でも公園でもなく、へばりつく生き物が広がる大地だった。もちろんそんなところは通っていない。ただ、気分的には近いものがあり、友達のいない妃紗には、遠足の道を歩いている自分は自分ではなく、空からの槍に怯える自分の方が本当の自分だった。空に小さく一本だけ槍を描いた。今にこっちに飛んでくるのだ。金属の光沢を持つ槍が迫ってきている。自分を突き刺しに来るのだ。

 水彩を初めて使ったが、かなり繊細に表現できることをすぐに発見した。授業の時間が終わっても描いていようとしたので、先生に注意されたが、特別に放課後の図工室を使うように言われた。課題と違うことには何も言われなかった。ただ、絵を完成させるようには言われた。広い大地に一面の形のない半透明の生物、うごめいていて、そして怯えている。暗く遠い空から迫る一本の槍、それは遠くてもはっきりと分かる。絵は完成した。

 この課題は他の生徒と並べて展示されたが、妃紗の絵は異様な迫力と存在感があった。遠足の風景にはとても見えないので、同級生は頭からバカにした。ただ、その子達も妃紗の絵を見て、何かを感じ取り、本気で怖がっている様子だった。他の子には無い奥行きや、質感の表現があった。絵として優れているのは自分でも分かった。他の生徒はまだ水彩の使い方もよく分かっていないのだ。図工の先生は女性だったが自分に対し褒めることも注意することもなかった。担任の先生も凄いなと言っただけで、他には何も言わなかった。その時以来、いじめも減っていったが、どの子も妃紗を恐れていたようだった。

 その課題があってからしばらくして、図工の先生に妃紗だけが呼ばれた。行くと、図工室には数人の大人がいた。いずれも学校の先生らしい。テーブルの上に、今まで妃紗が描いた絵が広げられていた。もちろん遠足の課題もあった。

「山吹妃紗さんだね?」

 中の一人が言った。口調は優しかったが、妃紗はいい気分ではなく、もしかして怒られるのではと思った。

「はい」

「君は、どこかで絵を習っているの?」

「いいえ」

 その人は、遠足の絵を前に出した。

「ここにいる先生達はみんな、君には絵のすばらしい才能があると思っている。これも、すごい絵だと思うけど。君の頭の中の風景かな?」

「多分。でも、見えるんです。時々」

 大人達は目配せをし合った。一人が持ってきたカバンの中から、何冊かの本を出した。どれも画集だった。

「そう、君のように、見えてしまう幻を絵にした画家が何人もいてね……たとえばこのウィリアム・ブレイクとか……」

 そう言って、ブレイクの画集を広げようとしたが、妃紗は聞いていなかった。その中の別の一冊に目を奪われていた。黄色地に黒の水玉模様、それが触手のような姿をして、入り乱れていた、妃紗はブレイクを無視して、その画集を手にとって広げた。画家の名は草間彌生といった。

 それからのことは、覚えていなかった。画集を見たまま気を失ったらしい。気がつくと保健室に寝かされていて、大人達は誰もいなかった。夕方で外はもう暗くなっている。早く帰らないと、母が仕事から帰った時に家にいないと怒られる。近くに置いてあったランドセルを背負い、保健室を出ようとすると、呼び止める声がした。図工の先生だった。ずっと一緒にいてくれたらしい。

「山吹さん……もう大丈夫なの?」

「……はい」

「緊張しちゃったのかな? でも、先生達と話し合って決めたんだけど、ちゃんと絵を習ったらどうかなって。あなた絵の具の使い方、すごく上手だから」

 先生はにっこり笑った。今まで自分に笑顔など見せたことがなかったのに。

「今度、絵の先生を紹介するね」

 先生は優しくそう言った。妃紗はうなずいた。その時、自分は将来画家になるかもしれないと思った。

 しかし、妃紗が絵を習うことはなかった。母の反対で止められてしまった。母は、絵は遊びとしてやるのはいいが、学んで、ましてや画家になるなんて許す気はなかった。先生達が家にも来たが、母は頑なに拒否し、先生達が帰ると、今度は妃紗を罵倒した。途中で発作が起きたので、罵倒は止んだが、もう二度と、母に絵は見せられないと思った。

 それから妃紗は母を騙し続けた。絵など描いていない振りをした。実際は、隠れて描き続けた。図工の先生は自分に謝ってくれたが、それもどうでもよかった。なぜか図工の成績がよくなった。図工の先生が、母にアピールしたいと思っているのだろうか。

 妃紗は小遣いを少しずつ貯め、草間彌生の画集を買った。画集は不真面目な本ではないが、これは親には見せられないと思った。一面の水玉、無数にうごめく生命、無数のブツブツした突起、一面の格子……無限に広がろうとする意志。命が踊っている。魂が降りてきている。飽きなかった、引き込まれた、思わず天を仰いだ。遠くに何かを感じる。それはとても、とても遠く……草間彌生もきっと同じものを感じていたに違いない。それは存在する。それは、きっと宇宙の果てだ。そこに存在する。

 光が灯る樹々の立ち並ぶ中、空の果てには光がいくつも見える。それは自分達を導く光だ。それは星とも呼ばれるが、しかしその光は、結局は一本の樹だ。巨大な樹の成長した姿だ。無数に枝分かれして、その先が灯った光が空に見えている。妃紗の幻覚では、空に瞬く無数の星は巨大な樹に灯る光だった。地上の小さな樹も、宇宙を覆う巨大な樹も、無数に枝分かれていることは同じであり、その枝の数も同じである。

 小学校高学年になり、妃紗の絵は絵画部門で地域の代表として何度も展示された。この頃になると、課題とうまく折り合いをつけて、自分の好きなものだけを描くことはなくなった。他の学校の先生が、妃紗の絵を見に来た。妃紗は何人もの先生から激励を受け、自分は将来画家になることを心に決めていた。ただ、母には話せない。母に話すと狂ったように否定するからだ。どの先生も気の毒がったが、かと言って母を説得させようという人も現れなかった。母の悪評も知れ渡っていたからだ。

 妃紗は小学校を卒業し、地元の公立中学に通うようになった。中学には美術部があった。妃紗のことはもう先輩となる部員達に知られていて、入学して間もなく、女子の先輩が入部するよう何度も誘いに来た。妃紗も他に入れる部活などなさそうだったので、美術部に入ることにした。

 美術部は人数も十人足らずで、こじんまりしていて、女子しかいなかった。活動は週に二回あったが、時間も適当だし、ほとんど絵なんか描かずにおしゃべりばかりしている。たまに描いていると思ったらマンガだった。誰も油彩どころか、水彩も行っていない。妃紗は一人来て、黙って静物などを描いていたが、部員のおしゃべりで気が散ってほとんど描けなかった。美術部なのになぜ描かないのか、なんて面と向かって言う気にもなれない。妃紗は先輩を含め、全部員から先生と呼ばれ、おしゃべりの合間に妃紗の描きかけを見て感心し、褒めたたえたが、妃紗は嬉しくも何ともなかった。

 五月のある日、デッサン会があり、部員の一人をモデルにして、全員が時間内に描くことになった。モデルは同じ一年生だった。制服姿で椅子に座っている。さすがにその時は、全員まじめに取り組んでいた。終わらない子もいたし、顔だけどうにか描いた子もいた。終わってみると、当然のように妃紗の絵が最も写実的で、手早く質感まで表現されている。他の子にやっぱり先生はすごいなどと言われたが、妃紗は苦笑するばかりだった。この子達は普段何もしてないんだから当然だ。全員の作品が並べられ、妃紗は他の子の作品を見渡していたが、ふいに愕然とした。自分の絵だけ死んでいると思った。確かに見たままに似ているが、まるで人形だった。他の子は全くうまくはない、それでも何か絵に温かみというか、人間味がある。他の子は気づいていないのだろうか、あるいは、気づいていない振りをしているだけなんだろうか。なぜこんなことになるのか、妃紗は今まで考えないようにしていたことが、心に襲いかかってくるのが分かった。

 自分はありとあらゆるものを描いてはいたが、人を描いたことはなかった。小学校の図工の時間、想像であれ親の絵を描くのは苦痛だった。思い出したくもない。あんな親だから当然だ。別の課題で、前の席にいる友達の絵を描く時も、何か胸の痛い、嫌な作業だったのを覚えている。妃紗は人を恐れていた。親子というこれ以上ない太い絆を持っていても、自分の命まで否定するような言葉を吐ける存在。人はこの世のあらゆるものよりも、自分にとって危険なものだ。恐ろしいものだ。絵を描くことは自分にとって生きることそのもののようなものだったが、そうなると人を描けば人の恐ろしさを描いてしまうかもしれない。しかし、描いてしまうと相手から恐ろしい目にあわせられるのは間違いない。描いてはならない。でも、自分の腕が間違って描いてしまうかもしれない。人を描かなければならない時は、そんな恐怖を乗り越えないといけなかった。自分に言い聞かせていた。描ける、描ける、描ける……目に見えたものだけ。相手の恐ろしさに触れない部分だけ。そして描けたはいいが、今日、自分がどうなっているかはっきり分かってしまった。結局自分は何も描いていないのだ。生きているということを、何も描いていない。

 妃紗は突然、立ち上がり、走っていって自分のデッサンを奪うと、ズタズタに引き裂いてしまった。突然のことに他の子は動揺し、半分泣き出す子もいた。妃紗も泣いていて、そのまま美術室を飛び出すと、もう戻ってこなかった。

 このことはたちまち女子の間に広まって、妃紗は情緒が不安定で関わらない方がいい子になってしまった。当然のように美術部も辞めてしまい、妃紗は絵も描かなくなった。自分は人一人描けない。それがどうしてかは分かっていた。自分には友達一人いないからだ。かといって、今から誰かに近づいて、親しくなろうという気もないし、こんな自分では拒否されるのは目に見えている。もう死んだように、毎日生きるしかないのだと思った。妃紗は自分を生んだ母の死を待つだけだった。そうすれば、自分も死んでいいのだと思った。自分が今死なないのは、親が悲しむからではない。死んだら親が喜ぶと思ったからだ。あの女は死ぬまで朗らかに笑うべきではない。妃紗は死んだように毎日を過ごした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る