4.
小野とはあれから二、三の会話をしたが、彼氏がいると分かった上、その彼氏に比べて自分の魅力のなさも思い知ったので、会話も弾まない。仕事中チラチラ見ることもなくなってしまった。
二週間ほど過ぎ、ある家電メーカーの人工知能研究グループに、サーバーシステムを納めるという仕事をしていた。今回も上司の指示で提案資料を作ったが、資料内に人工知能の用語を使わされるので、よく分からない緑川はネットなどで調べるしかなかった。時に初心者向けの本を読むこともあった。人工知能について難しいことはよく分からないが、あの三色ライフゲームのルール作りに使えないかと考えていた。放り出したといっても、実際のところ常に頭の片隅にはあって気にはしていた。何よりも、まだ吉野の死から立ち直っていない。人工知能の手法は何かヒントになるような気がしてきた。
人工知能には、遺伝的アルゴリズムやニューラルネットワークという手法がある。緑川は考えた。人工知能は膨大な組み合わせの中から最適化させる手法でもある。三色ライフゲームの膨大なルールをどうにか最適化できないだろうか? ルールを遺伝子と見なし、進化させることはできないだろうか? 緑川は三色ライフゲームのプログラムを、人工知能風に改造し始めた。
三色ライフゲームのルールを、ランダムな設定で用意してみる。それが優れているかそうではないか、これはプログラムでは判断できそうもない。実際に、実行させてみて、自分が視覚的に判断するしかないと思った。それが優れていれば、そのルールで使われた各条件の採用確率が少し上がる。条件の一つ一つ、例えば「現在何もなく、周囲が緑二黄一赤三の場合」について、設定できる値、つまり次のステップは、何もないか、緑、黄、赤のいずれかである。開始状態では、この四つはそれぞれ二十五パーセントの確率で選ばれるが、優れたルールで採用されれば、その状態のものの確率が上がる。そしてまたランダムにルールが用意されるが、優れたルールで使われた設定が採用確率が高くなるのだ。ルールが用意され、それがまた実行され、判断される。そしてまたルールが作られる。この繰り返しで、次第に優れたルールが生まれてくるのではないか? 仕組みは難しくない。プログラムは一週間もかからずできた。早速実行する。次々と表示されるパターンを。優れているかそうでないか、しばらく動きを見て、イエスかノーを入力して判断する。
しかし、結果は思わしくなかった。いくら判断を入力しようと、どこかに収束する様子は見えなかった。クラス1から3がランダムに出て、たまにクラス4らしきものが出るだけだった。確率を変えてないのと変わりがない。ひたすらイエス、ノーを入力していくが、進歩が見えない。この方法はだめかもしれないと思い、違う方法を考える。
今度はルールを一つの遺伝子と見なし、優れたものだけを残していくように、遺伝子を組み替えていく手法を取り入れた。まずランダムに設定したルールを十通り用意する。そのルールを使ったライフゲームの画面を順番に表示していき、優れているかそうでないか、イエスとノーで入力する。ノーとされたルールは廃棄され、新たにランダムに設定したルールと入れ替える。イエスのルールの方はランダムな確率に応じて、イエス同士の中の一部を互いに交換する。ほんの一部の場合もあれば、半分近く交換することもある。イエスのルールが十通り中の一つしかなかった場合は交換できないので、そのまま次に採用する。これで再度ルールを十通り揃え、また順番に表示していき、今までと同じことを繰り返す。こうして優れたと判断されたルールを進化させ、より優れたルールを生んでいけるのではと考えた。これは人工知能の遺伝的アルゴリズムの手法を参考にしたものだ。
優れていると感じるのは当然クラス4に見えるパターンである。それらのルールを残し、クラス4ルール同士の組み替えを行っていった。しかしこれも、どうにも効果がないと思われた。クラス4ルール同士の組み替えが、クラス4になるとは限らないからだ。むしろ、組み替えたらそれが崩れてしまうことがほとんどだった。ライフゲームのパターンは、ルール内で各設定がつながりを持っていることで生まれる。つまり、あるルールから誕生したパターンが、次のステップで、同じルールにより別のパターンへと変化するが。それはルール内の条件のつながりでもある。特に移動体ではこのつながりが重要になる。生命を感じさせるのは、このつながりが巧みに定義されている場合なのだ。ルールの中の一ヶ所変えても全体が崩れてしまうことがある。
しかし、緑川はこの方法で進めていった。これは生命ではなく、生命を「感じさせる」ものでしかないことは緑川も分かっている。ただ、この方向に何かがある、きっと何かが見えてくるとも思えている。亡き吉野はこの世がセルオートマトンでないかと言ったし、二重ラセンも魂は否定したが、決定論は死んでいないと言った。不確定性原理はないのだと。セルオートマトンが計算によるパターンである以上、複雑化してあたかも宇宙のように見えていても、それは決定論的宇宙でしかない。しかし、この宇宙が決定論でない理由もないではないか。そしてそれなら、単純なセルオートマトンからでも、宇宙や生命を感じさせる何かが生まれてくる可能性もあるのではないか?
緑川は何日も同じようにイエスとノーを入れていったが、何日経ってもクラス4ができては崩れていった。
しかし、ある日から、何かの方向性を感じるようなパターンが現れ始めた。十あるルールのうちの一つ、二つ、三つ……とそのパターンが出現していく。当然イエスを入力し残していくが、組み合わせの一部交換でも、大きく崩れることがなくなってきた。方向が見えている。あとは進化していくだけだ。緑川は静かに興奮した。いよいよ何かが生まれてくるのだと思った。
そのパターンは、三色全てを含んだ移動体がうごめくものだった。移動体は赤い核のような部分を持ち、黄色がそれを囲み、さらにそれを緑が囲んだようなもの。それらは顕微鏡の中の微生物のように、まるで当てもないかのように画面内を動き回った。あくまで計算なので、何もなければ同じ方向に動いているのだが、たいてい何かがあったり、他のものとぶつかったりして、それは挙動を変えたり、消滅したりする。他のものとぶつかって、相手を食ってしまうこともある。
これは生命だな……と緑川は感じている。ただ、一ステップずつの変化もできるし、ルールを書き出し紙の上で行うこともできるから、生命といえるものではないことも一応は分かっている。でも、まるで生命のスープ。命の素がうごめいているスープだ。緑川は身震いがしてくる。とうとう何か見つけたんじゃないか。
この設定はいったいどんなものだろうと、緑川は思って、ルールがどんな条件の組み合わせになっているか、ファイルを開いて見てみた。今まで進化してきた過程、そのルールである条件組み合わせが全部ファイルで残してあるため、好きな時点でのルールを見ることができる。緑川は最新のファイル、つまり最も進化したルールを開き、条件の組み合わせがどうなっているかを確認した。ただ、その結果は意外と単純で、がっかりしたぐらいだった。
現在何もないセルの場合、その周囲の生命体の色と数をカウントして、それに応じて生命が誕生するが、黄色がある程度多いと、緑の生命が生まれてきていた。他の色の誕生はない。
緑の生命のセルの場合、条件により多くは黄色の生命に変化する。つまり緑だったところが黄色になるのだ。一部緑のままや、赤になる条件も若干見られる。それ以外は何もなくなる、つまり死んでしまうのだ。
黄色の生命のセルの場合、条件により黄色のままか赤に変化する。死も多くある。緑への変化はわずかだ。
そして赤のセルの場合、条件により赤が生き残る。つまり赤のままだ。他は死んでしまう。黄色や緑がわずかにある。
これの意味するところは……と緑川は考えた。緑から黄色になり、赤に変わって死んでいく。緑で誕生し、黄色になり、赤になり、そして消滅する。これはどういうことだろう、考え続けて思いつく。緑で生まれ、黄色に成長し、赤く変わって死んでいく。つまり、誕生、成長、死という流れがある。子供、大人、老人と見てもいい。移動体となっているのは、世代を持つ一つの集団と見ていいだろうか。あるいは、動いている固まりを一つの生物とすれば、この誕生から死まで流れていくのは、それを構成する細胞ということになる。細胞に代謝が起きている。見かけは赤い核を持ち黄色い原形質と緑の細胞膜を持つ単細胞生物のようなものだが、実際の、そうした生物は細胞膜から原形質、核という形の代謝はしていない。ただ、古いものを捨て、新しいものを生むということでは同じだ。
しかし、こんな単純なしくみなら、遺伝的アルゴリズムもどきなど使わず、はじめから自分で設計してもよかった。何もないセルのところで、条件により誕生するのはほとんど緑であるが、合わせて数個ほど、黄色や赤の誕生する箇所があった。ここはもう緑にしてしまおう。あと、緑の誕生の条件が固まっている中に「何も生まれない」という部分もあった。では、ここも緑の誕生にしてしまおう。同じように緑のセルの場合や、黄色、赤の場合も同様に、条件をすっきりさせようと思った。効率がよくなるので、より生き生きするのではないか。そして条件の整理が終わってルールが完成し、走らせてみた。
……? 何かが違うと思った。もちろんルールが違うのでパターンも違って当然なのだが、何かが欠けている感じがする。赤い核を持った生物らしきものがうごめくということでは変わらない。しかし、どこか気配のようなものが感じられないのだ。進化したというより、退化している。整理したのがいけないのだろうか。数個の異質な条件設定が、印象を変えているのか? 確かに条件を一ヶ所変えれば劇的にクラスまで変わることもよくあるのだが。どうもそれとも違う気がする。基本的な印象はそんなに変わりないのだが。
再び、整理する前のルールで表示させてみた。やはりこちらにはしっくりくる何かがある。うごめくもの達が秘めている気配というのだろうか。そんなものを感じるのだ。どうやらこのルールは、無駄に何日もかけて遺伝的な進化を遂げてきたわけではないようだ。
緑川は、フリーウエアを使ってこのパターンの画面をキャプチャして、動画を作成した。そして動画サイトで初めてIDを作成した。この三色ライフゲームは一つの生物が三つの部分で構成されていることから「Trimerous」という言葉を探し出し、「トリメロースライフゲーム」と名づけて動画をアップロードした。インターネットで誰でも見ることができる。音を入れたわけではないし。誰が見てくれるかとも思ったが、鑑賞してくれた人はわずかだった。特にコメントも入らない。ただ、緑川としては、ある人に見てもらいたかった。もちろん二重ラセンだ。
二重ラセンのサイトはなかったが、モルフォジェネティクが専用サイトを持っていて、メールも出せるようになっていた。緑川は二重ラセンに宛てて、今回作ったトリメロースの作成手法と、動画のURLを書いて送った。しかし何日経っても返事はなかった。
再び上野に行くことになった。先日会社で、珍しく小野が自分のところにやってきた。何やら手に二枚のチケットらしきものを持っている。
「緑川さん、美術展とか興味ある? こないだリルカちゃんにもらったんだけど、モルフォジェネティクのジャケットを描いてる人が展覧会に出てるんだって。よかったら行ってくれる?」
小野が、自分と一緒に行こうと言うのかと一瞬期待したが、そんなはずもなく、二枚くれたのはリルカが何枚もくれて余っているのと、自分じゃない誰かと一緒に行けということらしい。一緒に行く相手などいないのだが、そうも言えず何となくもらってしまった。
二重ラセンからの返事はまだ来ない。モルフォジェネティクのジャケットがどうだったか、ホームページで見たような気がしたが、覚えていない。あらためて確認してみたが、蛍光色を使った人物画で、リルカと二重ラセンが描いてある。緑川は絵のことはよく分からないし、あまり好きにもなれなかった。それでも上野に出向いたのは、あのカラスという似顔絵描きにもう一度会ってみたいと思ったからだ。今ならどんな自分を描いてくれるだろう。そんなに月日が経っているわけではないから、変わらないかもしれないが、もしかすると、あのトリメロースのルールを見つけたことで、今の自分の輪郭が、まとまってきているのではないかと思った。あの時カラスは多世界の話もした。迷いは分裂する世界の数であり、迷いが多いほど輪郭が不安定になってしまう。そして二重ラセンも多世界の話をしていた。多世界ゆえ不確定性原理は存在しないのだと。
上野公園を歩いていく。展覧会の会場は公園内にある民間の美術館だった。若手芸術家の絵画作品を集めて展示しているらしい。入って見て回ったが抽象画が多く、美術に疎い緑川には何がいいのか全く分からない。目的の、モルフォジェネティクのジャケットを描いた画家も見つかった。画家の名前と誕生年も出ていた。緑川より二つほど年下の男だった。ジャケットと同じような、人物を蛍光色で描いた作品が出ていた。ジャケットは二人だったが展示されている作品では三人や四人で。知らない人がモデルだった。なぜわざわざこんな色にするのかと思いつつ、この感想を小野に伝えるべきかそうでないか、少し考える。よく分からなかった、というのも一つの感想だが、それでは何だか情けない。派手だった、では普通すぎるだろう。小野には彼氏がいるとはいえ、それでも、というかそれだからこそ、あまりバカにされそうなことは言いたくない。でもそれなら黙っていた方がマシかもしれない。要するによく分からないのだ。きれいだとも思えない。刺激的とか言おうか。いや、刺激もそう受けていない。答えが決まらないまま、絵の前を離れてしまった。
そういえばトリメロースの画面というのも、絵画に見えなくもない。あれをそのままキャンバスに描いて出したら、そこそこいけるのではないかと、緑川は思った。ここにある絵よりもよほど面白いのではないか。しかも動いているし。
並んでいるいくつもの絵を見るでもなく通り過ぎていったが、ふとその中に一つ、違う印象を持つものがあった。それは分かりにくい絵ではなかった。暗い中に、ガラスの樹々が無数に並んでいる。ガラスの幹とガラスの枝。どの樹も葉がなく、幹から無数に分かれる枝を持っている。枝の先端に、花のように光が灯っているものと点っていないものがある。とにかく異様な細かさだった。絵の前に立つとめまいが起こりそうだった。暗い空には明るい星が、これも無数に光っている、と思ったら、よく見るとそれも樹の姿だった。星に見えるのは樹の枝の先に灯っている光なのだが、その枝が細い細い線で微細に描かれている。遠くから見ると、光しか見えないので、空の星に見えるのだ。絵は横三メートルぐらいある大きなものだった。立ち並ぶ樹々の数は数えきれず、それぞれの樹の枝の数も数えきれない。そして空を覆う樹の枝の数も、全く数えきれない。よく見ると、空の枝と枝の間、夜の闇のように見える部分にも何か細かく描いてあった。かすかだが、針のようものが、びっしりと描かれている。だからそこは闇ではなく、まるでハリネズミの表皮みたいだった。見ていると息苦しくなる。
こんな細かいものを描いて気が違わないのかと思った。同時に、多世界のことを考えていたので、樹々の無数の枝分かれ、というところで惹かれたのかもしれない。多世界解釈の解説などを見ていると、だいたい樹のような挿し絵が描いてあり、世界は時間軸に沿って無数に分裂するものとなっている。この絵を描いた作者の名は山吹妃紗と言った。女性で、まだ十九歳らしい。学生だろうか。こんな年齢でこんな細かいものを、というか、いったいどこで時間を作っているのだろう。一日中描いているのだろうか?
しばらく絵に見入っていたが、何かの異臭に気づいた。絵から出ているのかと思ったが、そうでもないらしい。見回してみると、少し離れた場所に、薄汚れたデニムと、トレーナーの上を着ただけの女性がいた。トレーナーにいくつも色の付いたシミがある。絵の具だと思った。髪も乱れていて、どうやら異臭はこの女性からだ。ほとんど風呂にも入ってないらしい。周囲の人も避け気味だった。女性は山吹妃紗の絵をじっと見つめている。年齢が十九歳ぐらい……ということは、もしかして作者本人では、と思ったが、さすがに話しかける気にはならないし、人違いだったら面倒だと思った。同じ絵にずっと注目しているわけにもいかず、緑川は足早に去り、美術館を出てしまった。
上野公園でカラスを探す。前にいた場所にはいなかったが、別の場所にいた。前と同じく、誰か知らない人の似顔絵が並んでいる。気候はもう夏で暑いのに、カラスは前と同じように黒ずくめの服だった。生地はさすがに前より薄そうだったが。黒い帽子もかぶっていて、折りたたみの椅子に座ったまま、腕を組んで下を向き、目を閉じていた。前はこれで起きていたので、緑川は前にあるあいている椅子に座った。カラスがすぐ目を開け、顔をやや上げた。
「あの……また来たんですが」
緑川を見たまま、しばらく何も言わない。
「前に描いてもらったんです。二ヶ月ぐらい前ですが」
「うん、覚えている。また描いてほしいのか?」
「いえ、ええと……」
描いてほしい気もしたのだが、つい先日のことなので、ちょっともったいない。かといって、なんでいきなり座ったのかと言われると返事に困ってしまう。
「……今日の俺の輪郭がどうなっているか、知りたくて」
カラスは一瞬笑った。
「なんだ、そういうことか……」
カラスはいきなり画用紙を出して、前と同じように木炭で描き始めた。緑川は慌てる。
「いや、別に描いてもらわなくてもいいんです」
「分かってるよ。金をもらわなきゃ、絵を渡さないってだけだ。まあ、俺が好きで描いてるんだと思ってくれ」
それなら少し安心する。ただ、絵を見ればお金を出してもほしくなるかもしれない。
「迷っていると、輪郭がぼやけるって聞きましたが」
「うん、そんなこと言ったかな」
カラスは描きながら答える。
「どんな風に描けてるんですか?」
「そうだな……まあ待て」
そう言いつつ、緑川を見て、ふとカラスの手が止まった。そして何度も瞬きをした。
「君は何か……面倒なことをやろうとしているのか?」
「いや、そういうわけではないですが。どうして?」
何かやろうという心当たりはない。言うなれば、もうやってしまって、二重ラセンの返事を待っている。緑川の頭の中に、トリメロースの画面がうごめく。
「輪郭は正直だからな」
カラスの手が再び動き始めた。
「とにかく……自信を持ってやるといい。強い輪郭を持つには、自信が大事だな。まあ、俺は人にどうこう言えるような人間じゃないがね」
「そういえば、前に場が記憶を持っているって言いましたよね?」
「あ? なに? 俺はそんなことも言ったのか?」
強い否定ではなく、半笑いだった。多分否定はしていないだろう。
「人間に自由意志があると思いますか?」
二重ラセンが、不確定性原理を否定し、未だ決定論は死んでいないという話を、カラスも直感的につかんでいるのではないかと思った。しかし、カラスはあっけなく答える。
「あるに決まっているだろ。生きていることは自由意志だ。君には自由意志がないのか?」
「いえ、場の記憶というのが、その場にある分岐点のことで、人間がどちらを選んでも、それはあらかじめ決定していたことって話です。だから自由意志なんてないのかも」
「……よく分からん。分岐点があるのなら、どちらを選ぶかっていう意志はちゃんとあるじゃないか」
「確かにどちらを選ぶ意志もあるんです。ただパラレルワールドとして世界が分裂していて、それぞれを選んだ世界があって。だから、自分達はその一つを選んだわけではなく、たまたまそれだけしか認識できないというだけなんです」
これは多世界解釈の一つの説だ。緑川は自分なりの説明をしたつもりで、カラスからどんな答えが返ってくるか期待したが、なかなか答えが返ってこなかった。
「分からないですか?」
「選んだつもりだが選んでないってか。分からんがそうかもしれんな」
その答えは、喜んでいいのか、そうでないのか分からない。カラスは投げているだけかもしれない。
「さて……描けた。まあ、こんな感じだ」
カラスはそう言うと、緑川の方に絵を向けた。何の変哲もない、自分の顔がそこに描かれてあった。輪郭もちゃんと描いてある。
「ああ……いいですね」
でも正直、前の時ほどほしい絵だと思わなかった。前の、輪郭が何重にもなっている絵の方が好きだった。
「前は、輪郭がいくつもあったけど」
「ありゃ、そうだっけか」
カラスはとぼけるように言う。
「分裂している世界が重なって見えるって」
自分で言っているうちに、何だか不安になってきた。意志がはっきりしているなら、あまり分裂はしないと言ったはずだ。だから、輪郭が一つなのは意志がはっきりしているということで、悪いことではないはずだが、絵が不安にさせる。何となく描線が不安定に見える。ただ、画家に向かって描線が不安定だと言ってしまう度胸もなかった。
「買うか?」
「ええと……」
「まあ、もう一枚持っているから、いいよな」
迷う緑川を助けるようにカラスが言う。確かに、あまりほしいとは思えない絵だった。
「はあ……はい」
そして、カラスは早々に絵をしまってしまった。緑川を見て、わざとらしい笑顔を作る。
「自分探しはできたか?」
「いや、別に……自分探しをしているわけじゃないけど」
「そうか……また来たら描いてあげよう」
「はい……お願いします」
「誰にでもそうする訳じゃないぜ。君の輪郭はちょっと面白いからな」
緑川は椅子から立ち上がり、挨拶して去っていった。
しばらくしてカラスは、先に緑川を描いた絵を取り出してあらためて見てみた。輪郭は太い線で描かれている。しかし、その下に、細いかすかな線がある。こっちが最初、カラスが描いていた線だった。何重というほどもない。見えないので、しかたなく太い線を加えた。
「また来れたらな……描いてやるよ」
カラスは絵に向かってそうつぶやいた。さっき目をあけて、目の前に座っている緑川を見た時は目を疑った。輪郭はかすかだった。細い線だった。もうすぐ死ぬ人間なのか? いやしかし、その線はどこかにつながっている。どこか遠く。ものすごく遠くだ。
多分、それは宇宙の果てだ……いやいや、まさか。カラスはそんな自分の考えをバカバカしいと思った。宇宙の果てはあり得ない。しかし、自分が間違えるということもまずない。
「誰なんだあいつは……」
再びそうつぶやいた。
その時、背広を着た数人の男がこちらに向かってくるのに気づいた。明らかに自分の方を見て、向かってきている。カラスは不可解に思った。背広を着た連中が自分に用のはずはない。刑事か? いや、犯罪などした覚えはない。それに、刑事のような殺気だった感じはしない。年齢はいずれも三十代ぐらいか。男達はカラスの前で立ち止まった。輪郭は、強いというほどではないが、はっきりはしている。何か明確な目的を持っている。先頭の一人が声をかけた。
「カラスさんというのは、あんたか?」
「そうだが、何か?」
彼は名刺を差し出す。カラスは受け取って、顔をしかめる。
「バーチャルリアリティ?」
「ぜひあんたに、協力してほしいことがある。報酬は差し上げる」
「似顔絵か?」
「いや、違う。人のサンプルを必要としている」
カラスは苦笑した。なぜ自分なんだ?
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