第一部 セルオートマトン

1.

 それは緑川郁生の前で、たった一度だけ起こったことだった。住み慣れたいつもの部屋の、いつものパソコンのディスプレイを見つめている目の前で、それは劇的に展開され、そして一瞬にして終わった。しかし目に焼きついたものは、いつまでも頭から離れない。

 それが起こることを期待していたのか、願っていたのか、あるいは予感めいたものがあったのか、起きてしまったあとでは思い出すことができない。しかしそもそものきっかけは……緑川は思い返してみる。そのきっかけは友人である吉野の死だ。それだけは間違いない。吉野はバイクの事故で死んだ。交差点でカーブしたとたん、後ろから直進してきた大型トラックとぶつかるという悲しくも、ありがちな事故。婚約までしていた恋人を残し、吉野は死んだ。

 初夏の暑苦しい夜、郊外の斎場で行われた葬式。仕事帰りにワイシャツに黒い腕章を付け、緑川は通夜に参加した。会場に来ているのは、吉野と同じような会社員が多く、吉野の勤め先の人達ばかりのようだった。知らない人ばかり。女性もいる。誰かが吉野の恋人だろうが、会ったことがないので分からない。ただ式場の椅子に、うつむいて座ったまま動かない若い女性がいて、彼女に違いないと直感した。

 吉野の遺影は笑顔だった。今より若干若い頃のようだ。遺影の前で焼香を終えると、流れ作業のように隣の部屋に誘導される。そこでは立食形式で寿司とビールが振る舞われていた。何となく空気が重苦しい。大往生で逝った祖父の葬式の、どこか和やかだった雰囲気とはずいぶん違う。早すぎる死を悼む空気。緑川は誰と話すでもなく、半ば乾いた寿司を口の中に押し込んでいた。知らない人が注いでくれたビールも時間が経っているせいか生ぬるい。そのうち、先の女性も焼香を終えたのか、部屋に入ってきて、緑川のすぐ隣に来た。なかなかの美人だな、と思った。社交的な吉野がいかにも選びそうな。若く健康的な女性だ。笑えば華やかだろう。ただ、今は沈んだ表情で、何となく目の前をぼんやり見ているだけだった。緑川は少しためらっていたが、思い切って声をかける。

「何か、お飲みになりますか?」

 彼女は気づいたように目を上げて緑川を見た。黒い大きな瞳だ。

「ああ……ええと、ウーロン茶を」

 緑川は手近なグラスを探し出し、栓を抜いてある瓶のウーロン茶を注ぐ。彼女の手に持たせると、わずかな会釈をした。

 緑川は独身で、恋人も女友達もいなかった。いたこともないし、必要だとも思っていなかった。こういう時、友達の恋人を奪うような話もあるのかな、と、ふと思ったりもしたが、目の前にいる、気力が失われたような女性に何かしようという気も起きない。それに、勤め先には、少し気になる女性もいるのだ。

 彼女は一口飲んだだけで、あとは何か食べるというわけでもなかった。ぼんやりと目の前を見ているだけのような感じだ。無理もないかと思う。自分だって突然過ぎて、何だか現実とも思われない。彼女に話しかけるのにためらわれたが、それでも気になる。

「あのう失礼ですが、吉野君の、婚約者の方ですか?」

 彼女は少し驚いたように緑川を見て、ゆっくりうなずいた。

「とても、残念です……話は聞いてました。私は吉野君の友人で、緑川という者です」

 彼女の目の焦点が合ったように、光が灯ったように思えた。何か意外なほど、強い意志のようなものを感じさせた。

「あなたが……緑川さん?」

 まるで自分を知っていたかのような口調。

「あ、はい、そうですが」

 彼女は、何かを言おうか、しばらく戸惑っている様子だった。やがてまっすぐ緑川を見て、口を開いた。

「彼が言うように、三人だけだったら、生きられたかもしれません」

「え? 三人?」

 意味がよく分からない。

「あるいはあなたと二人……」

 自分と吉野ということか。それも分からない。

「ええと、それは、つまり……」

「彼はいろんな人のために走り回って、無理をして、それで……」

 彼女の目から、涙がこぼれてきた。何となく言いたいことが分かってきた。

「ああ確かに、誰にでも気を使う、いい人でしたよね。毎日忙しかったようですし」

 すると、彼女は否定するように、緑川を強い眼差しで見た。

「違うんです! そのそばに、絆となるほどの近くに、いていい人は三人まで。それ以上はいてはいけないのです。この世界は、そういうものです」

 また意味が分からなくなってしまった。三人までいていい。それより多くてはいけないというのは、どこかで聞いたとは思ったが、思い出せない。緑川が何か言葉を返そうとすると、彼女はグラスをそっと置き、会釈した。

「すみません、気持が落ち着かないので、もう失礼します……緑川さんですよね。あなたのこと、吉野から聞いていました。一緒に世界の秘密を探していた仲だと」

「世界の秘密? ええと、それは……」

「この世界の、絶対の法則だって聞いています。でも結局は、見つからなかったとか。もしよろしかったら、また探してみて下さい。吉野の意志ですから。お願いします。それでは……」

 緑川は何かを訊こうとしたが、彼女はもう一度会釈をして、足早に去ってしまった。この世界の絶対の法則? 吉野は何を彼女に言ってたのだろう。そんな探している秘密の法則など思い当たらない。

 きっと彼女は悲しすぎて、普通の状態じゃないんだと、緑川は思った。会場内は、さっきよりやや明るい雰囲気になっていた。アルコールが回り、吉野の思い出話やら、あるいは彼の仕事に関する話など、和やかに談笑しているといってもいい状態だ。あの吉野なら、死んでもこういう雰囲気を好むかもしれないと思いつつも、談笑の中に入る気など起きなかった。緑川はため息を一つつき、グラスを置いた。あることを思い出して、そして考えていた。彼と共に探していた世界の法則といえば、一つだけある。


 家に帰り、パソコンを起動する。自分のパソコンは何度か買い換えていて、そのたびにデータを全て移している。そのため、何代か前のパソコンのデータも全部そのまま保存してあった。数年前、まだ学生のころ、パソコンのプログラミングに初めて挑戦し、吉野と競って組んだ一つのプログラムがあった。

 二人か三人なら生きられる……プログラミングの初歩的な課題で、緑川と吉野で作ったもの。それは「ライフゲーム」と呼ばれる、コンピュータの世界では古典的な生命シミュレーションだった。その手法は1970年、数学者コンウェイによって発明された。

 その世界は平面的なセル(マス目)で構成される。10×10あるいは20×20でもいい。100×50でもいい。通常、上と下、右と左はつながっていて、世界は有限だが果てのない状態になっている。そのセルに生命がいる状態を○や×など、何らかの記号で表す。

 最初、セルの中にランダムに生命が配置される。そして次のステップから、一つ一つのセルの状態を順番に見ていく。

 あるセルに生命がいる場合、その生命の周囲のセルを見て、生命の数を数える。周囲に二つか三つ生命があれば、その生命は生き残る。それ以外の場合は死ぬので、そのセルには何もいなくなる。

 一方、セルに生命がない場合で、その周囲に三つの生命があれば、そこに新しい生命が誕生する。

 ルールはたったこれだけ。一つ一つ順番に、全体のセルを見ると、次の全てのセルの状態が決定する、そこで全体をアップデートすると世界全体が変化する。そしてまた同じルールのステップを繰り返していく。人間が一つ一つのセルを見ていくのは大変だが、コンピュータだと、その作業も一瞬にして行ってしまう。一回のステップにかかる時間はほんのわずかだ。


ステップが十回、二十回と進むに連れ、あるところでは生命が増殖し、群れを作り、あるところでは全滅し、同じパターンが繰り返されたり、時には移動したりするパターンも現れる。緑川は吉野と一緒に、生存や誕生のルールを変えてみたりしたが、あまり魅力的なパターンにはならなかった。生命が全滅したり、逆に増えすぎてノイズのように生命が入り乱れて世界を埋め尽くしたりした。

 生命は、周囲にある生命が多すぎても生きていけないし、少なすぎても生きていけない、また、適度な条件が揃わないと誕生しない。そんな生命のふるまいの、ごく初歩的なシミュレーションが、このライフゲームだった。また、ルールに従って入力した情報が処理され、出力される。この機構は「オートマトン」と呼ばれ、ライフゲームのようにセルに対して行われるものは「セルオートマトン」と呼ばれている。

 情報がある規則で処理され、その結果をまた同じ規則で繰り返し処理していく、セルオートマトンは時に思いもよらない結果を見せた。緑川と吉野は、約一秒毎に変化していく画面を見続けた。セルは100×100だったが、概ね数分経つとダイナミックに変化するものはなくなり、動かないものか、二ステップ毎に繰り返す、振動と呼ばれるパターンに落ち着いてしまう。


 二人でライフゲームを作り合って何日か後だったか、緑川は吉野に誘われ、バイクの後ろに乗せられてかなり遠出をした。乗り物について何の免許もない緑川だったので、一緒にツーリングというわけにもいかない。いくら友人とはいえ、後ろから男に抱きついてつかまっているのは、緑川としても気が進まなかった。バイクの後ろに乗っているのは女の子であるべきだという考えが頭から離れない。でも吉野は全く気にしていない様子だった。バイクは高速道に乗った、そして一時間ぐらい走ったろうか。気がつくともう高速道ではなくて、海沿いの国道を走っていた。さらに走り、どこかの港町に着き、駐車スペースにバイクを止める。ヘルメットを脱ぐと、磯の香りがした。

「ここは、どこだ?」

「別に何もないけどな、俺の好きな場所でね」

 小型の漁船が停まっている港を横目で見て、さらに歩くと岩場が広がっていた。

 岩場を吉野と歩いていく。足場が悪い。緑川は転ばないように注意深く足を進める。吉野は飛ぶように身軽に進んでいる。

「どこまで行くんだ?」

「別に、その辺まで」

 看板があった。『盗人狩』と書いてある。この岩場の名前らしい。どういう意味だろう。泥棒が狩りでもするのだろうか。波の音がする。波が砕ける音、海が低く唸る音、水が岩にしみ込む音、泡が無数に弾ける音。様々な音に緑川は驚く。歩いていた吉野は海の方を向いて、足を止めた。

「あれだな」

 吉野は海の方を向いている。緑川も同じ方を見た。太陽の光で反射して、常にキラキラと瞬いている水面が見えた。

「何が?」

「こないだ作っただろ。ライフゲームで思い出したんだ。ああいう光を反射する水面。同じようなパターンでありながら、二度と同じものはない」

「パソコン画面と同じには見えないけどな」

「あの光のパターンは波から生まれている。つまりさ、水の表面には波のパターンができているだろ? パターンが移動していても、それは水が移動しているわけじゃなくて、波が移動している。ライフゲームのパターンと同じじゃないか」

 動いているのは、あくまで波だというわけだ。それは緑川にも分かる。

「でも、あれはセルの生命の生き死にだからなあ。海の表面はセルじゃないし」

「でもパターンを持っている。移動するパターンだってあったろ。生命が移動しているんじゃなくて、その場の生死が移動しているだけだけど。海の表面にも移動するパターンがある」

「ん、まあそう言えば、似ていると言えば似てるかな」

 そう言うと、吉野は満足そうに笑った。

「それでさ、この世はライフゲームみたいなセルオートマトンじゃないかって思ってさ。そうは思わないか? 今、俺達の目に見えている全てはパターンなんだ。生きているってことも、パターンが動いているに過ぎないんじゃないか?」

 また妙なことを言う。さすがにそうは思えず、緑川は何か反論したい。

「そりゃないと思うね……規則が支配しているなら、俺達がこうやって自由な意志で動き回れるわけはないし」

 吉野は笑った。

「分かってるよ。だからさ、自由に見えて自由じゃないんだよ。宇宙が始まって以来、俺達の意識や行動は、あらかじめ決まっているんだ。何をどう決めたって、結果は一つであって、その一つは既に決まっているものなんだ」

「いや、そりゃないだろ。そりゃ納得できない」

 その時は、これといったいい反論が出せなかった。あとになり、それは「決定論」という問題であり、「ラプラスの悪魔」と同じ発想であることに気づいた。それはニュートン力学が生まれた頃、数学者ラプラスによって提唱された。宇宙が誕生して以来、あらゆる物質の次の瞬間はニュートン力学により全て物理的に決定される。従って、あらゆる選択は既に決定されているできごとに過ぎないという悪魔の言葉。宇宙の決定論と呼ばれ、自分は自由な意志で行動していると思っていた人々を恐れさせた。吉野はこの世をセルオートマトンと見なして、そこにこの悪魔を入れてきたわけだ。ニュートン力学が、セルオートマトンの法則に置き換わっただけだ。

 しかし、科学史上この悪魔は完全に否定されている。物質を構成するのは量子という微小な単位であり、その量子は位置と運動量が両立しないものだった。つまり量子の位置を確定すれば運動量が分からなくなり、運動量を確定すれば位置が分からなくなる。これは「不確定性原理」と呼ばれ、あらゆるものは観察されない限り、何も確定しておらず、揺らいでいる状態であることを意味する。あの月でも、観測されない限り存在しないのだという話もある。決まったものは何もなく、あらゆることの可能性があるのだ。不確定性原理は、ラプラスの悪魔の決定論を完全否定し、定説となった。

 吉野もあの頃、不確定性原理は知らなかったろうな、と緑川は思う。この世がセルオートマトンのわけはない。あの頃のプログラムを呼び出して走らせてみた。パソコンの能力が当時よりもはるかに上がっているので、当時、一ステップごとのコマ送りだったものは、なめらかに動いて見えるアニメーションとして表示された。あの頃よりもさらに、セルオートマトンに支配された場が、あたかもこの世の投影であるかのようにも感じられる。生命の増殖も減少もめまぐるしく、移動物体はアリの歩行のようだった。吉野がこれを見たら、いっそう強くこの世はセルオートマトンだと主張しそうだ。でも違うぞ吉野。この世には不確定性原理がある。

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