[2-18] 僕のやりたいこと

 聖王国が編纂した史書から、この和平直後の動向を整理していこう。


 ミハエル・ハルの戦中和平(一般的にはハル・ミハエルの戦中和平と呼ばれるが、聖王国の呼称ではミハエルが先にくる)では、フェン家が主催するテーブルにて行われた。後に公爵となるレヴィア・フェン自らが茶事を取り仕切り、雪木花衣せつもくはなころもをもって国賓の待遇を示した。


 聖王国の外交は茶会形式で行われるのが習わしだ。

 この和平ではフェン家がテーブルを主催し、次期当主みずからが茶事を披露したとある。雪木花衣とはフェンで最も格調が高いとされた茶事である。

 この時代の文化資料として一級とされるザトキエル伯爵夫人の喫茶日記にも、この雪木花衣についての記述があり、まさにフェン流の静謐を結晶化したような大茶事、と絶賛されている。そこには「術で大気を凍らし、枯木の枝に氷花を咲かせ、透明な桜を満開にさせる。その氷花はなかなか溶けず、それを熱茶に浮かべて楽しむ」などとある。


 いかにも北国らしい風流な茶事であるが、この戦中和平での雪木花衣は参加者の肝を凍りつかせたらしい。

 かの災厄とまで称された大魔術師レヴィアは、その膨大な魔力で千本の氷桜を平原に出現させて客をもてなしたという。テーブルについた帝国の将官は、これほどの大規模な魔術が戦争に用いられたら、と想像して汗を冷やしたに違いない。

 古来より、儀式魔術を用いる風雅な喫茶社交は、その主催者の魔力を見せつける示威的な外交行為である。己の力を礼節のオブラートに包んで威圧する、というのが聖王国の紳士淑女たちの流儀だった。


 さて、その交渉の結果はどうだったのだろう。再び史書の記述に戻って、結ばれた条項を見ていこう。


 1. 帝国はイジヴァル領から完全に撤収する。

 2. 賠償金は互いに請求せず、聖王国は奴隷の返還を求めない。捕虜は交換とする。

 3. ただし、帝国は捕らえたイジヴァル公爵の一族は解放する。


 領土は戦争以前の状態に戻すことで合意したようだ。この会戦での勝者は聖王国と言えるがそれまでは敗戦続きだった事を考えると、これは聖王国側に有利な条件と言える。

 賠償金や捕虜については対等である。ただし、囚われて奴隷になった者は返還されない。帝国としては、領土で譲歩したのだから奴隷はもらっていく、ということだろう。特に、この戦争では多くの貴族が奴隷魔術師とされ、彼らは帝国では高値で取引される。

 そうなると奴隷となった者が憐れに思われるが、労働奴隷はともかく魔術師奴隷は重宝されており、平均的な市民よりも高い生活水準が期待できた。

 魔術因子は遺伝することから奴隷であっても家族を持つことも奨励されている。さすがに婚姻の自由はなかったようだが、それについては聖王国貴族でもほぼ同様である。聖王国の弱小貴族の庶子であれば、むしろ帝国の奴隷になった方が裕福な生活ができただろう。

 しかし、イジヴァル公爵家については解放を約束させている。ミハエルが宮廷の反発を考慮したためだと思われるが、その門下貴族たちは奴隷のままとなった。これによりイジヴァル公爵家は大きく衰退していくことになるが、ミハエルにすれば保守派の筆頭であるイジヴァル門下の没落はむしろ望むところだったのかもしれない。

 次の条項を見ていこう。


 4. 聖王国から帝国への小麦関税を撤廃し、今後三十年間はその単価を2フェン銀貨に固定する。


 当時、帝国では小麦が不足していた。大穀倉地帯を抱える聖王国が輸出関税をかけていたこともあり、小麦価格が高騰して市民生活を圧迫していたのだ。

 この条約で聖王国は関税を撤廃し、小麦価格を安定させるために固定価格での取引を約束した。設定された単価2フェン銀貨は当時の適正価格である。

 価格をフェン銀貨で固定したのは、仲介者の顔を立ててのことだろう。加えて、その優れた鋳造魔術で偽造貨幣を許さず、長年にわたってその価値を安定させてきたフェン貨幣の実績が買われたこともある。

 この和平の最も注目すべきなのが、これらの重要な国家決定を現場責任者でしかないミハエルとハルが独断で締結したという事実である。二人はこれらを本国に追認させなければならないのだ。この時点では、これが二人の個人的な約束に過ぎないことは、条項の最後の一文にあらわれていた。


 5. 聖王ミハエル・ヴァハルと帝国軍司令ハル・ユリウスは、互いに親指の相指となり、これらの和平条項を実現させる。


 この会談中にミハエルは聖王の即位を宣言した。

 そして和平を締結し、テーブルを立ったその足で聖王都に進軍を開始するのである。つまり、ハルと相指になることで敵国である帝国と個人的な同盟関係を結び、その上で軍事クーデターを起こしたのだ。彼を名君と呼ぶべきかどうかはおいても、一流の策士だったことは間違いない。


 そんな彼であるから、根回しも完璧だった。

 東方と南方の公爵家からは聖王即位の祝いの使者が彼のもとに訪れた。しかも、軍勢を引き連れての事実上のクーデターへの参戦表明である。

 現聖王はイジヴァル公爵領を見殺しにしたが、ミハエルは劣勢を覆して帝国を打ち破った。その結果をもって彼らは聖王ミハエルを認めたのだ。

 北方の雄、フェン公爵家はすでに旗色を明らかにしてる。

 解放されたばかりのイジヴァル公爵はミハエルに敵対していた保守派の筆頭貴族であったが、もはや服従するしか道は残されていなかった。ミハエルは長年の敵であったイジヴァル公爵に別指を結ばせ、彼を支配下においた。

 これによりイジヴァル公爵家は、聖王ミハエルの門下貴族へと格を落とすことになる。つまり四公一聖体制の終焉であり、後のミハエルによる中央集権化のはじまりであった。


 さて、ミハエルは即位宣言と同時に指直しの儀を行っている。

 これは貴族が当主に就任するなど、自身の権限の拡大に合わせて五指を変更することだ。今風に言えば人事発表である。他にも学院を卒業して宮廷に任官する際に指直しを行うことがある。


 ミハエルは以下のように指を直した。

 まず、弟であるウリエルを人差し指の相指に変更した。後によく兄を補佐することになるこの王弟は、同時に兄に命じられてスズリ聖騎士伯と中指の相指を結ばされている。これはまだ若いウリエルに軍事の大権を任す際に経験豊富な副官を指名した、ということだろう。

 スズリ伯からすれば、ウリエルに出世の糸口を奪われた形になったとも言える。しかし、この純朴な王弟と叩き上げの聖騎士伯の仲はこれ以後も非常に良好だった。

 この育ちの良い王弟は、兄よりも才に劣るのは確かだったようだが、敵を作らない人当たりの良さは兄を凌いだ。スズリ伯も息子のような年齢の上司をよく支え、しまいにはウリエルはスズリ伯の娘アーニャを第一夫人として迎えることになる。

 この夫婦の仲の良さは有名で、当時では珍しいことにウリエルは第二夫人をおかなかったほどだ。即位後も女性関係に問題を抱え続けた聖王ミハエルが優秀な子孫に恵まれなかったこともあり、これより始まる聖王国の黄金期を引き継ぐのはウリエルの子孫たちである。


 ミハエルの小指はイジヴァル公爵と別指で結び、イジヴァル家を支配下におくことを明確にした。

 この数年後にイジヴァル公は死ぬ。死因については詳細な資料は残っていない。享年五十二歳で、老衰ではないことは確かである。


 親指は和平条項にあるとおり帝国軍司令ハル・ユリウスと交わされた。

 二人が結んだ和平は、ミハエルが自身がクーデターを成功させ聖王となり、ハルが帝国元老議会を説得することで初めて成立する。端的にいえば、単なる口約束に過ぎない。

 ゆえに、この相指はそれを少しでも確かなものとするための形式に過ぎなかったが、意外にもこの綾取りは一生続くことになる。後に帝国は分裂し、ハルが分裂後の皇帝に就任した後も、両国は友好国であり続けた。


 さて、残るは中指と薬指であるが、これは空指となった。

 本来であれば聖王即位を宣言した時点で、婚約者であるレヴィア・フェンと薬指を結んで王妃に迎えるべきだった。この戦争でフェンの貢献が大きいのは明らかであり、続いて聖王都へ攻め入るためにもフェンは不可欠だった。

 ところが、ミハエルはレヴィアと薬指を結ばず、さらに第一の指とも称される中指も定めなかった。これは異例のことで、周囲の貴族たちを相当に困惑させたらしい。

 聖王国の政治は糸で脈々と繋がる派閥争いであり、聖王はその五指で権力の流れを操るものである。しかし、この二つが空のせいで貴族たちは新聖王が思い描く宮廷政治がつかめない。これは政権交代を目前にして、絶対にやってはならない無配慮といえた。


 事実、この二指の空位に貴族たちは大混乱していたようだ。以下は、即位の祝辞にきた南方公爵家の使者が領都とやり取りしていた書簡である。


 聖王ミハエル陛下の薬と中の指について、やはり例の噂がゆえだと思われます。

 ご存じのように、ミハエル陛下の中指はもともとヴァン・インリング騎士団長と結ばれていました。そして、先日に騎士団長はこれを切り指にしたことは、大いに話題となったのでお耳にされているかと思います。

 かの騎士団長は平民ではありますが、なかなかに糸の責任をわきまえております。自らの老齢を理由に、後任に中指を切って譲り、自らは次代の政治には関わらない意思を示しました。このような人間が貴族に少なくなったことを嘆くばかりでございます。

 さて、問題はかの騎士団長がその中指を誰に預けたのか、でございます。

 あの御仁は指を切ったことは明言されても、誰に託したのかまでは固く口を閉ざしております。また、託された後任がミハエル陛下に指を返還したという話も聞きません。ゆえに、その本人が中指を見せて宣言すれば、その者が聖王国第一の王指おうしとして、国政を取り仕切ることになりましょう。

 ここからは噂となります。

 確証のない話ではございますが、はるか南方の領都にいる貴方様にミハエル陛下の周囲でささやかれている噂がどのようなものか、それをお伝えするのは意味がございましょう。

 噂では、ミハエル陛下の中指を預かったのはレヴィア・フェン閣下の従者であるとのことです。かの鏡渡りの英雄と呼ばれた少年騎士ですが、この戦ではフェン騎士団を率いてレヴィア閣下の救出に成功し、勝利に貢献したとのことです。

 ここからはお耳汚しの醜聞となりますが、レヴィア閣下がこの従者に懸想を抱いているのはもはや公然の話でございます。ゆえに。ミハエル陛下との仲もよろしくなかった。その原因である従者に、ヴァン騎士団長が中指を託したものですから、陛下の御心中は複雑でございましょう。

 いずれにせよ、ミハエル陛下の二指が定まらぬ理由にはこのような事情があると噂されております。


 このように当時のミハエルの周辺は相当に騒がしかった。

 二指を定めぬままに聖王即位を宣言したミハエルは、軍勢を引き連れて聖王都へ侵攻を開始する。自らは帝国に勝利した凱旋であるとし、急行はせず、あえてゆっくりと行軍したようだ。その途中で、続々と地方貴族からの援軍が合流して大軍勢となった。

 その手勢は四万を超え、聖王国の全軍となる。

 対する現聖王側は一万。数こそ劣勢でも、難攻不落の聖都での籠城である。もとより、魔術とは籠城戦で有利に働くものなのだ。

 だが、城下町の外周壁はすぐに陥落する。ミハエルはあらかじめ内通者を市街に潜ませていたらしく、内側から城門が開かれたらしい。この反乱が事前に仕組んでいたことの証拠である。

 これによって市街は全てミハエルが掌握した。

 残るのは王城のみで、ここには最後まで抵抗を決めた貴族たちが立てこもった。しかし、こうなれば時間の問題となる。城の食料が底をつくまで包囲を続ければ良い。籠城の前に市街から出来るだけ積み込んだにせよ、半年が限界だったろう。

 三ヶ月後、いよいよ根をあげた現聖王側から講和を求める使者が送られた。


 いわく、五指の茶会にて聖王国の将来について語り合いたし。

 ミハエルはこの招待を受けた。

 場所は、王城の中央にそびえる鏡の塔最上階。いわゆる聖壇と呼ばれる場所だった。



 ◇


「……以上が、僕の考えです」


 宗谷はテーブルのフェン家の重臣たちを見渡した。

 レヴィア、カーラにクヴァルらの首脳陣の他にも千騎長や上級魔術師などもいる。場所は聖王都の市街にあるフェンの邸宅であり、平時では聖王家への外交施設を兼ねるため、内部は広く調度品も整っている。


「僕はよそ者ですが」と宗谷は頭を下げた。「よろしくお願いします」


 ぱちぱち、と勢いよく手を叩いたのはレヴィアだった。

 クヴァルがそれに続いてゆっくりとした拍手を送り、肩をすくめながらもカーラもそれに続く。この二人が手を合わせたのを見て、残りの将官たちは盛大な拍手で盛り上げた。


「もとより」と重荷を肩から降ろしたように、クヴァルが息を吐く。「こっちは初めからそのつもりだったのだ。そうでなければ、計略とはいえウォルファの再来などとは呼ばんよ」


 そうだ、そうだ、と千騎長たちが太鼓判を合わせる。


「まだまだ、未熟者ですが」

「おいおい慣れていけばいい。いずれ、そのマントも着慣れてくるさ」


 宗谷は気恥ずかしそうに首回りのマントをなでた。

 肩口には銀細工の留め金は、羽をくわえる四本の牙の意匠。牙の数は十騎長、百騎長、などの階級を表し四本であれば一万騎の指揮権を示す。これはフェン騎士団の全軍に相当し、羽は魔術士も統括することを表している。そして、その重厚なマントの下は軽装の儀礼鎧でフェンの狼紋章が輝いていた。

 たとえ、宮廷にデビューする前の学生であっても、そのいでたちがフェン軍の統帥権をもった騎士団長であることが一目で分かっただろう。

 宗谷はそのマントをいじるのをやめて眉をしかめた。


「しかし、ミハエル様が、いえ、ミハエル陛下が僕の提案を受けるとは限りません。その場合は、フェン家と聖王家で戦争になるかもしれません」

「ふん」とクヴァルが鼻で笑う。「そんな遠吠えは無視すればよい。聖王家の弱兵で我らをどうすると言うのだ」


 その鼻息に千騎長たちも肩を揺らす。

 その様子に苦笑いを浮かべたカーラも「まぁ、気にすることはないでしょう」と肩をすくめた。「おそらく、陛下はこうなることを想定されているはずです。ゆえに即位の指直しに薬指を定めなかったのでしょう。この状況では、陛下はフェン家の意向を無視できません」

「だといいですが」

「交渉とは相手が断れない時に申し出るものです。今、聖壇では講和会議が行われいる最中。このタイミングであれば、陛下は断ることはできん」


 それがここまで決断を引き伸ばした最大の理由だ。


「ええ、行ってきます」


 宗谷がマントを翻して部屋に立てかけてあった大きな鏡の前に立つと、レヴィアが近寄って術式を施した。鏡面が水面のように揺れて光りはじめる。


「ソーヤ、これを」とレヴィが手を差し出した。

「これは……綾取りの指輪?」

「うん、親指の。もう私ははめているから。お義母さまに」


 レヴィアの左手の親指には、昨日まで見覚えのない銀糸の指輪がはめられていた。


「分かった。ありがとう」


 差し出された指を懐にしまう。

 そのまま、鏡の向こうへ足を踏み入れる。向こうは聖壇の間。はじめて、母さんとレヴィが入れ替わった場所。

 今、そこでは講和会議が行われている。



 ◇


 −−このにおよんで!


 と、ミハエルは脳内で悪態を吐いた。

 聖壇の大鏡が見下ろすテーブルのその向かいには、老いと肥満と自己欺瞞にたるんだ面の皮がいた。聖王などと名乗っている、母を利用した挙句見殺しにした下衆だ。

 それがテーブルに出してきた講和条件は、現聖王は退位しミハエル聖王の即位を承認・・し、新たに上聖に即位する、とあった。上聖など聞いたこともない。しかも、その上聖とやらには後宮内での神聖不可侵かつ聖王を超越する権限が明記されている。


「こちらは十分に譲歩いたしました」と、しゃあしゃあと口を開いたのはその隣に座る王妃だ。「お前の聖王即位を認めましょう。我々には後宮での自由を確保していただければ結構です」


 母のことを奴隷だの馬だのと徹底的してさいなみ続けた女だ。


「その上聖というのは?」

「ご存知ありませんか? 聖王国のいにしえにあった由緒ある制度です。ミハエル殿はご母家が存在しませんから、ご存じなかったかもしれませんが」


 ……なるほど、そういうでっち上げか。


「残念ながら、上聖など認めるつもりはありません」

「なぜですか。もしや後宮に所望の女人がいましたか。色沙汰と権力に品のない方だと聞いていましたが、これほどに卑しいとは」

「ご心配は無用。権力などなくとも花に不自由はしませんよ。しかし、聖王として財政には気を配らねばなりません。失礼ながら、近頃の後宮にかかる費用は目に余ります。しかも、よからぬ噂も」

「よからぬ噂?」


 後宮の現状維持は絶対に許すことが出来ない。

 あそこは王妃の権力の源泉となっている。それを保持するための上聖などというでっち上げだろう。


「お耳に入れるのもはばかれる話です」

「確かに聖王陛下はいささか女遊びが過ぎることもありました。しかし、それは聖王としての使命でもあるのです。その聖なる血をより多く後世に伝えていくため。まぁ、かつて馬を孕ませてしまった、という落ち度があったことは認めましょう」


 ……聖王の表情は動かない。

 王妃に言いたい放題にしゃべらせて、自分は黙り込んだままの無反応だ。すでに気力も失せて、取り巻きに勝手を許すようになったか。


「その陛下が、実の妹であるリリス様を孕ませた、と」


 それでも聖王は無言のままだ。代わりに王妃が金切り声をあげた。


「それを信じたか」

「ゆえに調べねばなりません」

「仮に、……それが真実であったとしても、問題がおありか」


 貴族での兄弟姦は忌避とされているが禁止はされていない。そもそも、その法典を編纂しているのは聖王家だ。


「聖王は自らを法の精神にのっとって律するべきだ。その聖王がこのようなおぞましい事におよんでいたのだとしたら、新たな聖王としてそれを許すつもりはない」

「盗人猛々しい! もう聖王になった気か。馬腹の子が聖王を僭称するとは!」

「そろそろ黙りましょうか」と声を落とす。そろそろ限界だ。「女がでしゃばるような状況ではない」


 すでに聖王都はこちらの手に落ち、この女は自分を守っていた暴力を失った。

 それでも、自分の主張が尊重されるべきだと思えるのは、この女が愚鈍であるからだろう。きっと脳の中に花でも咲いているに違いない。


「このミハエルは四公爵家から支持を受け」つまり四つの暴力を背景に「正式に即位した聖王だ。もはや、お前達の後ろに立つ者などいない。お前たちが占拠するこの宮廷も私の物である。貴族の子女を奪っては後宮に囲い、自身の妹さえも姦通する。そのようなけだものが、上聖などと称し、後宮の支配を主張するなど言語道断である」

「なんと不遜な! 聖王陛下の御前で、」

「黙れと言ったはずだ。斬り殺すぞ!」


 一喝すると、王妃は目を丸くして黙り込んだ。

 そのまま視線を横にないで向こうのテーブルの面々を見渡した。虚ろな王の五指達だ。薬指は愚鈍な王妃、親指の法典導師、小指はイジヴァル公だ。

 イジヴァル公には俺の小指に別指を結ばせたので、この講和テーブルの仲介者となった。そうでなければ、このような無能に別指とはいえ指を託すことなどするわけがない。

 愚かな王の中指は空だ。

 かつてはそこにはウォルファ・フェンが糸を結んでいた。帝国軍が侵攻する度に、彼が聖王国に尽くしたのもその糸がゆえだった。だが、こいつは自らの中指を殺した。五指殺しは大罪であると法典に明記されている。

 最後に、向こうの人差し指に視線をうつす。


「ヴァン」と呼びかけた。


 かつて親しく呼び、そして幾度も助けられてきた。内心では、自分の本当の父親とさえ思い決めていた男。その老齢の騎士は他人行儀な小さな会釈だけを返してきた。


「お前はこのような愚物どもに、」と言いかけたところで「ミハエル殿下」と遮られてしまった。


此度こたびの戦、見事でございました。聖王家の軍馬を預かる者として御礼を申し上げます」

「あ、ああ」

「ソーヤはどうでしたか」


 唐突な質問だった。

 それに咄嗟に答えられず息がつまった。ヴァンが問うているのは自ら切り落とした人差し指の行方ゆくえだろう。だが俺の中指は未だに空のままだった。


「ソーヤは、」とようやく息が整う。「フェンを率いて大きく貢献してくれた」

「ええ」

「見事な采配だったと聞いている。五千騎を率いて帝国軍の背後を強襲し、本陣を崩したのだ」

「ええ」

「今では、あいつはウォルファの再来とまで言われているそうだ」


 その言葉に、初めて王が表情を動かした。「ウォル、」とため息が混じった吐露。今まで無言だった王の発言に周囲は驚いたが、王はそれ以上は何も言わず、再び枯れた木のごとく黙ってしまった。


「……ミハエル殿下」とヴァンが静寂を破る。「そちらの講和条件をお聞かせ願いますかな」

「私は、」とだけ口をついて、続けるのを躊躇する。


 すでに講和条件は決めてあった。

 先王は処刑し、最後まで抵抗した保守派貴族どもは小指を切り落とす。小指は子供や後継者と結ぶことが多く、その切断は世襲権の否定を意味する。これによって、保守派貴族たちの家門は取り潰すことを示す。

 それを実行することは簡単だ。すでに宮廷は手中にある。愚鈍な王妃が権威を振りかざそうとも、虚勢では処断の刃は防げない。

 しかし、それをヴァンは快くは思わない気がした。


「お待ちを」とヴァンが急に手をあげ、後ろを指し示す。「ようやく来おったか」


 背後から光が差した。魔術の発する光だと気がついて、振り向けば聖壇の大鏡が輝いていた。その鏡面が揺れ、黒く重厚なマントに身を包んだソーヤが姿を現す。


「ソーヤ」と席を立つ。


 ソーヤは大鏡が立てかけられた高台から跪き「聖王陛下、茶会をお邪魔して申し訳ございません」と頭を垂れた。


「何を言う。お前は俺の」

「陛下、今しばらくお待ちください。最後に報告したい人がおりますゆえ。すぐに戻ります」と言って、立ち上がると、マントを翻して大鏡に手かざす。鏡渡りの光がホール全体に満ちていく。

「待て、どこに行くのだ」

「……母のところへ」


 それだけ言い置いて、ソーヤは再び鏡の中へと身を投じた。

 大鏡の光がおさまり、向こう側の光景が見えるようになった。変わった造りの部屋が見える。とても明るく、清潔で、奇妙な調度品がいくつかあった。

 その部屋の真ん中に婦人が椅子に座り、ソーヤを出迎えていた。


「母さん」


 ソーヤはそう言いながら、なぜかブーツを脱ごうとしていた。それを見た婦人はクスクスと笑う。


「いいわよ。土足のままで」

「あっ、うん。でも、なんとなく」

「お待たせしちゃってるわ。そっちの方が申し訳ないでしょ」

「うん」


 心なしか、ソーヤの背中が小さく見えた。

 あいつは貴族を相手にしてもどこか毅然として、正しいと思うことは曲げない。身分は平民でも明らかに育ちは違った。単なる不敬な田舎者ではなく、発言の端々に教養がうかがい知れた。そのソーヤがまるで子どものように頭をかいている。

 ブーツを履き直したソーヤは婦人に向かいあった。


「母さん、言いたいことがあるんだ」

「はい」


 二人の様子を見て、記憶もおぼろげな自分の母へと想いを馳せる。

 もう顔も思い出せない。奴隷だった母には肖像画も残ってなかった。自分は母と気がつく前に彼女は死んだ。だから、母から受け継いだのは怒りだけなのだ。

 だが、今、目の間には優しい母がいる。



 ◇


 宗谷はちょっと所在のない様子でモジモジとしていた。


「ねぇ、母さん」

「なに」

「ごめんなさい」


 いきなり、謝られましても……。


「はいはい、別にいいわよ。許してあげる」

「うん」


 じとり、と宗谷が着ているマントを見る。

 大きな毛皮のマントで豪華な銀飾りがしてある。それを身にまとっているということは、彼がそういう決断をしたということ。本当に立派になっちゃって。


「レヴィアちゃんのことは?」と声をひそめた。


 後ろの鏡越しにこちらを見ている聖王国の偉い人たちが待っている。だけど、一番大切なことだから本人からちゃんと聞いておきたい。あの娘をお嫁さんにするのは、ぶっちゃけしゅうとめとしては大変そうだ。


「うん、ちゃんとする」

「結婚?」


 とハッキリと聞く。息子には物事を曖昧にする良くない癖がある。


「うん。結婚するよ」

「そう」とため息をつく。「だったらちゃんとしなさい。お母さんに頼らないでよ。大変なんだから、あの娘のわがままに付き合うの」

「うん、知ってる」


 思わず笑ってしまう。あの娘には色々と振り回されてしまったけれど、まぁこちらも楽しんでいたのも事実だ。


「レヴィからこれを母さんに」とソーヤが差し出したのは、銀糸の指輪だった。

「あらあら」

「親指の綾取りの指輪だって。それとはやく漫画の続きが書きたいから、またこっちに来るって」


 言ったそばから、もう嫁の面倒を見させるつもりか。

 まったくどう育て方を間違ったものか。立派なマントと鎧をつけても、まだまだ甘えん坊なんだから。


「はいはい、分かりました。私も黒薔薇会のみんなと久しぶりにお茶したいし」


 ようやく魔術とか喫茶とかが分かってきて、あっちの世界の生活も楽しくなってきたところだ。次はお酒を造る魔術を極めたい。戦争とかになったら、レヴィアちゃんに押し付けてやる。


「だったら薬指はお返しするわ。ほら、手を出しなさい」

「うん?」

「はめてあげるわ」


 薬指に結んだレヴィアちゃんとの銀糸の指輪を外す。

 その瞬間、綾取りの霊的な結合とやらが切断されたせいなのか、心にぽっかりと穴が空いたような喪失感が沸いた。指輪がもたらす心理的な影響はこれほどに大きいのか。


「ほら、手をだして」

「うん」

「ちゃんとしなさいよ。あの娘はまだ若いし、癇癪持ちだし、しかもお嬢様なんだから苦労するわよ。ウチみたいな庶民とは金銭感覚からして違うじゃない。お母さんはね、本当は宗谷にはちゃんと支えてくれる大人の女性が良かったのに、なんて思うわけよ」

「う、うん」

「まぁ、でも良いところもあるわね。頑張り屋さんだし、あなたのことが大好きね。後は、う〜ん、……」

「BLが好き」

「そう、それね。嫁から、しゅうとめが腐女子なのよ、なんて言われる心配はないものね」


 そう考えるとこれは良縁なのかもしれない。腐女子に生まれてしまった最大の業から逃れられたのだから。

 などと考えながら、息子の薬指に綾取りをはめてやる。


「どう? 結婚した感想は」

「う〜ん、まだ正直、実感はあんまり」


 息子はちょっと素直に育てすぎた。


「それ、レヴィアちゃんの前で言ったらダメよ。あの子は腐女子だけど乙女でもあるから。宗谷のそういうドライな言い方に傷ついちゃうわ」

「言わないよ。多分」


 子供みたいに顔をしかめて見せる宗谷の肩を叩いて、後ろの鏡の方を向かせる。


「ほら、偉い人たちを待たせたらダメ。さっさと行ってきなさい」

「はい」

「たまには帰ってくるのよ」

「はいはい」

「好き嫌いもダメよ。ニンジンとか」

「分かってるよ」

「ヴァン様によろしくね」

「もう、母さんの推しとかどうでもいいから」


 息子は恥ずかしそうに身をかがめて、聖壇へと戻っていった。


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